第二話 喪失と決意 五

 想定外の事態に静子の胸は高鳴った。

『ガラス玉演戯』は、ヘルマン・ヘッセが書いた小説の中で最も長い作品であり、ヘッセがノーベル文学賞を受賞するきっかけとなった作品でもある。

 しかし、それにもかかわらず扱いが不当に低い。

 新潮文庫版は古書か復刻版でしか手に入らないし、新潮社の全集版も書店でほとんど見かけない。ここまで影の薄いノーベル賞授賞作は他にない、と言ってもよいぐらいである。

 訳者が異なる『ガラス玉遊戯』もあるが、静子は原文の雰囲気が感じられる新潮社の高橋健二訳で記憶していた。原文の雰囲気が感じられるというのは、要するに「まわりくどい」ということだ。

 他の作品より格段に入手困難であるため、よほどのヘッセ好きしか読まないし、しかもヘッセ好きですら冒頭部分の難解さに、最後まで読んだ人間を探すほうが難しい。

 それを彼は、日常会話に主人公の名前を出してしまうほどに読みこなしている。しかも、原題も邦題も知っているということは、両方を原文で読んだに違いない。


 静子は大学の頃、独文学科に在籍していた。英語は余技で、実際はドイツ語のほうが得意である。

 卒業間際に家業を継がなければならなくなったため、残念ながら中退扱いになっていたものの、卒業論文ではヘッセの『ガラス玉演戯』を扱うつもりでいたし、その草稿も仕上がっていた。

 それゆえ、この作品には思い入れが深い。

 大学の独文学科にやってくる人でも、ヘッセの『車輪の下』は当然読んでいる人が多かったが、『ガラス玉演戯』まで手を出している者は少なく、同じレベルで話が出来る人はいなかった。


 これはもう、知性があるというレベルではない。静子の狭いストライクゾーンのど真ん中を、豪速球で見事に貫いたようなものである。

 静子は十代後半の少女のように瞳を輝かせながら言った。

「あの、貴方のお名前をお聞かせ頂いても宜しいでしょうか?」

 ところが、その問いかけを聞いた男の顔に驚きが浮かび上がった。

「……俺の名前、ですか?」

 男の顔は、驚きから次第に困惑へと変わる。

 そして、彼の口から決定的な言葉が発せられた。


「俺は、誰でしょう?」


 *


 結局、男は病院で精密検査を受けることになった。

 それならば、彼が発見された時点で救急搬送していればよかったようにも思われるが、静子にとってはむしろ幸運だった。搬送されていたら、二度と会うことはなかっただろう。

 それに彼は記憶がないだけで、それ以外は医者が感心するほど見事な健康体である。


「何から何まですみません」

 車で病院まで向かう最中、そう言って男はしきりに恐縮していた。彼が今着ている服は、急いで準備した静子の父親のお古である。大柄だった父の服でも彼には窮屈で、余計に縮こまっているように見えた。

 静子は、

「いえ、まずは原因を急いで突き止めることが大切です」

 と真面目な顔で答える。

 事の成り行き上、彼女が病院まで付き添うことにしたのだ。

 それに男は健康保険証すら持っていない有様なので、検査費用は全額自己負担になる。加えて無一文なので、誰かが立て替える必要があった。

「検査費用は必ずお返しします。ちょっと時間がかかるかもしれませんが」

「ゆっくりで宜しいのですよ。状況が状況ですから」

 静子は笑って左手を振ったが、内心、

 ――時間がかかったほうが、貴方に会うよい口実になりますから。

 と考えてしまう。なんだか自分がこうかつな女狐になったような気がして、静子は軽くへこんだ。

 ――彼は今大変な状況なのだから、それを利用するようなことは考えてはいけない。

 静子は拳を握りしめて自分自身を戒める。その一方で、

 ――何だか今日の私は少しおかしい。

 とも考える。彼女がここまで家族以外の他人に執着したことは、今まで一度もなかった。


 病院に向かう途中、静子は男が発見された時の状況を説明していた。

 男は静子に、自分が認識している範囲で現在の状況を説明していた。

 それによると、男は自分自身に関する情報と、自分の過去に関する情報を思い出せずにいる。言語や知識に関する情報についても、

「なんだか制限がかかっているかのように、部分的にしか思い出せていないような気がするのです」

 と、話していた。


 静子は、そんな男の客観的な自己観察に驚く。

 普通、記憶がないと分かった人間は、もっと大騒ぎしそうなものである。しかし、彼は即座にその状況を受け入れた。まるで、同じようなことを何度か経験したことがあるかのような平静さで、受け入れた。

 しかも、受け入れた上で、決して明るさを失わなかった。

 ――すごいなあ。

 静子は素直に感心した。

 自分なら記憶を失ったことを知った時点で、かなり動揺して泣き出すに違いないし、見事な無一文の状態を悲観したに違いない。

 それなのに彼は客観的に状況を把握し、周囲に対する配慮を忘れなかった。病院に向かう車の中でも、決して事態を悲観したりしなかった。


 *


 簡易検査の結果、記憶喪失の原因を特定することはできなかった。

 精密検査の結果は後日説明を受けることになったが、そちらも期待しないほうが良いと医者は言った。

「なにしろ見事な健康体だからねえ」

 彼を診た医療従事者は全員が同じことを言う。


 行きの車の中ですっかり打ち解けていた静子は、会計の順番待ちをしている時に、率直に男に訊ねてみた。

「今の状況が不安ではないのですか」

 すると、彼は苦笑しながら、

「まあ、生きているだけでも感謝しなければいけない状況ですからね。それに不安に思ったところで状況が改善されるわけでもありません」 

 と言い切る。

 静子は男の見事な腹のすわりように感心した。よほど自我がしっかりしていないと、こうは言えない。

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