魔術師たちの昏き憧憬 #2
――同日、午後一時半過ぎ。シュト市二十四番地区。
「……おねえちゃん、そっち、右じゃない。左……」
「そうだったかしら」
困惑気味の声に制され、レイカ・アカギリは手元の地図に目を落とす。
地図は手書きであったが、驚くほど精緻にできている。建て増しに建て増しを重ねて複雑な迷路と化した、シュトの平民街。そのほとんどを網羅し、そもそもこんな場所を歩き慣れていない彼女らのために「たどるべき道筋」まで記された親切な地図。
そんなものを携えているにもかかわらず、レイカの足取りは混乱していた。
レイカが重度の方向音痴であるという事実はない。彼女が現在道を見失いかけている理由については、つい今しがた進路の修正を口に出した女性―― レイカの妹、フウカ・アカギリが深く関与している。
レイカは嘆息しつつフウカを連れて、路地を改めて左手側に曲がった。もう一度手元の地図に目を落とすが、すでにレイカには自分が今どこに立っているのかすら判断ができない。なぜなら、地図に書き込まれた「たどるべき道」からはすでに逸脱してしまっているからだ。
「……ホントにこの道で大丈夫なんでしょうね?」
「うん、大丈夫。間違い、ない」
レイカの問いに、フウカは彼女の性格にしては珍しく、迷いなく首を縦に振った。
レイカはそれ以上疑念を口にしようとはしない。そもそも、最初から妹の「能力」に関して疑いは持っていなかった。自分たちが予め用意された道順を外れ、最短の距離で目的地を目指しているという行為に対する不安から思わず口にした言葉だったのだ。
(……なんでわざわざ遠回りするようになっているんだろう)
レイカはフウカの指示通りに歩を進めながら、なおも地図を見つめ続けた。
地図は周辺の地形を完全に補完しており、出発地点から目的地までの最短距離も明示されている。しかしながら、この地図を書いてよこした人物が「この道を通るべきだ」と加えた注釈は、明らかに余計な手順を踏ませている。
ひとつの手順で済むようなことを、あえてみっつの手順でやらせているような。たとえるならばそんな回りくどさがある。この注釈通りに歩いていたら、最短距離を行くよりも倍近く時間がかかるだろう。
それは正直面倒くさい。……というわけで。
地図を"完璧に記憶した"フウカの案内のもと、レイカは最短距離の道を歩んでいるのである。
(けど、なーんか気になるのよね)
「面倒だ」と言い出したのはレイカのほうだ。フウカはそれならば…… と自分の持てる力を使ってそれに応じたに過ぎない。だというのに、いざ最短距離を歩んでみれば、レイカは言い知れぬ不安に苛まれることになってしまった。
無論、地図を見てもどこがどこだかわからなくなっているという現状のせいもある。しかしそれよりも、何か本能的な―― 生理的な「恐れ」が先程から背中を這いまわり、ぞくぞくと不快な感覚を与えてくる。
これはどうも、異常だ。
レイカは顔を上げると、歩を止めずに周囲の様子を見渡した。
人気はない。ひっそりと石造りの建物が並ぶほかは何もなく、街灯のおぼろげな光が周囲を照らしている。地図にすら記されていない細い路地にはこの街特有の煤にまみれた闇がたまりこんでおり、奥の様子はほとんどうかがうことが出来ない。
普段よりも濃い霧のなかに漂う
塵芥避けのための外套の襟元を手で絞り、レイカはネコのように体を丸めた。
なんだかイヤな予感がする。ネットリとした視線が向けられているような錯覚さえ―― 否。
(錯覚じゃ、ない……!)
レイカはその生い立ち上、他人からの好奇の視線を受け慣れている。他人の視線には敏感だ。
その時レイカが背中越しに感じた視線は、普段受け慣れているものとはまったく別種のものだった。
害意。悪意。殺意。またはそれに準ずる
それがどこからか向けられている。場所までは特定できない。
いったいなぜ今の今まで気づかなかったのか。一度認識した傷跡が痛み出すように、焦燥感が一挙に押し寄せてくる。
冷や汗がどっと溢れた。レイカはようやく回りくどい注釈の意味を理解できたような気がしたが、達成感に浸っているいとまはない。同時に自分たちがどうやら大きな過ちを犯したらしい、ということにも気づいてしまったからだ。
「――フウカっ」
妹の名を呼ぶ。
すっかり記憶の通りに道を歩むことに集中していたらしいフウカは、驚きに体を震わせてその場で硬直した。それは完全な悪手であった。フウカを驚かせてしまったこともそうだが、レイカは自分たちの存在を認識しているということを、悪意ある何者かに知らしめてしまった。
拙い。焦燥感に突き動かされるようにしてフウカに走り寄ると、レイカは乱暴にフウカの手を取り、引いた。
「走るよ! 早く!」
「え、あ――」
目を白黒とさせながら、走りだすレイカに追従するフウカ。
姉妹が通りすぎたそばから、闇に濡れた路地からいくつもの影が飛び出してくる。
それらは漆黒のローブを身にまとっていた。数は五。
彼らは一度道の真中で集まると、頷き合ってなにがしかの意思の疎通をはかった。一人の黒ローブが姉妹の走り去った方向とは逆の方向へ走り出すやいなや、残りの四人は姉妹を追って駆け出していった。
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