第七話 第三の襲撃 五

 かくして、俊夫と女将、大番頭、榊原の四人による夜回りが始まった。

 夜回りは、二人一組となって一時間交代で行なうことになる。

 そして、意外だったのはてっきり女将さんを守ると思われていた俊夫が、大番頭と一緒に夜回りをすることにした点だった。

 不満げだった静子も、さすがに俊夫と一緒に回りたいと言い出す訳にもいかずにそれに従ったが、夜回りの最中の機嫌は最悪だった。

 頭から湯気を出している静子の後ろを、榊原が苦笑しながら歩く。それが四日目に突入したところで、流石に榊原も可哀想になって言った。

「姉さん、そろそろ兄貴を許してあげましょうや」

 なにしろ、ここ三日間、静子は俊夫と一言も言葉を交わしていなかった。

「許すって、何をですか!」

 静子はものすごい剣幕で榊原に食ってかかる。榊原はそれを穏やかな目で見つめながら言った。

「こんなに腹を立てている姉さんを見たのは、俺は後藤の件の翌日の剣幕以来、二回目だ。いつだって人のことを考えている姉さんも、佐藤さんのことになると全然いけないね」

「……」


「そんなに佐藤さんのことが好きなのかい」


「信ちゃん、急に何でそんなことを――」

「そんなに佐藤さんのことが好きなのかい」

 榊原は繰り返す。その声の奥底に潜む切実な感情に、静子ははっとした。

「信ちゃん、貴方――」

「俺のことはこの際、どうでもいいんだよ。俺はさっきから一つのことしか聞いちゃいない。そんなに佐藤さんのことが好きなのかい」

 榊原はあくまでも静かな声で繰り返す。

 静子は項垂れて、しばらく黙った後で、ぽつりと言った。


「うん」


「そうかい。そいつはよかった。これで俺もふっきれた。兄貴にはかなわないからな」

「信ちゃん」

「でもよ、姉さん。兄貴と一緒にすると苦労することになるぜ」

「そんなことはないわ。佐藤さんはとっても優しいし、頼りがいがあるから」

「おいおい、いきなり惚気かよ。でもね、姉さん。兄貴には駄目なところが一か所だけあるんだよ」

 榊原の意外な言葉に静子は唖然とする。

 榊原はにやりと笑って言った。

「兄貴は女心がてんで分かっちゃいない。はっきり言わないと全然ダメなタイプだよ、あれは」

 静子は、四日目にしてやっと笑顔を見せた。

「そうね。佐藤さんは全然分っていないわね。この私がどんなに愛しているのか。今度じっくり談判しないといけないわね」

「その意気だ、姉さん」

「ふふふ」

 一頻り笑った後、榊原は真顔に戻って言った。

「幸せになりなよ、姉さん」

「うん」


 *


 同時刻。


 俊夫は大番頭とともに従業員控室にいた。

 俊夫は既に気がついていた。その日の大番頭の様子は、いつもと明らかに違っていたのだ。

「大番頭さん、なんだかさっきから落ち着きがないね」

「いやなに、旅館の行く末のことを考えていたら落ち着かなくなっただけですよ」

 そう言って大番頭は湯呑を取ろうとする。

 しかし、取り損ねて湯呑は倒れ、中のお茶が机の上に広がった。

「ああ、これはいけないね。確かにいつもの私らしくないですね」

 おどけた様子で雑巾を取ろうと立ち上がる大番頭の背中に、俊夫は言った。


「大番頭さん、もうそろそろ幕引きにしませんかね」


「何を言っているのか分かりません。私は別に何も――」

「見たんですよ。大番頭さんがタイヘイの裏口から中に入るのを」

 俊夫は断言した。実際は中に入るところまで確認していなかったが、同じことである。

 大番頭の背中が震えだしたからだ。

「いや、なに、それは会合があって――」

「なにも旅館の裏口から出て、こそこそ路地を歩いて、向こうの裏口から中に入ることはなかったんじゃありませんかね」

「……」

「俺はね、大番頭さんが私利私欲で旅館を売り渡したとは思っていないんです。何か事情があってのことだと睨んでいます。特にね、女将さんのためを思ってやっているはずだと思うんですよ」

 女将さんという言葉のところで、大番頭の背中は大きく揺れる。

「娘同様に思っている女将さんの今後が心配でやったに違いない。このまま経営の厳しい旅館の女将を続けさせるよりも、別な生き方のほうがもっと女将さんのためになる。そう思ったんじゃありませんか」

「……」

「でもね。女将さんから旅館を奪っちゃいけないんです。女将さんにとってここは自宅で、従業員は全員家族だ。それを奪っちゃいけないんですよ。よりにもよって家族である大番頭がね」

 大番頭の身体が静かに震え出す。

「たまに遊びに来ればいいと思っているんじゃありませんか。それは無理ですよ。相手がどんな人間か俺は知らないが、このまま旅館を続けさせてくれる程、温情溢れる相手ならば正面から来ますよ」

「……」

「きっと一家離散することになる。それでも構わないんですか、大番頭さん」

 その言葉に、大番頭は足を折った。

「……申し訳ございません」

「いえね、分ってもらえれば全然良いのです」

「いや、そういう意味ではありません。私は最低の人間です。やってはいけないことの片棒を担いでしまった」

 大番頭の身体がぶるぶると震えだす。それを見た俊夫は嫌な予感がした。


「まさか、あんた!」


 大番頭の答えを待たずに俊夫は部屋を飛び出した。

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