第二話 喪失と決意 二
「お客様、どうかなさいましたか。お加減でも悪いのですか」
冷静に考えてみるとおかしな問いかけだったが、さすがの彼女も少し動揺していた。
また、静子の場合「旅館に関連する知人以外の人物」は「お客様」と呼ぶのがデフォルトであり、そのように対応する癖がついている。
彼女は微妙に震える声で、男に繰り返し同じことを訊ねた。しかし、返事はない。
「お客様。こんなところで寝ていると風邪をひきますよ。もしもし」
そう言いながら、今度は肩を軽く揺すってみた。見た目はとても堅そうなのに、実際はきめの細かい柔らかな手触りだったので、彼女は思わず感心して撫でる。
――いや、そんなことを考えている場合ではないわ。
静子は、しばらく手触りの良い男の肩を揺さぶっていたが、男が目を覚ます気配はない。
道路の真ん中にいては危ないので、せめて脇に寄せようと腕を持って引いてみる。しかし、静子の力では動かすことすら出来ない。
自分の手に負えないと判断すると、彼女は次善の策を取った。
旅館の隣にある駐車場まで行き、片隅に置いてあった赤いコーンを一つ抱えると、俊夫のところまで運ぶ。
それを四回繰り返して俊夫の四方を囲むように赤いコーンを置き終えると、表門から旅館の中に駆け込んだ。
この時間、大番頭の
*
「女将さん、どうかしたのですか?」
玄関から飛び込んできた静子に驚いた片岡は、それでもさすがに小声でそう尋ねる。
「大変、です。男の人が、旅館の前に、倒れて、います」
息を荒げながらも、静子は同じく小声で言った。
「そりゃあ、一大事!」
小声で大騒ぎすると、即座に大番頭は周囲にいた男性従業員数人に声をかけて、彼らを引きつれて旅館の前に駆けつけた。
そこには静子の言葉通り、妙に大きな身体つきの男性が倒れている。
彼らは全員で俊夫を担ぎ上げると、とりあえず旅館の中に運び込んだ。さらに空いている部屋に布団をひいて、そこに寝かせる。
そうした上で救急車を呼んだ。
*
午前六時の少し前。
旅館にやってきた救急隊員は、しきりに頭をひねった。
「この方、本当に道路に倒れていたのですか?」
救急隊員の疑問はもっともだった。男の身体のどこにも怪我を負った様子はなく、見えているのはすべて古い傷である。バイタルの数値も見事に安定している。
しかも、当人は明らかに気持ちよさそうに寝ていた。まるで、冬の寒い朝に道路で寝ることが本人にとっては普通のことであるかのような、太平楽ぶりである。
「さすがにこれでは、病院の救急外来に運ぶことが出来ません。その必要がないほどの健康体です」
と、彼らは救急搬送をしぶった。
消防署への緊急通報は、必ず警察署にも連絡がゆくようになっている。
女将と大番頭と救急隊員がそれぞれ困った顔をしているところに、警官が二名やってきた。いずれも近くの派出所に勤務している顔見知りの警官である。
「確かにこれでは、ただ道路に寝ていただけの人ですな。後は私達のほうでやっておきます。救急隊はいろいろとお忙しいでしょうから、お帰りになってはいかがでしょうか」
物事の道理をよくわきまえた初老の警官がそう言ったので、救急隊員はほっとした顔で帰っていった。
「何か身元が分かるものを持っていませんでしたか?」
若いほう――そうは言ってもただ比較の問題で、中年は越えている警官――からそう訊ねられて、大番頭は頭を捻った。
「なかったと思いますねえ。なにしろ全裸で転がっていましたから、少なくとも身に着けてはいませんでした」
「まわりに何か落ちているものはありませんでしたか?」
「それは……どうだろう。運び込むのに一所懸命だったので、そういえばよく見ていませんね」
そこで、二人の警官と女将と大番頭が、俊夫の倒れていたところを中心として周囲を一時間ほど小まめに調べてみる。
ところが、身元が分かりそうなものはおろか、彼も持ち物と思われるものは微塵も残されていなかった。
*
午前八時。
「誰か彼に見覚えはありませんか?」
眠り続けている男の枕元で、初老の警官が言った。その場には朝食の対応をしている従業員以外の全員が集まっていたが、その全員が一斉に首を横に振る。
「これは困りましたな。何の手がかりもない」
初老の警官が頭をひねる。
「顔つきからすると外国人ですかね。そうなると余計に厄介ですよ」
中年の警官も、そう言って同じく頭をひねる。
無論、身元不明であるから外国人であるという確証もない。どことなく彫りの深い容姿や濃い体毛などから、彼がそう感じただけのことである。
「まあ、これだけ健康そうな様子であれば、急いで病院に担ぎ込まなくても問題はないでしょうし、じきに目を覚ますでしょう。そうしたらまた我々を呼んで下さいな」
初老の警官がのんびりとした声で、そう言ったので、
「あの、警察で保護して頂くとか、そういった対応は出来ないんでしょうか」
と大番頭が慌てて食い下がる。
「それは――可能かもしれませんが、相当ひどいところになるでしょうねえ。少なくともこんな良い布団では寝られませんな」
初老の警官がしみじみとした声でそう言ったので、大番頭が静子の顔を見る。
静子がその場を代表して言った。
「分かりました。少なくともこの方が目を覚ますまでは、ここでゆっくりとして頂きましょう」
「そうして頂けると助かります」
初老の警官は深々と頭を下げる。それは妙に丁重過ぎる礼だったが、彼の律儀な性格を知っている者は違和感を持たなかった。
そして、警官二人は派出所に戻っていった。
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