第6章(1)
ティアが町へと出かけるようになって二回、季節が変わった。
その日の早朝の儀式には、見たことのない人物が混じっていた。ティアは自分が始めて早朝の儀式を見た時のことを思い出した。
とうとうその時がやってきたのだ、とティアは思った。
「歌姫が私から次の誰かに代わる日も近いかもしれない」
そのあと丘で会ったセシルゥにティアは伝えた。
「え?」
セシルゥは驚いていた。歌姫が交代するということじたい、初耳だったのだ。
「歌姫は国民たちが気付かないうちに代替わりを繰り返しているの」
ティアは淡々と事実を伝える。
「そうなんだ」
「交代するというのも絶対じゃない。そう聞いたわけじゃなくて、そうじゃないかって思っただけだから。だから、ごめん、忘れて」
ティアは自分で何を言っているんだろうと思った。とつぜんのことに、少し動揺しているのかもしれない。いつかある交代の儀式についてすっかり抜け落ちていた。忘れてしまいたいという心がそうさせていたのかもしれない。
それから数回の休息日の儀式を終えた次の日の早朝の儀式を終えたあと、いつもならすぐ帰るガデス長老がティアのもとへとやってきた。
「儀式の日が決まった。お前の歌姫としての力を、次の歌姫へと渡す儀式が」
ティアは目の前が真っ暗になったような気がした。そろそろかもしれないと、わかってはいたけれど。いざその時となると、やはり恐怖が芽生える。けれどそんな心だって、長老の前では見せることはできない。いつものように何の感情もないかのようにふるまう。
「わかりました。いつ、でしょうか」
「あと三回、休息日の儀式を行ったあと。いつものように」
「はい」
ティアは首肯し、そしてその顔をあげなかった。
「もう帰ってよい」
それだけ言うと、ガデス長老はティアに背を向けてオデオンの舞台から立ち去った。
ティアはしばらくうつむいていたものの、その後は感情の抜け落ちた表情を見せてオデオンの舞台から去った。その足で丘へと向かったが、その足取りはいつになく重たかった。
「おはよう、ティア」
セシルゥが丘に生える草を踏みしめる足音にさえ、ティアは気付いていなかった。
「お、はよう」
声をかけられて初めて気がついたティアは、ひきつった笑みを浮かべていた。
セシルゥは不思議に思いながらも、ティアの隣に腰掛ける。歌姫の交代の儀式が近いかもしれないと、ティアは少し前に言っていた。もしかしたら、そのせいで元気がないのかもしれない。
隣でティアの様子をうかがっていたセシルゥは、それにしては元気がなさすぎると感じていた。何があったか聞いたほうがいいのか、それともそっとしておいたほうがいいのか。セシルゥはしばらく悩んでいた。
そうこうしているうちに、ティアが立ち上がる。
「ごめん、今日は帰る」
言ったと同時に、ティアは丘を駆け下りていった。セシルゥはいきなりのことに呆然とし、それから今日の約束ができなかったと気がついた。
セシルゥはいつもより長く丘にいたあとで、丘をおりて家に帰った。その日はもう何をする元気もなく、ただひたすら自室にこもっていた。いつものセシルゥからは考えられないことで、家族はセシルゥが何か病気にでもかかったのではないかと心配したほどだった。
翌朝、セシルゥは急いで清掃の仕事を終えると、走って丘に向かった。いつもの、丘の中腹に立つ一本の木の根元にティアがいるのを見つけて、ほっとした。
「おはよ」
セシルゥはすぐにティアの隣に座る。けれど今日のティアも、昨日ほどではないにしろ様子がおかしい。
「昨日、何かあった?」
セシルゥは自室で考えて考えて、そして決めたのだった。ティアが何も言ってくれないのは、言い出せないのかもしれない。自分から聞いてみよう、と。歌姫であるという秘密さえ知っている今、ティアがセシルゥに隠さなければならないことは少ないだろうと思う。言い出せないのではなく、言いたくないというのであれば、そのときは引き下がればいい。
「僕には言えない?」
セシルゥはできるだけ優しい声と表情で、ティアに問いかける。そして待った。
「あの、……あのね」
ようやくティアが口を開いたのは、セシルゥが「やっぱり言わなくていいよ」って言おうかと迷い始めたときだった。
「決まったって」
その顔には涙は浮かんでいないものの、泣いているとしか思えない表情をしている。
「歌姫の交代が。私、私は、歌姫じゃなくなる」
このときのセシルゥは、歌姫が交代するということについて、まだ何も知らなかった。知らないから喜んだ。
「それなら、今度はどうどうと二人で出かけることができるね」
ティアの表情に引っかかりはしたものの、ティアが歌姫でなくなるという喜びのほうが大きかった。
「違う。違うのっ」
ティアは何度も大きく首を振り、そしてそのまま丘を駆けおりていった。セシルゥは呆然とするばかりだった。
「今日も約束できなかった……」
セシルゥは呟き、小さくため息をついた。セシルゥにはわけがわからなかった。ティアは歌姫である自分が嫌いみたいだった。だったら歌姫でなくなるというのは、嬉しいことじゃないかと思ったのに。
「まだ僕の知らない何かがあるんだろうか」
セシルゥは落胆して、しばらくその場でたたずんでいた。けれど空もすっかり明るくなり、人々の生活するざわめきが聞こえてくるような気がして。セシルゥはゆっくりと腰をあげると丘をおりた。
翌朝、ティアは丘へ来なかった。その翌日も。
もしかしたら、もうティアには会えないかもしれない。
