魔術師たちの昏き憧憬 #3
「一分四十五秒の遅刻だよ、キミ」
シュト市二十五地区の一角。『トキトウ工房』と銘打たれた、ふるさびた店がある。
傘を畳みつつ、いささか窮屈なエントランスに身を押しこむようにして入店したところ、それを認めた店主が開口一番放った言葉がそれであった。
「……さすがに誤差の範囲内でしょう」
トキヤは店内の壁にびっしりと並べかけられている時計の数々が示す時刻を確認すると、呆れを含んだ声でそうこぼした。午後十二時三十一分。――今まさに三十二分になろうかというところ。
金を払って依頼している手前、トキヤはこの店にとって立派な顧客である。その客に対してあまりに不遜な店主の態度に、しかしトキヤは呆れ以上の感情を抱かない。そう長い付き合いではないが、店主の男―― カナメ・トキトウの性格はよくわかっているつもりだ。
細面で神経質そうな見た目に違わず、カナメは常に苛立っている。何が彼をそこまで駆り立てるのかは不明だが、とにかく時間に細かくうるさいのだ。
一分一秒単位の浪費にまで過敏に反応するものだから、たとえ彼の言動に苛立ったとしても、必要以上に反論するのは避けたほうが良い。余計に機嫌を損ね、対応が面倒になることうけあいだ。
カナメも文句を言ったり余計な問答をするよりかは、自分の時間を大切にしたがる。言いたいことはそれなりにあるが、互いに損をしないようにしていたほうが得策だろう。
嘆息とともに言葉を飲み干したトキヤは、狭い店内に四苦八苦しながら、カナメの座っているカウンタへと近づいた。
カナメはトキヤが近づいても何かを言うでもなく、黙々と手元の作業に集中している。カナメは態度こそ悪いものの、技師としての腕は一流だ。時間を惜しむのにもある程度うなずけるというもので、彼のスケジュールは時計の修繕の予定で埋め尽くされている。
一応時計の販売店でもあるようだが―― そちらの業績はあまり芳しくない。時計自体の出来は無論申し分がないものだが、施された意匠が独創的であることからか、一部の好事家を除いて彼の作品に手を出す者は少ないのだ。
(相変わらずなんというか―― 独特なセンスだな)
トキヤはもう一度カナメに声をかける前に、店内を見回した。
売り物の時計の数々はそれぞれ正確な時間を刻んでいるが、その造形はどこか歪んでいる。まず左右対象なものはひとつとして存在せず、四角形や三角形などの「角」が存在する造形のものもまた存在しない。
全部が全部見ようによっては気味の悪い曲線でもって構成されており、実用性を無視したある種の芸術作品のような雰囲気を醸している。このような不思議な逸品を好む人間がいるというのだから、世の中分からない。トキヤには理解できない領域だ。――もっとも、理解できたとしてもカナメの時計は値段が高過ぎる。技倆の割に安価な修理費と比べると、あまりのギャップに目眩すらしそうなほどに。
「仕事は終わってるよ」
トキヤがぼんやりとしていると、唐突にカナメがそんなことを言う。……と、同時に傍らのラックに置いてあったトキヤの置き時計をむんずと掴み、トキヤの目の前に叩きつけるようにして置いた。
この男、自分が作った時計と壊れた時計は丁重に扱うくせに、自分で直してしまった時計の扱いは粗雑であった。不可思議な感性だが、それについて尋ねたところでまともな回答が返ってくるはずもない。基本的にまともな感性の相手と彼の間には会話が成立しないのである。
「異常がないかどうかだけ確かめたら、さっさと出て行ってくれるかな。見ての通り忙しいんだ。時間は無駄にできない」
トキヤの顔を見ることなく、淡々と作業を続けながら早口で言い放つ。縁無し眼鏡の奥の瞳はいかにも眠たげだが、半分まぶたが下がっている様子は彼が集中しているという証左だ。
仕事だけは正確である、という評価に疑いようはないが、トキヤは一応手元に返って来た置き時計の様子を見る。小さなガラス窓の内側の機構は、規則的に軽い駆動音を響かせながら、問題なく作動しているように見えた。時刻の設定も完璧である。
「……確かに。また何かあれば頼みます」
トキヤの言葉に軽く手を掲げて答えるカナメ。一応、彼なりの礼節は存在しているようである。
カナメなりの挨拶を受け取ったトキヤは、それ以上何を言うわけでもなくトキトウ工房をあとにした。
「……霧が濃いな」
店を出、周囲を見回してひとりごちる。ねっとりと鼻の粘膜に張り付くようなにおいが濃い。
シュトは空から降り注ぐ灰煤のおかげで年中視界が悪いが、日によって普段よりも視野が開けている時もあれば、逆に見通しが悪くなることもある。
その日は後者であった。
歩行に支障が出るほどではないにしろ、視界の範囲が狭まるのはいただけない。特に人通りの少ない地域などは、視界の悪い時を狙って通り魔的な凶行に及ぶ者が出没することも多いので注意が必要だろう。
シュトは海外からもたらされた蒸気機関技術によって大躍進を遂げたが、光あれば影もあり。犯罪検挙率と発生率は比肩するように上昇し続けている。
トキヤには特別身辺を警戒するだけの理由はないが、わざわざ歩きにくい時にむやみにうろつく理由もない。
(さっさと帰って大人しくしていよう。……どうせ今日も休業日になるだろうし)
自らの生活苦を鼻で笑いながら、トキヤはやや早足で帰途についた。
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