魔術師たちの昏き憧憬 #4


 トキヤの現在地は二十五番地区。住処は二十四番地区に位置している。


 番地は隣り合っているものの、実際の帰路は案外と距離がある。それというのも、シュトが四つの大きな市が合併してできた巨大都市メトロポリスだからだ。


 二十四、五番地区はともに港からやや離れた平民層が暮らす住宅街であるが、両者の間には汽船が行き来できるほどの幅を持った河川が横たわっている。当然往復するために橋を渡る必要があるのだが、歩行者用の橋は街の中心部に近い位置に架かっているため、トキヤが二十四番地区の奥まった場所にある自宅に帰りつくには、大きく迂回しなければならない。……それがたかだか隣の地区に移動するために、一時間もの時間がかかってしまった理由なのだ。

 なぜこのような不便が放っておかれたままなのかと問われれば、基本的に「徒歩で区間移動する必要がない」からという答えを返す他ない。


 シュトには公営の交通機関が整備されている。環状に配置された路線を走る蒸気機関車に乗りさえすれば、どんなに長くても区間移動に十分以上はかからない。おまけに市民は格安で利用できるとなれば、わざわざ歩いて区間移動をしようなどと考えるのは余程のもの好きか、資金繰りに逼迫した貧乏人くらいのものだろう。


 ちなみにトキヤは後者である。

 正確に言えば機関車に数十回乗る程度の資金は未だ持ち合わせていたものの、今後のことを考えると無駄遣いは少しでも減らしたい、という気持ちから徒歩を選択した。焼け石に水のような気がしなくもないが、その日が予定のない日だったこともあり、トキヤは歩くことにした。


 ……が、すぐにそのことを後悔することとなる。


 それでなくとも濃い霧のせいで痛む喉に汽車を利用しなかったことを悔やんでいたトキヤだったが、いよいよ二十四番地区に辿り着いたころに雨が降りだした時には、肺の中に落胆の塊を止めておくことができなかった。

 激しい通り雨である。

 汚染物資のせいで黒く濁った雨水が傘を穿つ音を耳にしながら、トキヤは重い足取りで住処への帰途を辿っていた。


「妙にケチらず汽車に乗っておけばよかったか……」


 コートのポケットに押し込んだままだった小銭を指先で弄び、吐息とともに後悔を口にする。

 もう少し早い段階で雨が降ることを予見できていればこんな事にはならなかったはずだが、いかんせんシュトの空はいつでも濁っているため、降雨の兆しに気づきにくい。

 トキヤが雨の兆しに気がついたのは、すでに徒歩で道半ば以上に到達した頃であった。

 それでももう少しは持つだろうと踏んで足を早めたのだが、結果は現状のとおりだ。結局トキヤの帰宅を前に雨は降り出し、彼は大いに体を冷やす羽目になった。

 コートの肩口に付着した黒い雨滴を払い落とし、トキヤは雨音以外に何も聞こえてこない路地を見回す。


 住宅街という性質上、昼間の人通りは少ない二十四番地区であるが、濃霧の挙句に雨の降りだしたその日に限っては、いつも以上に人通りが少ないようだった。

 蒸気機関の本場の王国の町並みに似せて作られた街路は、そのほとんどが近年になって建てられた真新しい物件によってその両端を囲われているが、石造りの建物が物々しく立ち尽くす様は、経年によって得られる威厳を差し引いてもそれなりの迫力を生む。

 さらに今のような雨天時や夜間など、天候や時間帯によってはその迫力は何倍にも増すのだ。これではさながらゴースト・タウンである。

 すでにシュトに住み始めてから六年の歳月が経とうとしているが、もともと田舎者だったことも手伝ってか、トキヤは未だにこの大都市が垣間見せる「恐ろしさ」に慣れきっていない。


 ――否、慣れてしまってはいけないのだ。


 トキヤが恐れるのは、正体のないゴーストなどではない。ガス灯の光が届かぬ闇に潜む悪意ある者たちだ。

 トキヤの想像力は、灯りの乏しさに歪んだ視界の奥、ちょっとした建物の影にも襲撃者の気配を生み出す。……もっとも、それはただの妄想にすぎないことはトキヤ自身百も承知であるから、それで平静を乱されることはあり得ない。


 単に、視界が悪いからいつもより神経過敏になっている。ただそれだけのこと。

 そんな無意識の警戒の網に不穏な物音がひっかかったのは、いよいよ住処が目と鼻の先に迫った頃合いであった。


(…………ん?)


