第6章(2)

 手に手をとって夕闇の下を二人で走る。オデオンがあるのとはまた違う方向の町外れ。花畑が広がっていた。その先は森に行く手を阻まれる。セシルゥはその森を抜けて逃げようと思っていた。その先は国の外であるはずだった。

 しかしティアが花畑を見て立ち止まった。どこか懐かしいものを見るように、花畑を、そして奥に広がる林を見渡す。

「私、ここに来たことがある……」

 呟いたティアは、セシルゥとつないだ手をほどいて花畑へと入っていった。それをセシルゥも追いかける。

「小さい頃に来たことがあるような気がする」

 セシルゥも辺りを見回す。

「僕もよく来た。そういえば、女の子とよく遊んだな。あの子はなんて名前だっただろう。いつの間にか来なくなっちゃって、それっきりだ」

 ティアが小さく笑う。

「私も誰かとここで遊んだことがある気がするの。ノアはまだ小さかったから、ときどき一人でここに来たんだったわ」

 遠くを見つめるように、ティアは自分の記憶と向き合っていた。

「もしかして、それって僕だったりして」

 セシルゥも笑ってティアの顔を覗き込む。

「そうかも。そうだったら、運命的ね」

 ティアもセシルゥの瞳を見つめる。

 そして二人は無言になって、ゆっくりと顔を近づけた。くっついてすぐに離れた二人の唇。顔を見合わせて、そして今度はゆっくりと唇を合わせた。

 何度か触れ合った二人は、花畑の中に寝転がった。たくさんの花が押しつぶされるように折れて倒れた。二人はそんなことも気にしないで、並んで寝そべり空を見上げた。

 細い月が出ていた。たくさんの星も瞬いている。

「私、あなたと離れたくないの」

「僕もだ。だから逃げよう」

「ううん。逃げても無駄だと思う。そんなことは歌姫である私が一番よく知っている」

 ティアはセシルゥに背を向けた。鼻をすするような音がセシルゥにも聞こえてきた。

「なんで、私、歌姫なんだろう。私には何もないのに。歌姫になって、お母さんともノアとも離れ離れになって。そこまでして、どうして、歌姫にならなきゃいけなかったの……? どうして、私は死ななきゃいけないの?」

 ティアの声が震えていた。セシルゥは後ろからティアを強く抱きしめた。

「それでも、ティアが歌姫だったから、僕らは出会えたんだ」

 二人はしばらくの間、そうしていた。


「私はどうしたらいいのかな。私たちはどうしたら……」

 ティアの言葉は涙に濡れていて、その言葉を聞くセシルゥの目からも涙があふれていた。

 ティアは歌姫で、歌姫である限り逃れることができない現実が、もうすぐそこまでやってきていた。思わずティアの手をとって逃げ出したセシルゥだったけれど、どうしたらいいかなんて、何も考えていなかった。林を抜けて国を出て。それからどうしたらいいのかなんて、何も考えていなかった。この国と違って移民に厳しい隣国に受け入れられるかもわからないのに。

「何で僕はこんなにも非力なんだろう。何もできない、してあげられないんだ」

 体の向きをかえたティアと抱き合って、二人は涙を流し続けた。

 そしていつの間にか少しだけ眠っていたらしい。


 二人が目を覚ますと、月がだいぶ低くなっていた。朝の訪れも近いだろう。

「どうしよう。私がいないことに気付かれてしまう」

 ティアは慌て始めた。早朝の儀式にティアが現れなければ、長老たちにティアの不在が気付かれてしまうのは確実だった。

「ティアはどうしたい?」

 セシルゥはティアに聞く。セシルゥはどうしたらいいか、もうわからなかった。二人で死ぬしかないんじゃないか、そんなことしか思い浮かばない。本当にしたいのはそんなことではないのに。

