魔術師たちの昏き憧憬 #5
「失礼。――お怪我はありませんか?」
驚かせないように控えめに声をかけたつもりだったが、それに対する反応は過敏であった。
びくりと大きく肩を震わせた妹は、彼女にとっては突然現れた背の高い男に対し、外套の下に覗く端正なつくりの顔を恐怖で歪ませた。
その反応に少なくないショックを受けるトキヤであったが、しかたがないことかと思い直す。あれだけ懸命に走っていた手前、何か事情があるのだろう。
表情を崩さず強ばらせず勤めながら、敵意がないことを示す。約三メートルほどの距離をおいているのは、すぐに距離を詰めてしまうのは得策ではないと判断してのことであった。
「驚かせてしまったのなら、申し訳ないのですが。もし怪我をなさったのなら、すぐにでも――」
そこまで口にした時だった。
女性二人が駆け出してきた路地から、四つの影が現れた。
同じ漆黒色のローブを身にまとった、背格好も同じくらいの奇妙な集団。
トキヤの反応が一歩遅れたのは致し方のないことだった。なにせ、そいつらには"足音がまったくなかった"のだから。
「……っ!?」
影どもの行動は速い。
彼らは自分が追い回していた姉妹の間近に立つトキヤを認めても逡巡すら見せず、動けずに居る彼女らを捕らえようと一斉に動き出した。
トキヤがそれらの気配に感づいたのは、まさに影どもが姉妹に躍りかかろうと行動を開始した直後のことであった。それからの思考の決定は一瞬であった。トキヤは影どもの行為がなにがしか悪意を含んだものであると判断すると、右手に抱えていた時計を、咄嗟に陣形の中心部めがけて投擲した。
小さな置時計は難なく躱されてしまったが、それにより陣形に乱れが生じた。生まれた隙は決して大きいものではないが、トキヤが立ち位置を変えるための時間稼ぎにはなったようだ。
トキヤは影たちから見て姉妹を庇うように位置をとった。そこでようやく、それらのねっとりとした害意を含んだ眼差しが、自分にも差し向けられたことを感じ取る。
ようやく向けられた敵意に錆び付いていた闘争心を漲らせ、トキヤは油断なく陣形を立て直す影たちを睨めつける。どうやら相手は"こういった行為"に慣れているらしい。はじめから面倒な事はせず、障害と認めたなら全力で油断なく排除を試みる。そういった意識が伺えた。
(……さて、とっさに庇ったはいいが、これからどうしよう)
なんとか最初の奇襲だけは往なすことができたものの、相手は四人。対するこちらは十全に動ける者が一人きり。多勢に無勢もいいところだ。
想像以上の状況の悪さに、トキヤは内心の焦りを隠すのに必死だった。
一応、素人やその辺りのやくざ者を往なす程度の武術の心得はある。けれどトキヤのそれは叔父のそれほど洗練されたものではないし、本格的な戦闘を想定して習得したものでもない。単に振りかかる火の粉を払うためのものでしかなく、トキヤ本人も「自分は荒事が苦手だ」と自負している。
型のようなものが見られないため、目の前の影どもが武術の類を習得していないのは確実だが、殊「場馴れしている」という点では影どものほうに圧倒的に分があると言えた。彼らは自分たちの「利」を理解している。それに加え、利に任せて押し切ろうとせずに崩れた体勢をすぐさま整えたことから、仕事に関する油断のなさも持ち合わせているようだ。
(――だめだ。手が足りない。せめてあともう少し時間を稼げればなんとか……)
相手が自分よりも大人数である以上、この場を切り抜けるには一人ずつ確実に相手をして潰していかなければならないだろう。だが、開けた場所ではその方法を取ることが出来ない。せめて狭い路地に逃げこむなどして、一度に対峙する人数を減らしたいところだが、姉妹はまだその場から動けそうにない。彼女らが動けるようになるまで時間を稼げないかとも考えたが、姉の疲弊具合は相当のようで、回復にはかなりの時間を要しそうであった。すぐに立って走ることはできないだろう。もしかしたら、そもそも体調に問題があったのかもしれない。
――万事休すか。
じりじりと再び距離を詰めようとする影ども。トキヤは差していた傘を盾にするようにしてかざし、その動きをけん制する。一人ずつ相手取るなら素手のほうが良いが、この状況下ではカバーできる範囲が多いに越したことはない。
このままではジリ貧だが、こうなった以上はなるべく時間を稼ぐほかはないだろう。それですぐにどうにかなるものでもなさそうだが。
半ば自棄(ヤケ)な思いで傘の柄を握りしめ、息を呑む。緊張感が募る中、突然大路に降り注ぐようにして、女のわざとらしい大声が聞こえてきた。
「おっまわりさーん。こっち。こっちでーす! 不審者が女の子を攫おうとしてまーす! 早く早くーう」
ぎょっとして一瞬視線を逸らしたのは、トキヤばかりではなかった。
