第五話 第一の襲撃 四
「ああ、本屋さんがありますね」
俊夫が、犬ならば尻尾を盛大に振りそうな感じの声を上げた。
静子は嘆息する。さっきから静子のペースにつきあってもらったので、ここは静子が我慢する番だ。それに、本屋は決してカップルで並びながら歩く場所ではない。
「それでは一時間後にこの場所で」
と約束すると、俊夫は解き放たれた猟犬のように店内に入っていった。この様子では一時間後に呼びに行かないと、時間になっていることにも気がつかないに違いない。
自分もそういう人種だからよく分かる。
大量の荷物は既に車の中に置いてきたので、静子は小さなハンドバッグ一つだった。これも本屋さんに寄ることを前提とした危険予知である。
――それでは自分も知識の大海へと身を投じましょうか。
静子がそんなことを考えていた時、
「あの、大変失礼ですが――」
という声が、後ろから聞こえてきた。
振り向くと、そこには女性が申し訳なさそうに立っている。
長くて癖のない黒髪。切れ長の理性的な目。すっきりとした全身のラインの中で、胸だけが規格外の女性である。どこかの大企業の有能な秘書をしていそうな女性だった。
仕事はクールにそつなくこなし、時には大胆に人を切り捨てることを躊躇しない。利害関係者からは「冷たい女」と思われる一方で、惚れた男には尽くすタイプ。
静子は一瞬の間にそこまで分析する。女将の標準機能をフル活用した必殺の技だ。
目の前のリアル・ツンデレな女性は、丁寧な物腰で言った。
「あの、お連れの方に見覚えがあるような気がして、お声をかけてしまったのですが、御迷惑でしたでしょうか」
――なんですと!!
*
「あらまあ」
本屋の隣にあった喫茶店で、静子の混乱した話を聞いたその女性――
「記憶喪失の上、全裸で道路に倒れていたと、そういうことなんですか」
「はい。そうなんです」
「私の知っている方でしたら、そこまで酷い有様にはならないはずなんですが、それで貴方、お尻に痣があるかどうか見ませんでしたか」
「はあ?」
「お尻です。お・し・り」
わざわざ区切って大きな声で言われなくても分かる。
クールビューティーな大人の女性が、渋谷の喫茶店の中で冷静に「お・し・り」と明解な声で言ったものだから、周囲の人間がいっせいに彼女を見つめた。
しかし厨門はびくともしない。「あら、皆様どうかしたのかしら」という風情で切れ長の瞳を一閃させると、全員がそそくさと視線を外す。
――似ている。実によく似ている。
方向性はだいぶん違うものの、これは俊夫が時折放つカリスマ性に近い。集団の長たる威厳、些細な事にはびくともしない豪胆さだ。
「全裸でしたら、それぐらいは見えたのではないかと思いまして」
――いや、確かに貴方ならばその場でくまなく確認したかもしれませんが。
そんなことを心の中でツッコんでから、静子は頭の中でその時の情景を思い出そうと試みる。
――駄目だ。あまりに衝撃的だったので細部まで覚えていない。
せっかく俊夫のことを知っているかもしれない女性が目の前にいるというのに、即答できない。
「申し訳ございません。覚えていません」
「あらまあ」
厨門は再びそう言った。口癖なのかもしれない。
普通であれば馬鹿にした感じに聞こえるこの台詞も、彼女が言うと「あらあら仕方がありませんね」という柔らかい表現に聞こえる。実際そういう意味だろう。
「まあ、普通はそうですわね」
そう言うと、厨門はハンドバッグの中から小さな手帳を取り出して、携帯電話の番号をそれに書き出した。
「流石に、相手が確認できていないところでその素性を明らかにするわけにはいきませんので。もし痣のことが分かったらお電話頂けませんかしら」
それは見事なほどの「有無を言わせぬ圧迫感」だった。
「はい。それはもう」
有り難くメモを押し頂くと、静子はそれを大切にバッグに入れる。
一方、厨門は静子の一挙手一投足を冷静に眺めていた。その上で、ある結論に達する。
――この女、とても危険だ。
彼が彼女の知る彼であるならば、この女の存在は間違いなく彼女の障害になる。
あの男ならば、このような純真で、可憐で、守りたくなるような可愛らしい女は、頼りがいがあって、背中を安心して預けられるような、自立した女と同じぐらいに、好みである。
――私に力があれば、渋谷ごとこの女を抹殺するところなんだけどな。
そんな剣呑なことを考えているとは表に出さず、厨門は静かに笑みを湛えて、静子を見つめていた。
しかも、さらに大きな問題がる。こっちの彼はどうやら転生していない。
理由は分からないが、記憶を失っているだけで、あっちの世界の彼がそのまま飛ばされてきた可能性がある。そうなると不味い。
力が残っている可能性がある。
そして、この女のためならば例え記憶を失っているにしても、彼は最後には力を使ってしまうだろう。
そうなると渋谷どころの騒ぎではない。群馬県位は軽く吹き飛ぶ。
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