そんなふうに感じたセシルゥは、ティアに会いに行くことにした。いつもは約束してから塔へ迎えにいっている。ティアは自分で窓から抜け出して、森に身を隠してセシルゥを待っているのが常だった。セシルゥが塔へ行ったとして、どうやってティアを呼び出せばいいのだろうか。声を出せば階下にいるという女性に気付かれるかもしれない。
いつまで経っても良い案は浮かばないし、ティアはさらに翌日になっても丘に来なかった。
セシルゥはこれ以上考えることをあきらめた。とりあえず行くしかない。行けば運よく会えるかもしれない。わずかな可能性にかけてセシルゥは出かけた。
森を抜けて塔の見える端まで行く。少し移動して、窓がよく見える場所から塔を見つめた。ティアが窓から外を見ないだろうかと、淡い期待を寄せて。そんな期待はしばらくして打ち消した。そんな偶然、いくらなんでも都合が良すぎるのだ。少し考えて足元に落ちていた小さな石を一つだけ拾う。
塔の周りに人がいないことはティアから聞いていたが、それでもセシルゥは用心深く周囲の様子をうかがった。そして窓の前に立つ、ティアがいつも抜け出すのに使っている木まで、一直線に走った。普段からティアがのぼりおりするだけあって、木の枝はちょうど良い位置に並んでいた。なるべく木を揺らさないように気をつけて、セシルゥは木をのぼった。
窓の前に張り出した枝にしがみついて塔へと近づく。窓から少しだけ薄暗い部屋の中が見える。寝台と、その上にうつぶせで寝そべる人。背格好や髪の長さからするとティアで間違いないとセシルゥは確信する。あとはティアに気付いてもらうだけだが、まさか声を出して名前を呼ぶわけにもいかない。少しだけ横に出た細い枝の先を揺すると、葉のこすれる乾いた音がした。けれどティアは気付かない。
今度は先ほど拾った石を慎重に狙いを定めて、窓の中へと投げ込んだ。うまい具合に寝台の上へと落ちた。その音なのか振動なのかにティアは気付いたらしい。驚いた様子であわてて体を起こしてあたりを見回した。そして、木の枝につかまるセシルゥに気付いてくれたのだった。
「な、なにをしているのっ?」
窓際にかけよってきたティアが、セシルゥにやっと聞こえるくらいの小声で話しかけてきた。
「どうしても話がしたくて」
セシルゥもティアに聞こえるくらいの小声で答えた。
「……わかった。ここでは話ができない。明日は丘へ行くから」
ティアの顔になんの表情も浮かんでいなかったことがセシルゥは気になったけれど、口には出さずにうなずいた。ティアを困らせたいわけでもない。のぼった時と同じように、そっと静かに木をおり、そして森の中へと走って帰った。
翌朝の丘で、セシルゥはティアと並んで座っていた。初めて会った頃のように、すっかり表情のなくなってしまったティアは、求められるがまま淡々と歌姫の儀式についてセシルゥに説明した。横で聞いているセシルゥの顔がだんだんと険しくなっていった。
「な、んだよっ! それ!」
「セシルゥが怒ってもしかたない。そうやって代々の歌姫は交代してきたのだから」
「だからか? だから、ティアはまた表情がなくなっちゃったのか?」
セシルゥは怖いほど真剣に、ティアの肩をつかんで揺すった。
「表情についてはわからない。もともと歌姫になった時には感情なんてほとんどなかった。セシルゥに会うようになって、それが変わった。でも今は、戻ってしまったのかも。怖いって言えない、怖いって感じるなんて許されないから」
ティアの気持ちを考えると、セシルゥはそれだけで辛くて胸が痛い。
「今日は会える? 今のティアと離れがたいよ。いられるなら、一緒にいたい」
「今日は浴場を使う日でもないし、大丈夫だと思う。行けそうならいつもの時間にいつもの場所に……」
「わかった。待ってる」
約束をするとティアは急いで丘をくだっていった。歌姫の儀式についての話に時間がかかったのだった。
ティアを連れ去りたい、逃げたい。そんな気持ちがセシルゥの中にあった。その気持ちでいっぱいになっていた。
太陽がてっぺんまで昇った頃、二人は森の中で落ち合った。セシルゥもティアも、軽く変装のようなことをしている。
ティアは普段はおろしている背中の中ほどまで伸びた髪を、複雑にあみあげている。ティアいわく、よくわからなくてぐちゃぐちゃにしているだけで、あとで戻すのが大変らしい。でも、それだけで雰囲気がずっと変わるのだから、すごいものだとセシルゥは思う。
セシルゥは、以前見かけた移民の人を真似て、頭に布を巻いている。いつもより大人びた服装にすることで、ぱっと見の印象は普段とは違うものになっているだろう、とセシルゥは思っている。
二人は手をつないで、ゆっくりと町を歩く。店の並ぶ広場の方角ではなく、ひとけのない家々の間を進んでいく。いつもなら弾む会話も、今日は全く出てこない。沈黙に包まれ、足取り重く歩く。どこを目指すでもなく、とにかく人に会わない道を選んで歩き続けた。
そうしているうちに、どんどん町外れへと向かってしまう。国の端まできて、二人はティアの住む塔へ向かって歩き始めた。
「そういえば、この先に花畑があるって知ってた?」
セシルゥはずいぶん前に見つけた花畑の近くにいることに気がついた。
ティアは首を横に振る。
「ちょっと行ってみない?」
ティアが空を見上げる。向こうは夕陽に赤く染まっている。いつもなら、もう戻らなくてはならない頃だ。
「そんなに遠くないし、急いで走って行ってみない?」
セシルゥはつとめて明るい声を出した。
「……そうだね。行ってみたい」
ティアも少しだけ明るい声で答えた。
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