第二話 喪失と決意 一
俊夫が病院で記憶を取り戻した日から一年前の午前五時まで、話はさかのぼる。
静子は旅館『風鈴館』の表門と玄関の間にある中庭を歩いていた。
「今日は一段と寒いわね」
彼女は思わずひとり言をつぶやく。
季節は冬。周囲はまだ暗く、群馬県の山奥に吹く風は身を斬るように冷たい。その寒風の中を、彼女は身体の表面積を最小限にする努力をしながら足を進めていた。
なぜわざわざ一番寒い季節の一番寒い時間に、彼女は外に出ていたのか――それは、表門の様子を確認するためだった。
風鈴館は極めて古風な和式建築物で、表門はどこかの大名屋敷かと思うほど堂々としている。
それが旅館の顔であり、名物でもあったから、代々の主人や女将が毎朝じきじきに様子を確認しているのだ。
霧原静子は、先祖代々受け継いできたこの旅館の五代目女将である。そして、静子がまだ大学生の時に父と母が相次いで亡くなったため、彼女が唯一人の後継者だ。
女将となって既に五年近く経つものの、この季節のこの役目は相変らず辛い。厚着していても身体は小刻みに震える。それでも、彼女が弱音を吐いたことは一度もなかった。
なぜなら、これは女将の仕事だからだ。
彼女の視線の先には黒々とした表門が見えていた。門扉は常時開け放たれており、その先にある県道も見える。
その表門に近づくにつれて、静子は妙なものが門の前、県道上に転がっていることに気がついた。
――あれは何だろう?
表面に毛が生えた、丸太のような褐色の二本の棒。
接近するにつれて、静子の歩みは次第に慎重になり、ついには表門の手前で止まってしまった。
それは人間の生足だった。
門の右側から真ん中に向かって地面に伸びている。ということは、更に右側には胴体があるはずだ。
「あ――」
そのことに気がついた静子は思わず大きな声を出しそうになったが、こらえた。
宿泊客がまだ寝ている時間である。そして真冬の朝のこの時間は、布団から出るのが非常に辛い。それをおもんぱかってのことだ。
彼女は再び歩みを進める。
彼女は生まれつき腹がすわっており、しかも女将という稼業がそれに拍車をかけていた。
表門に近づくにつれ、次第に向こう側になる現実の詳細が明らかになってゆく。
それはよく日焼けした褐色の両足で、柔らかそうな体毛がその表面に密集していた。ズボンはおろか、靴下も身に着けていない。
その先に、引き締まった形の良いお尻が見えてくる。同じく何も身に着けていなかった。その更に先も同様である。
正体不明の人物が県道の真ん中に、全裸でうつぶせになって倒れていた。
冬の朝でなければ、車にひかれていたかもしれない。それほど無造作に、道路の真ん中に堂々と倒れていた。
一見して男性であることが分かる骨格。身長は百八十センチの後半、体重は九十キロ近いのではなかろうか。褐色の肌をした巨体である。
しかも、全身が見事な筋肉で覆われており、その表面を無数の古い傷跡が走っていた。
どう考えても、まともな生活を送ってきた人間とは思えない外見である。その筋の男かもしれない。
しかし、静子は全く恐怖を感じなかった。
なぜなら、横に向けられた顔になんともいえない気品があったからだ。
強い癖のある短めの黒髪に、意志の強さを示すような太い眉。しっかりとした大きな鷲鼻に、かたく閉じられた唇。
浮かんでいる表情は至極穏やかであり、そこだけ切り取れば高貴な人物に見えないこともない。
それに、静子は女将を務める中でその筋の男達を何人も目にしてきた。渡り合ったこともある。だから、彼らの身体や表情に一様に染みついている、拭いきれない影を見慣れていた。
ところが、裸で横たわっている男の表情には、微塵の影もない。
――ともかく、生きているのか死んでいるのか確かめよう。
と、彼女はさらに近づいてみる。
全裸の男は妙に血色が良い。そもそも褐色だから分かり難いものの、張りが失われていなかった。「どうやら死んでいる訳ではなさそうだ」と、彼女は安堵する。
周囲に血が流れた様子はないので、暴力沙汰の結果ではなさそうだ。背中が規則的に上下動を繰り返していることから、息をしていることが判明する。むしろ気持ちよさそうに寝ているように見える。
無論、真冬に真っ裸になって自主的に外で寝る者はいない。何らかの理由で連れ出されて、薬で眠らされた挙句に全裸で外に放置された――その可能性がある。
いずれにしても、これは尋常ではない。
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