第二話 喪失と決意 六
身体に問題がないことが分かれば、次は「記憶が戻るまでどうやって生きてゆくか」の問題を考える必要がある。
言葉や文化の問題は無視してよかった。一見、外国人に見える男は、急速に環境へ適応していた。
最初のうちはぎこちなかった日本語も、行きの車内で既に滑らかになっていた。それどころか、待合室ではまるで日本で生まれ育ったかのような流暢さである。
その一方で、身元不明という点が大きな障害になると思われた。履歴書が書けない。住民票が提出できない。書類がととのわなければまともな職にはつけない。
アルバイトならいけるかもしれないが、それだと彼の堂々とした体格がむしろ逆効果になる。どう考えてもファストフードのアルバイトには見えないからだ。
残るは、身元不明でも問題ない肉体労働のアルバイトしかない。それはそれで別な問題が多々あるものの、生きていくためには仕方がない。
旅館に戻る車の中、運転しながら静子は男に訊ねた。
「何か今までにやったことがある仕事について、思い出すことは出来ませんか」
有資格者、そうでなくとも経験者ならば何とかなるかもしれないと、彼女は考えたのだ。
ところが彼は盛大に首を捻る。
「それが全然分からないのです。変な言い方で恐縮ですが、何でもやろうと思えば出来そうな気がする一方で、だからと言ってやってよいわけではない、と抑える自分がいます。例えば――」
彼はハンドルを握るような手つきをした。
「車の運転だって出来そうですが、免許証がないので無免許運転になってしまいます。それだと余計に女将さんに迷惑をかけてしまう」
「そういえば、病院でお医者さんに細かい質問をされていましたね。まさか、医者も出来そうなのですか」
「はい、多分」
検査結果の説明を受けている時、彼は医師に問題となりそうな疾患の可能性を訊ねていた。専門用語だらけで静子には全く意味が分からない会話で、医師のほうもかなり驚いたらしく、
「それは大学の専門医でなければ気がつかないレベルの問題ですね。それに、ここにある設備では調べようがありません」
と言い出す始末である。知識の面では医師をはるかに凌駕していたのだ。
「それは困りましたね。確かに知識や技能はあっても、資格がなければ仕事には出来ませんから」
「そうですよね。何か資格がなくても人様のお役に立てるような仕事があればよいのですが」
そう言いながら、彼は小さく息を吐く。
静子は今の彼の一言に感銘を受けていた。
――自分が過酷な状況に陥っているのに、それでも誰かのために働きたいと言うのか!
これが理想主義者のたわ言であれば鼻で笑うところだが、男の発言は万事がそうである。自分のことは二の次で、常に誰かのために動くことを本気で考えている。
「何かあればよいですね。私も考えてみます」
「すみません。何から何までお世話になってしまって」
彼はまた恐縮した。
それで静子は気づく。彼のその腰の低さと嫌みのなさに、周囲にいる者は彼を助けずにはいられなくなるのだ、ということを。
彼には天賦ともいえる「人に好かれる」器量と才能がある。正確には「人」だけとは限らなかったが。
*
旅館についてみると、フロントでなにやらトラブルが発生していた。
客が大きな声でフロント係に抗議している。しかも、その言葉は早口の中国語で、内容は見当もつかなかった。
旅館の経営を考えると、外国人観光客を積極的に受け入れなければ成り立たないご時世ではあるものの、言葉や文化の違いから似たようなトラブルが続出しており、頭を悩ませていた矢先のことである。
従業員ぐるみで外国語対応を検討しているけれど、一朝一夕でなんとかなることではない。
――せめて、英語が通じればよいのだけれど。
静子は溜息をつきながらフロントに近づこうとした。
すると、
「ちょっと失礼」
と言って、先に男が悠々とした足取りでフロントへと近づいてゆく。
静子が呆気にとられて見ていると、彼はそのまま客とフロント係の間に入って、通訳を始めた。しかも、驚くほど流暢な中国語である。
最初のうち、急に現れた窮屈そうな服を着た彼の姿に怪訝な顔をしながらも、相変わらず激昂していた中国人観光客は、彼の滑らかな通訳と穏やかな対応で次第に落ち着いていった。
その過程が、やりとりの詳細を知らない静子にもよく分かる。
しかも、途中で自分達のほうが間違っていたことに気づいたらしく、客が頭を下げ始めた。あの、人に謝ることが苦手な中国人がだ。
話がついて握手をした後、機嫌よく帰ってゆく観光客を見つめながら、彼はにこやかに手を振る。その後ろではフロント係が目を丸くしていた。
一連の出来事で静子の心は定まる。
彼女は彼に近づいて、こう言った。
「お名前を考えなければいけませんね」
「ああ、そうでしたね。このままでは生活に不便ですから」
「それだけではありません。お仕事をする上で不便です。私が何とお呼びすればよいのか分かりませんから」
「えっ、それはどういう意味でしょうか」
静子はにっこりと笑うと、女将の威厳を込めて言った。
「考えるまでもないことでした。ここで私を助けるために働いて頂ければ、それが貴方の希望を叶えることになるではありませんか?」
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