影どもはぴくりと体を震わせて動きを止めると、それから少しの迷いも見せずにその場から逃げ出した。
トキヤは構えていた傘を前方につきだしたまま、唖然と影どもが消えていった路地裏の闇を見つめる。いっそ呆けてしまうくらいのあっさりとした引き際だ。
……トキヤも一瞬気を取られたが、今の女の声がハッタリだということにはすぐに気がついた。
警邏の人間が詰めている務所はこの大路から離れた場所にある。当然、この現場に警邏の人間を寄越すには悶着を確認したうえで務所に駆け込まなくてはならないのだから、どう計算しても時間的な猶予が足りない。まず人の足ではこのタイミングで警邏の人間を伴って駆けつけるなどというマネは不可能だ。つまり、声の主はこの現場を目撃した瞬間に叫んだのである。
トキヤが警戒を解かぬうちに、周囲の民家から今の時間にヒマを持て余している人々―― 主に老人や婦人―― が顔を出し、雨音ににわかに喧騒が混じり始めた。
女の本当の狙いはこれだ。ほんとうに警邏の人間をこの場に連れてくることは出来ないが、騒ぎを起こせばひと目が集まることが期待できる。
この町の人間には他人の面倒事に極力関わらないようにしている淡白な者が多いが、傍観者の立場から事情を見つめようとする、潜在的な好奇心を秘めた者もまた多い。
「助けて」と叫んだところで手を貸してくれるような者は居ないが、すでに面倒事を片付けるための警邏が呼ばれているとなれば話は別である。野次馬をするために顔を出すだろう。……それがわかっていたからこそ、影どももあっさりと身を引いたのだ。
――その発想はなかったな。
トキヤはようやく肩の力を抜いた。
最初から渦中へと巻き込まれた分、そうやって周囲の気を引く手段に思い至らなかったのだ。
傘を差し直し、濡れて額に張り付いた前髪を払う。「ひと攫い」という言葉から自分に訝しげな視線集中していることになどまったく気づかないまま、トキヤはさきほどまで貼り付けていた剣呑な表情を消し去り、座り込んだまま目を白黒としている少女二人へと声をかけた。
「改めてお伺いしますが、どこかお怪我は?」
「足を、少し…… 擦りむいたみたい」
答えたのは、未だ苦しげな吐息を繰り返す姉のほうだった。
声も顔つきも似ている。――が、妹と比べると気の強さがハッキリとその表情に浮き出ていた。あれだけの目に遭い肉体的に憔悴しきっているものの、心は未だ弱ってはいないようだ。
「それはいけませんね。雨も降っていますし、すぐに消毒しないと」
シュトの雨は、黒い。
工場が吐き出す有害物質を多分に含んでいるのだ。この雨に触れることで、傷口から何が入り込んでくるかわかったものではない。
「ボクの家に道具があります。あなた方さえ良ければ、お連れしたいと思うのですが……」
一度庇ったのだ。最後まで面倒を見るのが道理だろう。
純粋な親切心―― あるいは老婆心からの申し出に、姉妹は顔を見合わせる。迷っているのだ。助けられたとはいえ、トキヤもまた素性を知らぬ相手。当然のことであろう。
トキヤはすこしばかり待って返事がないと、懐から最近ようやく誂えたばかりの名刺を取り出し、姉妹にそれぞれ手渡した。
「申し遅れました。――ボクはトキヤ・カンザキ。この近くに事務所を構えている、探偵です」
雨に打たれてしおれていく名刺に目を落としていた姉妹は、トキヤの名を聞くと大きく目を見開いた。その反応に少しの予兆を感じ取りながらも、トキヤはそれが決して悪くない反応だと感じた。
――やがて、姉と妹が頷き合う。言葉は交わしていない。彼女たちの意思の疎通には、それだけで充分なのであろう。
「いいのかしら。お世話になってしまっても……?」
伺うような文句で肯定の意を示したのは、姉のほうだった。
「ボクから申し出たことですから。遠慮なさることはありませんよ」
「そう? ……じゃあ、お節介になろうかしら。それと―― さっきは助かったわ。ありがとう。それと、ごめんなさい」
「いえ、結局ボクは何も出来ませんでしたから。ご無事で何よりです」
「私たちの用が済んだら、必ず弁償するわ。覚えておいて」
「……弁償?」
思わず首をひねるトキヤ。何のことを言っているのかさっぱり、という表情だ。
姉妹はそろってバツの悪そうな顔をして、遠慮がちに一方を指さす。その行方を目で追ったトキヤは―― 硬直した。
「だって、アレ。あなたのでしょ?」
「…………あ」
黒い雨水の滴る路面。叩きつけられ、無残に破損した小さな置時計の姿が、そこにはあった。
――こうしてトキヤ・カンザキはこの日、直したばかりの時計を失い、奇妙な縁を手に入れたのだ。
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