 激しい雨音に混じり、別種の音が耳に届く。

 路面に溜まった雨水が跳ねる音。微妙に調子に乱れがあることから、それが少なくとも一対のものではないことがわかる。

 足を止める。目を細めて睨みつけた先、建物と建物の感激に出来た小さな路地の奥。

 複数人の足音が真っ直ぐトキヤのほうに向かって響いてくる。何者かが走りこんでこようとしているのだ。


 このような雨天時、視界が悪くやくざ者が多い路地を歩く人間などというのは、大概ろくなものではない。ただの歩行者と高を括るのは愚かである。トキヤは息を呑み、横合いからいきなり襲い掛かられるリスクを想定し、路地の直線上から退いた。

 次第に輪郭を持ちだした足音に耳をそばだてながら、トキヤは足音の主が姿を現す瞬間を待った。

 そのわずかな合間にも、トキヤの感覚や思考は目まぐるしく回転する。

 よくよく聞き分けてみれば、足音とは二人分。音の感覚は短く軽い。歩幅が小さいように思えることから、両者ともに女性なのではないかという憶測が立った。

 女性が二人、雨天の中を疾走している。

 自分が想像した絵面に、トキヤは眉をひそめた。

 ゼロというわけではないが、女性の路上犯罪者は少ない。非力な女性は、加害者よりも被害者であるケースが大多数だ。


 ――まさか、誰かに追われている、とか。


 例えば、もっと離れた別の場所で犯罪者に襲撃された一般人が、遮二無二逃げまわっているとか。

 トキヤがそんな場面を想像していると、目の前の路地からひとつの影が飛び出してきた。

 外套を目深にかぶっているために正体は伺えないが、小柄で華奢なシルエットは、確かに女性のものだ。

 バネの利いた良い走りっぷりである。雨水の溜まって具合の悪い路面をもろともせず、きれいなターンを決めると、ちょうどトキヤの自宅方面に向けて再び駆け出した。

 唖然と人影を見送っていると、十秒ほど遅れて別の人影が路地から姿を現した。

 最初の人影と変わらぬ小柄で華奢なフォルム。こちらも間違いなく女性だろう。お揃いの外套といい、並んで立たれたら見分けがつかなかったに違いない。

 明確に違っていたのは、二人目の女性の調子があまりに乱れていたという点だ。

 走ってはいるが、息も絶え絶え。それでもなお気力を振り絞っている―― という風情。

 あれではいずれ力尽きるだろうというトキヤの見立ては正しく、一人目を追ってターンをしようとした二人目は、雨水に足を取られて派手に転倒した。

 バシャリ、と派手な音を立てて弾ける黒い雨水。倒れた人影はすぐに立ち上がる素振りを見せない。


 どこか怪我でもしたのだろうか。さすがに放っておくのも忍びないと思って駆け寄ろうとしたトキヤだったが、


「おねえちゃん!」


 それよりも先に、悲壮感のこもった叫び声を上げながら、先を行ったはずの一人目―― 叫び声からしてどうやら妹らしい―― が駆け戻ってきた。

 倒れた姉は助け起こされたが、それからすぐに立ち上がることはできないでいる。すでに体力の限界だったのだろう。妹が何事かを必死に呼びかけているが、それにすら反応できないようだ。

 目の前で繰り広げられる非日常的光景。

 トキヤはそれにあからさまな面倒事のにおいを嗅ぎ取りながらも、そのまま見ないふりをすることができなかった。


 叔父からは再三『自分から面倒事に首を突っ込むな』と説き付けられてきたトキヤだったが、さすがに弱った女性を前に見て見ぬふりをしてしまっては、彼自身の矜持に傷がつこうというもの。

 ため息をひとつこぼすと、必死なあまりにトキヤの存在すら気に留めていなかったらしい姉妹に歩み寄る。

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