第二話 喪失と決意 四

 男が目を覚ましたのは、発見されてから二日後の昼だった。


 その時、静子は枕元に控えていた。厳密に表現すると、彼女は休憩や睡眠を最小限に絞り込み、殆どその部屋から出ることなく黙って枕元に座り続けていた。

 従業員達は女将の思わぬ献身ぶりに、旅館の運営方針である『お客様第一主義』の真ずいをかいま見たようだが、実は違う。

 静子は単に、この役目にすっかり心を奪われていた。こんこんと眠る謎めいた男の姿に魅了されていた。おかしな空想は初日の午前中だけにして、あとは事実から推理を積み上げていた。


 その時、静子は「起き上がった時に彼が何を言い、それに対して自分はどう対応するのか」と考えていた。

 ――この人、私とほぼ同じぐらいの年齢じゃないかな。

 外国人であれば見た目よりも若い可能性があるものの、それでも五つは違わないだろう。

 目を開き、見知らぬ異国の地にいる自分に気がついて、彼は戸惑う。静子は英語で優しく「安心して下さい」と語りかける。彼も英語は堪能だ。同じ年代だから話もはずむ。

 彼の口から語られる悲惨な過去と残酷な現実。今まで砂漠地帯の過酷な環境の中で過ごしてきた男は、それよりは落ち着いている群馬県の気候の中で、一時的な安息を得る。

 それでも彼は誇りを捨てられない。祖国の危機のために立ち上がろうとする。暗殺者の影が旅館周辺まで及び、彼は静子を守るために再び祖国へ戻ることを決めた。

 ただ、すっかり静子に心を開いていた男は、帰国する前日夜、そっと静子の部屋を訪れる……

 ――いやいや、それはない。

 以降、おかしな妄想にはまり込む前に、静子は頭を振った。彼女のロマン主義的な妄想癖に嫌気がさして離れていったのが、最初の恋人である。中学二年生の時だった。


 彼女が胸に手を当てて動揺をしずめていると、

「う……ん……」

 という声が、男のくちびるからもれ出した。

 驚いている彼女の目の前で、男のまぶたがゆっくりと開いてゆく。

 黒目がちな大きい瞳。それが静子のほうへと向けられた。

 静子はとっさに何も言えなかった。

 英語で話しかけるべきか迷ったわけではない。その瞳の奥深さに引き込まれたためである。

 しばらく静子を見つめてから、彼はゆっくりと口を開いた。


「ここは、日本、でしょうか?」


 確かめるように区切りながら、丁寧な日本語が発せられる。まるで長年口にしていなかった言葉を、思い出しながら話しているように静子には思われた。

 それよりも、相手が日本語を話しているという事実が想定外である。静子は珍しくあせった。

「あ、その、はい。日本でございますが」

「いつごろ、でしょうか?」

「平成二十七年でございます」

「平成、ですか……」

 そのまま男は天井を見上げた。

 何かを考え込んでいる様子だったが、静子としては他のことが気になって仕方がない。

 身体は問題ないのか。どこの国から来たのか。どうしてここにいるのか。何があったのか。

 そこで、普段お客様には絶対にしない割り込みを行なってしまった。

「あの、お身体は大丈夫でしょうか?」

 直後、さすがに無作法であったことに静子は気がつく。それを謝罪しようとした時、

「はい。お気遣い、有り難う、ございます。すこぶる快適な、気がします。疲れがすっかり、消えてしまった、ような気もします」

 男は気を悪くすることなく、そう言って明るく微笑んだ。

 ――考え事をしている時に横から割り込まれても、まったく気にしないなんて度量が大きいわ。

 静子は男の無事に安堵するとともに、度量の大きさに感動し、男のあたたかな笑みで顔が赤くなるのを感じる。


 男は微笑みながら話を続けた。

「ただ、目が少しだけちかちか、しますね。俺は、かなり、長い時間、寝ていた、のでしょうか? しかし、これではまるで、演戯中の、ヨーゼフ・クネヒトの、ようだなあ」

「えっ――」

 静子は驚愕した。

 まさか彼がその名を口にするとは思ってもいなかったからだ。

「あの、大変失礼ですがヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』を読まれたことがあるのですか?」

「はい。ただ、ずいぶんと、昔のことの、ようですが」

「しかも、なんだかヨーゼフ・クネヒトのところが、正確なドイツ語の発音に聞こえました」 

「はい。どうやら、ドイツ語も、話せる、ようですね」

 そして、彼は『ガラス玉演戯』の原題『Das Glasperlenspiel』を正確な発音で口にする。

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