「私は……、わからない。死ぬまで私は歌姫なの。交代の儀式で死ぬことで、ようやく私は歌姫でなくなる。死なないと解放されないっ!」

 最後は叫ぶようなティアの言葉に、セシルゥは決心した。ティアの体を離して、目を見てゆっくり伝える。

「行こう」

「どこへ?」

「交代の儀式が行われる場所。一緒に行こう」

 ティアはセシルゥの考えていることがわかったような気がした。彼もきっと自分と同じことを考えている。そう思えてならなかった。彼の決意に満ちた瞳を信じることにした。自分が歌姫である以上は私たちにはこうするしかないのだと、ティアも他に考えられなかった。

 もう一度だけ唇を重ねた二人は、立ち上がって手をつないだ。しっかりと。そしてオデオンへと歩き出した。最初はゆっくり、徐々に早く。最後は走って。


 オデオンまではそれほど時間がかからなかった。二人はオデオンの入り口から少し離れたところで立ち止まった。あがった息を整え、オデオンの様子をうかがう。

「大丈夫そう、だと思う」

 ティアがそう言うと、二人はそっとオデオンへと入っていった。細い月の明かりは、オデオンの廊下にまでは届かない。二人はしっかり手を握り、ティアは記憶をたよりに進んでいく。

 自身が歌姫になるときに待たされた小部屋へと入る。

「ここは?」

 暗闇に少し慣れた目が、うっすらと部屋の様子をとらえる。

「ここでガデス長老が儀式に必要な剣を用意していたの」

「そう、おじいさまが……」

 ティアは少し感慨深げに、そして何かを探すように部屋を見回したあと、セシルゥに聞いた。

「儀式では、舞台の後方にある祭壇から歌姫は飛び降りるの。そこから、で、いい?」

 ティアの声は少し揺れていた。

「いいよ。歌姫と同じようにしよう」

「剣は見当たらないから、使えないわ」

「それでいい。とにかく早くすべてを終えなければ」

 セシルゥはティアを急かした。空の端がほんのりと明るくなりそうな気配が忍び寄っていた。

「わかった。こっち」


 二人は小部屋を出た。ふたたび手をしっかりとつないでティアが先導して歩く。セシルゥは自分がどこをどう歩いているのかもわからない。ティアに言われるがまま歩き、階段をのぼって、そしてまた歩いた。

 ティアが立ち止まって、目の前を指さした。出入口にしては小さめの、けれど窓にしては大きな穴が壁にぽっかりとあいている。

「ここを出たところが祭壇」

「とうとう、だね」

「うん」

「後悔してる?」

「してない」

 二人は『何を』とは言わず、互いの気持ちを確認する。どうしたいのか、どうするのか、二人の答えは一緒だとわかっていた。


 その時だった。オデオンの外からかすかに騒がしさが伝わってきた。二人は急いで祭壇へと出る。空を見れば、オデオンの中から見える空の端が、すでに明るくなり始めていた。長老たちは気付いてしまったのだ。歌姫がいなくなっていることに。

 二人は手に手をにぎり、ゆっくりと祭壇の端へと移動する。廊下へ通じる壁がある場所以外、祭壇の端には何もない。気をつけて進まなければ、想定外の場所から落ちてしまう。

 しかし、そうしているうちに長老たちらしき声が聞こえてきた。

「探せ! 早く!」

 そう指示をとばしている声は誰のものだろうか。

 ティアとセシルゥは、互いの手をよりいっそう強く握り締めた。追っ手がきている。二人はあせりながらも慎重に歩みを進める。そう大きくはない祭壇の端はもうすぐだった。


「ここだよ」


 立ち止まったティアがささやく。二人は祭壇の端にいた。少し身を乗り出すだけで、地上の舞台が見える。

「思ったより高いな」

 セシルゥもささやく。隣でティアがうなずく気配がした。

「オデオンの中も調べるんだ!」

 ガデス長老の声だった。二人して驚きに肩をゆらした。もう時間はない。二人は互いに向きあって抱き合った。

「さあ、行こう」

 セシルゥの声を合図に、二人は舞台から飛び降りた。二人の体が傾き、頭を下に落ちていく。

 セシルゥもティアも、たがいの体のぬくもりを感じていた。

 けれど、二人の体が一瞬ふわりと浮き上がった気がして、ティアは目をあけた。セシルゥは気がつかなかったのだろうか、目をつむったままだ。頭を下にしていたはずの体は、地面にほとんど平行になっていた。ティアの体の上から覆いかぶさるようにセシルゥがいる。

