第三話 陰謀と願望 一
彼は、佐藤俊夫という仮の名前を与えられた。
ちなみに、命名したのは大番頭である。他の者に任せると「舞蹴雀村」といった怪しげな名前をつけそうだったので、あえて普通の名前にしたらしい。
取り急ぎ、旅館にあった一番大きな法被を与えられて、そのまま仕事をすることになった。
「おかしくないですかね、女将さん」
「いえいえ、とてもよくお似合いですよ、佐藤さん」
静子は照れる俊夫にそう言ったが、これはお世辞ではない。
実際に、彼の落ち着いた物腰と大柄な体と褐色の肌に、紺色の法被は妙に似合っている。
「いや、本当によくお似合いだ。馬子にも衣装というが、佐藤君だと馬子というより魔王のほうが近いから、魔王にも衣装かな」
大番頭までが俊夫のあまりに板についた格好に、普段は言わない下手な冗談を口にした。
下手過ぎて、事実を言っていることに誰も気がつかなかったほどである。
*
最初のうち、従業員の意見は二分されていた。
「得体の知れない外国人を働かせるなんて、女将さんはどうかしているのではないか」
決して少なくなかったその意見に対して、もう一方の意見の代表者であったフロント係――
「いや、あの人は絶対に必要だ。この旅館で中国語が話せる人間が他にいるのか? しかも、彼は中国人が機嫌よく帰るように対応した。それがどれだけ凄いか、いつも苦労している俺には分かる」
そう力説する遠藤に、反対派の従業員は次第に説得されてゆく。
大番頭が反対しなかったことも大きかった。
女将の判断を聞いた大番頭は、少しだけ腕組みをして考え込むと、
「女将さんが決めたことですから、仕方がありませんね」
とだけ言って、後は何も言わなかった。保守思想の塊と思われていた大番頭が認めたとなれば、他の者はとやかく言えない。
そして、何よりも彼が旅館で働くことを全員に納得させたのは、彼の働きぶりである。
最初のうち、従業員の何人かは彼を白い目で見ていた。いつか何かするんじゃないかと警戒している者もいた。
しかし、
「
「お、おう、おはよう。俺、自己紹介したっけ?」
「名札にちゃんと書いてあるじゃないですか」
そんなやりとりが初日からいきなり繰り広げられた。
佐藤は一度会った人間の名前を即座に覚え、次にあった時には必ず名前を呼んだ。これは客商売の基本で、彼が既にそれを体得していることを示している。
また、彼は自分から進んで仕事に精を出した。
しかも、それが悉くツボを心得ている。
フロント係の遠藤が、
「ぜひ自分のところに預けてくれ」
と非常にうるさかったが、大番頭が、
「最初は客の目につかない裏方の仕事がよかろう」
と言って、まずは中庭の掃除を命じた。
しばらくすると、出入りしている植木屋の親方、
「片桐さんよ、随分な話じゃないか」
「どうしたんですか、藪から棒に」
「うちの仕事が気に入らないのなら、そうはっきりと言って下さいよ。黙っていきなり職人を変えるなんてぇのは酷いじゃありませんか」
「そんなことはしてません。親方のところとは先々代からの付き合いじゃありませんか」
「じゃあ、あの庭の様子は一体全体どうしてなんですかい」
親方に連れられて中庭まで出た大番頭は、一変している中庭の様子に驚いた。
惨状が広がっていたという意味ではない。その真逆である。
冬枯れていた中庭の木々が、それとなく剪定されているのだ。
「これが下手くそな植木屋だったら、俺はなんとも言わねえ。ああ、値段を下げてそれ相応の質にしたのだなと、黙って身を引くところだ。しかし、こいつは一流の職人がやった仕事だ」
そう言いながら親方は目を細める。彼は怒ってはいるものの、仕上がりを愛でる気持ちまで忘れてはいない。
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