大魔王の憂鬱

阿井上夫

第一話 覚醒

 朝七時。


 頭を白い包帯でぐるぐる巻きにされ、病院のベッドの上に横たわった姿で目を覚ました佐藤俊夫さとうとしおは、「自分が本当は何者か」を完璧に思い出していた。

 ちょうど一年間、彼はいわゆる記憶喪失の状態だった。従って、記憶が戻ったことは実に喜ばしい出来事のはずなのに、それに気がついた俊夫の口からとっさに出たのは、

「これはまずいぞ……」

 という正反対の言葉である。


 さらに、その声に反応してベッドにもたれて眠っていた和服の女性が目を覚ました。

 彼女は憔悴していた。長い黒髪はすっかり乱れ、瞳は真っ赤に充血しており、いつもならば健康的に輝いているはずの二十代後半の肌は、すっかり青白くなっていた。

 昨晩はほとんど寝られなかったに違いないし、明け方近くにとうとう力尽きて眠りに落ちたというところだろう。

 それでも俊夫の僅かな声が聞こえた途端に目を覚ますのだから、どれだけ彼のことを心配していたのか想像もつかない。

 俊夫は、前日の最後の記憶と先程思い出した過去の記憶を照らしあわせて、「彼女が無事である」という事実に安堵しつつ、「群馬県がどうやら無事らしい」という推測に、内心首をかしげる。

 しかし、そんな些細なことは群馬県民には意味はあっても、俊夫にはどうでもよい。彼女が無事であること――それが俊夫には素直に嬉しかった。

「女将さん、ご無事でしたか。いやあ実によかった。それから、ご心配をおかけして誠に申し訳ございませんでした」

 俊夫は自分が置かれている深刻な状況を綺麗に後回しにして、目の前にいる女将さん――霧原静子きりはらしずこに、優しい声でそう謝罪した。

 俊夫を見つめる静子の目から、大粒の涙が次から次へとあふれ始める。

「俊夫、さん。ちゃんと、約束通り、目を覚まして、頂けたのですね。私、もう、心配しました。あなたが、目を、覚まさなかったら、私はいったい、どうしたら、よいのだろう、かと――」

 そこまで言うと、静子は俊夫の胸の上で泣き崩れてしまった。


 俊夫は彼女の頭を優しくさすりながら、

 ――なるほど、これならば何があってもダメージは最小限に収まるはずだ。

 と考えて、思わず苦笑する。

 俊夫は昨日の晩、静子をかばった時に後頭部にひどい怪我を負い、意識を失っていた。

 頭部の怪我は大量の出血を伴う。さらに、頭を殴られて気を失った場合の致死率は、思った以上に高い。

 加えて記憶が回復するほどの衝撃があったのならば、普通の人間なら即死している。ところが俊夫は既に回復していた。


 イコール、彼は普通の人間ではない。


 ――防御呪文及び治癒呪文の緊急起動とはね。

 防御呪文は誰かが解除したらしい。でなければ、群馬県は消滅しているはずだ。

 治癒呪文は起動中で、これがあれば全身が業火によって一瞬のうちに焼き尽くされない限り、彼は死なない。

 治癒能力は常時活性化されていて、打撲程度なら全然問題にならない上、それで対応できないほどの致命的な怪我を負った時には、事前に予約詠唱しておいた治癒呪文が緊急起動するようになっていた。

 その一方で「急激に回復すると不審に思われるだろうから」と考え、控え目ゆっくり回復に設定するという念の入れようである。

 ――よく考えてあるなあ。

 と、俊夫は自分で自分を褒めてみた。これは、記憶を失う寸前に自分で設定したものである。

 それどころか記憶喪失自体、彼が作為的に作り上げたものだ。一定期間が経過したら、自然に思い出すように設定してあったものが、今回の緊急事態で強制解除されたのだ。

 呪文の設定内容や、なぜそうしなければならなかったかについても、彼は全部思い出していた。


 ――さて。

 俊夫は目の前の状況に思考を戻す。

 前日の状況からすると、後遺障害がないだけでも医者には驚異的だろう。

 事を荒立てないために三日は検査入院していたほうがよさそうだが、一方で事態は急変しており、そんなにゆっくりしてもいられない。

 ――なにしろ敵は実力行使に出たからな。

 このままでは静子の命が危ない。

 俊夫は静子を見る。いつの間にか静子は再び眠りに落ちていた。やっと安心したのだろう。とても穏やかな寝顔をしている。


 それを目を細めて見つめながら、俊夫は再び最初の問題に集中し始めた。

 彼の素性について、一緒に働いている人々は面白半分に勝手な想像をめぐらせていた。

 堂々とした身体と密集した厚い筋肉。

 それでいて身軽な動きと細やかな気配り。

 前者から、彼の素性を「格闘家か兵士、ないしは日常的に危険な仕事をこなしてきた男」と想像するものが半分。

 後者から、彼の素性を「サーカスかそれに近いエンターテインメント集団で、団員を統率していた男」と想像するものが半分。

 実のところは、それらが入り混じった何かだろうと思われていたのだが、


 ――それが、大魔王だからなあ。


 俊夫は思わず唇をゆがめる。彼にとっては当然のことでも、職場の人々にとっては全くの想定外だろう。

 素性どころか、彼はこの世界の生き物ですらない。

「このことを知られたら、旅館にいられなくなってしまうなあ」

 彼は頭をかかえた。しかし、その問題設定自体が既に間違っている。

 この時点で「彼が本当は何者か」は、既に問題ですらなくなっていることに、彼自身はまだ気がついていなかった。

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