第四話 初老の警官

 旅館で働き始めてから一ヶ月も過ぎると、俊夫はすっかり「旅館になくてはならない存在」になっていた。

 突然思い出したように初老の警官が、

「そろそろいいですかねえ」

 と、身元確認にやってきたのはその頃である。何しろ俊夫は戸籍も住民票もなく、国籍も不明な状態であったから、いろいろと不都合が多いのだ。


 まず、国籍の問題である。

 永住権のない外国人は、必ずパスポートと入国許可証、外国人登録証を携帯する必要があるのだが、俊夫はそれを持っていなかった。

 不法入国の場合、本国に強制送還されることになるが、困ったことに彼の国籍自体がどこにあるのか分からない。それに、日本人である可能性もゼロではない。

 その中でも外国人登録証の管轄は都道府県の警察本部であるから、群馬県警本部レベルまでこの問題は報告されていたものの、それを初老の警察官がのらりくらりと抑え込んでいた。

 それでも、さすがに一か月以上となると逃げようがない。このまま放置して出入国管理局が乗り出してくると話が大きくなる。


 加えて、戸籍と住民票の問題がある。

 特に住民票は、外国人でも住所を定めた場合には提出が義務付けられる。住民税の納税義務も生じる。逆に、住民票がないと銀行口座が作れないし、賃貸契約などの契約行為も殆どできない。社会保険にも加入できない。

 もちろん逃げ道はあるが、まっとうな方法ではなかったから、初老の警官としても俊夫の件を本格的に何とかしなければならなくなったのだ。


「すみませんねえ、私の力が及びませんで」

 旅館の客間でそう言って頭を下げる警官に、

「こちらこそ、御迷惑をかけて本当に申し訳ございません」

 と、身元保証人であるところの静子も頭を下げる。彼女は初老の警官がかなり危ない橋を渡っていることに、薄々気がついていた。

「で、記憶は戻っているのですか?」

「いえ、それが全然」

 俊夫は相変らず、自分のことを全然思い出せずにいる。今日は外で、親方と一緒に剪定作業を行っていた。高いところは俊夫の担当である。

「佐々木さんがあんなに楽しそうに仕事をしているのを見るのは、随分と久しぶりですな」

 そう言いながら初老の警官は手元のお茶を飲んだ。

「よほど彼に惚れ込んだと見える。あの佐々木さんがねえ。驚いたこともあるものだ」

 そう言って目を細める初老の警官を、静子は微笑みながら見つめた。

 彼女は聞いたことがある。若い頃の佐々木は、それはもう手がつけられないほどの暴れん坊で、悪名を町全体に轟かせていた。

 その彼を文字通り身体を張って更生させたのは、目の前でゆっくりとお茶を飲んでいる男である。しかも、彼は佐々木が重い罪に問われることのないように庇うことまでした。

 そのことが後々問題になって、街の交番勤務から先に進めなくなったことも聞いていた。今も同じように俊夫を庇って、危ない橋を渡っている。

「どうして彼のことを庇うのですか?」

 思わず静子がそう訊ねると、初老の警官は、

「はて、どうしてですかねえ。昔から、なんだかあんな『外見と内面に乖離がある人物』には弱いんですよね」

「佐藤さんの外見と内面に乖離がある、ということですか」

「はい。お気づきになりませんか?」

「あの、全然」

「そうですか」

 初老の警官は、中庭で声を掛け合う俊夫と佐々木を眺めた。

「似た者同士なんですよ。彼らはね」


 *


 県警本部に提出する書類を作成するために、俊夫が発見された時の状況や現在の生活ぶりなどを細かく聞いた初老の警官は、

「私が出来ることはここまでです、それでは」

 と言って腰を上げた。静子も黙って腰を上げる。何か最後に俊夫に有利なことを言いたかったが、彼女が言えることはすべて言い切っていた。

 二人で黙々と廊下を進む。その間も静子の頭の中では、俊夫の今後のことが回り続けていたが、良い知恵は浮かばない。

 二人が旅館のフロントまでやってきた時、思いもかけない光景が目の前に現れた。


 旅館の、俊夫を除く全従業員が、フロントの前に集まっていたのである。


 そんなことをするとは静子は聞いていなかったので、これは全員が自発的に行ったことだろう。

「おやおや」

 そう言って目を細める初老の警官に、全員が黙って頭を下げた。

 その場の全員の想いが伝わってくる。静子の目から涙が溢れてきた。

「それでは、私はこれで失礼しますよ」

 初老の警官は玄関でにこやかに頭を下げ、全員が見守る中を外に出て行った。

 そうすると今度は、外にいた佐々木が黙って深々と頭を下げる。

 初老の警官は苦笑いして言った。

「分かりましたよ、私にできることは殆どありませんけどね」

 全員の視線を感じながら、初老の警官は表門の近くに止めておいた自転車に跨る。そして、高い木の上で剪定鋏を動かしている俊夫を眺めた。

「随分とまあ、惚れ込まれたものですな。これでは禁忌をまた一つ犯さなければいけません」

 そんな独り言を言いながら、初老の警官――榎津えのきづは自転車で去っていった。


 *


 群馬県庁、県警本部、法務局、出入国管理局の連名で、俊夫に対する超法規的措置が通達されたのは、それから一か月後のことである。

 その時、交番に榎津警官の姿はなかった。

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