 ティアが目線を地面にうつすと、あるはずのないものがそこにあった。儀式のときに使う剣が、刃先をティアに向けてそこにあったのだ。飛び降りる前には見当たらなかった、それが。

 しかしそれに気付いたときには、ティアの体はセシルゥの体ごと剣に貫かれていた。痛みを感じると同時に、ティアの視界の端に赤が飛び散る。

(ああ、これは歌姫の、私の、血……)


 剣に貫かれた二人の体からは血があふれ、舞台の下へとしみこんでいく。二人はすぐに息絶えた。

 長老たちが二人の姿を見つけたのは、それからすぐだった。

「歌姫!」

 長老たちは二人の体を横に転がし、急いで剣を抜いた。セシルゥには目もくれず、ティアの呼吸を確認した長老は、がっくりとうなだれて首を左右に振った。

「だめだ。死んでいる」

 その場にいた長老たちは全員、地面に膝をついた。

「どうしたら」

「これでは次期歌姫へと交代の儀式が行えない」

「今すぐ歌姫を呼ぶか? 手順を飛ばして歌姫の血だけでも取り込ませてみれば」

「この国はいったいどうなってしまうのか」

 そんな声を次々に発している長老たちだったが、しかし会話にはなっていなかった。長老たちは思いもよらない事態に混乱していた。

「とりあえず、他を探しに行っている長老たちもここに集めよう」

 そう言ったのはガデス長老だった。幾人かが他の長老たちを呼びに行っている間、ガデス長老はティアの隣で息絶えているセシルゥの顔を苦々しげに見つめていた。他に残った長老の中には、セシルゥに悪態をつく者もいた。


 長老たち十二人全員がオデオンの舞台に集まった。ようやく少し落ち着いた頭で、今後について話し合う。

 歌姫が不在の期間があってはまずい。今すぐに次期歌姫を連れてきて、可能なところだけでも儀式をさせようということに落ち着いた。

 一番若いカルロ長老が急いで次期歌姫を呼びに行った。長老たちの中では最年少ではあるものの、ティアの母と同じ年頃である。カルロ長老は息を乱しながらも、とにかく急いだ。急いで急いで、これほどまでに急いだことがあっただろうかというほど急いだ。


 カルロ長老と次期歌姫がオデオンにやってくると、舞台の上にはティアの遺体だけだった。

 セシルゥの遺体は、残った長老たちで歴代の歌姫が眠る場所へと運ばれた。神聖なる歌姫の墓に、異物であるセシルゥの遺体を入れることに抵抗を示した者もいた。しかしガデス長老が強行したのだった。それこそ儀式には不似合いな『それ』をどこかにやるには時間がなかったからだ。

「不測の事態によって儀式がほとんど行えなくなった」

 舞台の上で長老たちに囲まれた次期歌姫は表情なく立っていた。

「しかし可能な限りは行わな……、えっ」

 突然、地面が揺れはじめ、だんだんと大きくなる揺れに、長老たちも次期歌姫も、舞台の上に座り込んでいた。

「地震、か?」

 発する長老の声も揺れている。経験したことのない大きな揺れに、その場にいた全員がなすすべもなく座り込んでいた。

 少しして、頭上から静かだけれども重々しい音が聞こえてきた。その音に気がついた一部の長老が見上げれば、揺れに耐え切れなかったのか、大きな祭壇が上から落ちてくるところだった。

 誰ひとり逃げることもできずに、祭壇の下敷きになった。ティアの遺体とともに。祭壇の周りの壁も崩れはじめ、崩れ落ちた祭壇の上からさらにすべての遺体を覆いつくしてしまった。

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