第五話 第一の襲撃 三
休日ともなると渋谷の街は、どこからか沸いて出るのかと思うぐらいに人が多い。まるで群馬県の人間が全員、渋谷に出てきたのかと思うくらいに多い。
東急ハンズの近くに車を止めると、二人は歩いて店まで向かう。さほど距離がないはずなのに、群衆に行く手を阻まれて、静子は右往左往してしまう。
東京から暫く離れていたために、人ごみの中を縫うように歩くことが出来なくなっていた。見かねた俊夫が、
「姫、しからば騎士がお守りいたしましょう」
と言って、彼女の左手をしっかりと握って歩き始めた。
俊夫は巨大である。しかも歩き方が堂々としている。まるで、王が臣民の前に到来したかのように、相手のほうから自然に道を開けた。
群衆の中を二人はゆっくりと歩いてゆく。静子は俊夫の肉厚な右手を見つめていた。
包み込むような手である。
それでいて優しい、柔らかい手である。
夏の日差しの中でも、涼しさを感じる手である。
しかも、彼のエスコートは強引ではない。頼もしく静子を誘導する騎士の歩みだった。
――ああ、いつもこの手で守られていたら。
両親を失って以来、誰かに頼ることをすっかり忘れていた静子は、その掌の頼もしさに感動を覚えた。
いまだに彼が何者なのかは判明していなかったが、このような掌の持ち主ならば連れ添っても一生後悔することはあるまい。そう思える手だった。
「つきましたよ」
俊夫がそう言って手を放した時、静子は、
――ああ、勿体ない。
と、思わず掌を開け閉めしてしまった。
「いやあ、ここも人が多いですねえ」
俊夫はそれに気がつかずに、店内を眺めては驚嘆の声を上げている。
普段は人の心を細やかに見つめている割に、女心の機微に関してはとことん鈍い。それが俊夫である。静子は仕方がないと思うものの、なんとなく不機嫌になった。
「イベント用品の売り場はこっちですよ」
と言いながら、静子はすたすたと歩き始める。
「ああ、待って下さい。すみません、ちょっと強引に歩きすぎましたかね。痛かったですか。いやもう本当に申し訳ありません」
静子の機嫌が急に悪くなったことに俊夫は気がつく。
――まったく、こういう時はすぐ察してくれるんだから。
静子は内心苦笑しながらも、仏頂面をして上り階段を進み始めた。
――癪だから、あと二分間だけは気分を直してあげない。
盛大に謝罪し続ける俊夫の前を歩きながら、静子の口元だけが小さく微笑む。
子供用の花火セットや、飾り物を一通り買い込み終えた時には、静子の機嫌はすっかり直っていた。こんな日に仏頂面がいつまでも続くはずがない。
そして、俊夫は一緒に買い物に行く相手としては非常に好ましかった。
男はだいたいが目的を持って買い物に行く。それを一目散に購入すると、後は別な目的に向かってやはり一目散に進んでゆく。
女は違う。目的はあるものの、その途中で他のものが気になって仕方がない。もしかしたら突然の出会いが待っているかもしれぬと、いろいろと眺めて見たくなる。
この違いが、一緒に買い物に行って喧嘩になる元なのだが、俊夫は静子の寄り道を楽しんでくれた。
店の前に並べられた安物のアクセサリー。それに価値がないことぐらい女は百も承知している。
それでも、自分の感性に嵌るものがあるのではないかと覗き込みたくなる。
こういう時、
「時間がないから、さっさと行きましょう」
と、先を急がせる相手はアウトである。
それから、似合うかと言われて、
「自分にはよく分かりません」
と答える相手もアウトだ。
女は百パーセントの答えなんか望んではいない。
「女将さん、今日は空色の服だからこっちの青いやつのほうが全体的に涼しげでいいんじゃないですかね。それか、こっちの透明なやつ」
そう言われると、なんとなく自分のことを考えて選んでくれているような気分になる。
しかしながら、
「佐藤さん。今日は女将さんはなしにして下さい」
「はあ、それでは霧原さん」
「静子と呼んで下さい」
「はい、分かりました。静子さん」
それでも我儘が言いたくなるものなのだ。
彼のように、女の買い物で振り回されても楽しそうに一緒に歩いてくれる男性は、そうはいない。
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