第二話 喪失と決意 三
さて、困ったのは旅館の面々である。
警官から「外国人かもしれない」と言われて、彼らの困惑はさらに深まっていた。なにしろ旅館の中で英語が真面に話せるのは、女将の静子しかいない。
「一人きりのまま放置しておく訳にもいきませんので、女将さんが付き添って頂けませんか。言葉の問題もありますし」
大番頭にそう言われ、警官に預かると請け負った手前もあり、静子は男の枕元に控えることになる。
「他に誰か、男性も一緒に控えさせましょうか?」
目を覚ました途端に暴れた場合のことを考えたのだろう。大番頭のその提案を、静子はやんわりと断った。
「私一人で大丈夫ですよ。この方は、そんなに悪い方ではなさそうですから」
*
その日、男が目を覚まさなかった。その気配すらなかった。
そして、休憩と睡眠のために席を外す時以外、静子は黙って男の横に座っていた。
何もすることがないので、どうしても静子の視線は彼の顔にいってしまう。正直に言うと、誰からも邪魔されずにそうしたかったので男性従業員の同席を断った。
静子は男の顔を飽きずに眺めていた。
日本人離れした顔立ち。しかも、強い意志を感じさせる顔の造り。落ち着きすら感じさせる寝顔。
堂々とした身体も含めて、個々の事象を総合すると「集団の指導者」という立場がとても似合いそうだ。そして、このような外見から受ける印象と、実際のその人の姿とは、さほど離れていないことが多い。
静子は、大学通学により東京で一人暮らしをしていた時期を除くと、物心ついた頃から実家である旅館の中で生きてきた。
昔から相当な数のお客さんを見てきたから、相貌の裏にある本質を読み取ることに長けていた。だからこそ、目の前で眠り続けている男の本質がよく分かる。
彼女の「彼はそんなに悪い人ではない」という発言は、自信があってのことである。
全身の古傷からすると、任侠の世界で生きてきた男のように見えるが、それにしては表情に翳がない。むしろ、自分の進むべき道を自信を持って歩んできた男のように思われる。
仮に悪事に手を染めていたとしても、それを己の本分として、覚悟を決めて堂々と進めていたはずである。それぐらい器量のある、どちらかというと古風な感じがする男だ。
逆に器量のほうから古傷が無数にある点を考えてみると、「戦国時代の武将」というのが一番適切な姿だったが、さすがに時代があわない。
はるか昔からタイムスリップしてきた武将、という想像をしてはみたものの、荒唐無稽すぎて静子はそこで空想することをやめる。そのため、さらに荒唐無稽な真実を想像するには至らなかった。
目の前にある事実のみから推理をめぐらせてみる。始終怪我を負う可能性がある職業で、影を負わないものは他にないか。軍人というのが近そうだが、自衛隊員はここまで怪我を負わないだろう。
外国の傭兵部隊ならどうだろうが。砂漠を駆け巡る歴戦の勇者で、褐色の肌がそれを物語っている。
――いやいや、それだと全身が褐色なのはおかしい。
そこで静子は、彼の引き締まった全裸を思い出して顔を赤らめる。
彼女はあれだけ見事に均整のとれた身体を、今まで見たことがなかった。正確には男の全裸を見たことがないのだが、それはとりあえず横に置く。
女の肢体には見られない硬質な印象。しかも見せるための筋肉ではなく、動くために絞り込んだ筋肉のように思われる。手触りが柔らかかった。
――もう一度触れてみたい。
そう考えた途端、静子の指が思わずぴくりと動いた。慌てて頭を振るものの、胸が激しく騒ぐのをとめられない。このようなことは初めてである。
静子は今まで三人の男性と付き合ったことがある。全員が大人しい現代人で、こんなに野性的な男はいなかった。
高校の時につきあっていた男とは、大学進学を契機に分かれた。
大学生の時につきあっていた男とは、旅館の女将となった時点で縁が切れた。
いまだに結婚をしたことはなく、今やその萌芽もない。人生の大きな転換点を乗り越えられるほど、深い関係になったことがなかった。
それで「自分は恋愛に関して醒めている」と、ずっと思っていた。
にもかかわらず、今朝会ったばかりの身元不明の男に激しく心を揺さぶられている。
穏やかな表情で眠り続ける、荒事の中で生きてきたらしい男。
静かな呼吸をしながらこんこんと眠り続ける姿は、それまでの疲れの深さをほうふつさせる。
時折、眉間に深い皺が刻まれ、苦しげな表情がよぎる。
何か辛いことでも思い出しているのだろうか、と静子は急に可哀想になった。
ともかく、複雑な男だ。
気品のある顔立ち。
不穏な全身の傷。
頼りがいがありそうな雰囲気。
時折見せる苦悩。
全身からかもし出される野性。
それぞれの明暗が、男の魅力となっている。これでもし高い知性があったとしたら、女は放っておかないだろう。
そこまで考えて、彼女の胸が少しだけ痛んだ。
――あ、今、私、嫉妬した。
おかしな話である。見ず知らずの他人でしかないのに、静子は既に旧知の人物のように感じ、他の女の影をあやぶんでいた。
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