第五話 第一の襲撃 一
最初の給料が出ると、俊夫は静子が立て替えていた検査費用を返した。
そして、二回分の給料とあわせて、旅館近くのアパートに引っ越した。
静子は、
「出て行かなくても構いませんのに」
と言っていたが、流石に「旅館兼女将の自宅」に同居するのは問題があると考えてのことである。
それに、俊夫の給料で旅館の経営は圧迫されていた。それぐらいに綱渡りの経営が続いていたのだ。
外国人旅行者の受け入れで一息ついていたものの、群馬県の山奥にそう大量に外国人がやってくる訳ではない。
しかも、純和風旅館の雰囲気がどれだけ良くても、坂東が丹精込めて作る和風料理がどれだけ質が高くても、それを堪能できるのはやはり日本人だけである。
日本的なもてなしに満足した外国人も、別にリピーターになったりはしないので、旅館の経営はぎりぎりだった。
ネット時代に入ってからというもの「幽霊旅館」という噂は微妙に情報の海を漂い、時折浮かび上がっては逆に好き者の日本人客を旅館に送り込んでくる。
しかし、そういう客に限って実体験することはなく、逆に「何もないこと」が売名行為のように取り上げられることもあった。無論、それで「出る」という噂が消える訳でもない。
一般人には「出る」と噂され、好事家には「出ない」と噂される。そのような全然美味しくない位置付けの中で、旅館は低空飛行を続けていた。
*
旅館で働くことになってから半年も過ぎると、俊夫は全従業員から愛される存在になっていた。
「佐藤さん、お疲れではないですか」
一仕事終えると、誰かがそんな風に彼に一声かけてきた。
「いや、それほどでもありませんが、ちょっと休憩しましょうか」
俊夫がそう言って腰を下ろすと、すぐに手の空いている従業員達が、その周りに集まってくる。俊夫の周りには常に人の輪が出来ていた。
それで静子が再び寂しい思いをしたかというと、そうでもない。
俊夫は以前よりも頻繁に、静子の元を訪れていた。大抵が従業員達から出ている改善案の相談である。
この頃になると、俊夫と静子と大番頭以外の従業員達は、
「どうやって俊夫と静子を一緒にするか」
という策略を水面下で巡らせていた。そのためにわざわざ、
「佐藤さんから女将さんに言って頂けませんかね」
と、相談事を彼に持ち込んでいたのである。
彼らが貧乏旅館で働き続けている理由は、女将である静子の人徳である。
先代や先々代の時から働いている者にとっては、昔から馴染みのあるお嬢様であり、自分の娘のような存在でもある。
彼女は小さい頃から旅館の手伝いをずっと続けており、親の方針で従業員と分け隔てなく扱われていた。客が多い時には配膳を担当するし、人手が足りなければ寝具の交換もする。
そうやって旅館の仕事全部を知り尽くしてもらおうというのが両親の考え方だったが、彼女は両親の想定以上に努力した。
旅館のお嬢様だからといって手抜きすることもなく、むしろ古株の指示に忠実に従って、仕事を覚えようと努めた。
一緒に働く人々への配慮も決して忘れず、誕生日には何がしかの贈物を忘れなかった。近年、それが侘しいものになっていることが、むしろ従業員の結束を高めるところとなっている。
「我らが女将さんには是非とも幸せになって頂かなければいけない」
これが、半年前の旅館の従業員の総意である。
だからこそ、どこの馬の骨とも思えない俊夫に対して、最初のうちは風当たりが厳しかったわけであるが、半年の間の実績がそれを逆転させていた。
「我らが女将さんには是非とも幸せになって頂かなければいけない。そのためには佐藤さんと一緒にさせなければならない」
これが、その時点での旅館の従業員の総意だった。
それに、いまさら俊夫のいない旅館は誰にも想像が出来ない。それほどまでに彼は人々から愛されていた。
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