第5章(1)

 ティアとセシルゥが出会ってから、季節が二つ巡った。

 二人は今も早朝、丘の上で顔を合わせている。天気が悪い日などには顔を合わせないけれど、ほとんど毎日のように会っている。

 今でもしゃべるのは主にセシルゥだったが、ティアも少しは話をすることがあった。とはいえ、歌姫であることは隠さなければならないので、セシルゥの話に問い返すくらい。

 歌姫として、セシルゥと会うことが良くないことなのだとティアは理解している。しかしこの逢瀬を止めようとは思わなかった。いつしか、セシルゥと会うことが楽しみになっていた。

 普段まわりにいる人たちはティアを歌姫として扱う。特に自身が歌姫となってからは、ティアと、名前で呼ばれることすらなくなっていた。長老たちはいつだって、ティアにティアではなく歌姫でいることを望んでいる。それは当然のことだ。

 だからこそだろうか、セシルゥにティアと呼ばれるこの時間だけは、歌姫ではなくティアという女の子でいられる気がするのだった。それと同時に、その感情が本当ならば歌姫には不必要なものであることもティアはわかっていた。無意識に隠していた感情が、この時間だけは少しだけ出てきてしまうことも、気づいていた。

「そういえば、ティアとはここでしか会わないね」

 セシルゥがふと思いついてティアに問いかけた。毎日のように市場などに顔を出しているセシルゥは、顔見知り程度の知り合いであればたくさんいる。毎日多くの人とすれ違っている。

 しかしセシルゥの知る限り、ティアとはいまだにこの場所以外で一度も顔を合わせたことがない。そういう人がいないとは言えないけれど、不思議に思っていたのだった。

「……そう、だね」

 セシルゥはその声に、町に向けていた視線をティアへと移した。ティアは俯いており、その表情は見えない。けれど声はかたく上ずっていた。

 ティアはなんと答えたらよいかわからず、混乱していた。セシルゥは当然ティアが歌姫であることを知らない。ティアは仮面をつけていない自分が歌姫であると言うことはできない。

「ご、ごめん。なんか変なこと言ったね。気にしないで」

 セシルゥが言うと、ティアはあからさまにほっとしたようだった。セシルゥはティアには隠しごとがたくさんあると思っている。もちろんすべてをセシルゥに言う必要はないけれど、どこまで踏み込んでいいのかわからなくて、時々とても戸惑うのだった。

 なんとなく気まずいまま、二人はわかれた。


 塔に戻ったティアは、セシルゥに言われたことを考えていた。毎日聞くセシルゥの話にはいろいろな人が出てくる。そんな環境にいる彼が、ティアとは一度も会わないことを不思議に思うのも当然だろう。いつまでもごまかすことはできないのかもしれない。しかし自分が歌姫であることは、絶対に伝えてはいけない。そんなことはわかっているのだ。わかっているけれど。

 お互いに知っているのは名前と、ティアよりセシルゥの方が一年早く生まれているということ。あとセシルゥの仕事のことくらいだった。なぜだか自身のことについては、お互いにほとんど知らなかった。ティアが何も言わないからかもしれない。

 セシルゥは優しいと、ティアは思う。あの日以来、セシルゥはティアと町で会わないことを二度と問いはしなかった。それがティアにとっては嬉しくもあり、ありがたくもあり、一方で心苦しくもあるのだった。

 自分の名前と年齢以外、自分はセシルゥに何を言ってもいいのだろうか。一人になるとそんなことばかり考えてしまう。


「おはよう、ティア」

「……おはよう」

 いつものように丘で会ったある日。ティアは前日の決心が揺るがないうちに話をしてしまおうと思った。

「あの、あのね」

 ティアが勢いこんで話そうとするのを、セシルゥは優しく笑んで受け止めてくれた。その表情を見たティアもほっとして、知らず笑みを浮かべていた。そして穏やかな気持ちで言葉を続けることができた。

「私は、仕事が少し特殊で……、セシルゥには言えないことが多いの」

「うん、それは仕方ないよ。そういうことあるの、僕は知ってるから」

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」

 ティアは一度目をつぶって、昨日決めたことを胸のうちで繰り返した。

「あのね、私には妹がいたの。ノアっていう、お母さん違いの妹なんだけど」

 セシルゥはティアが家族のことについて教えてくれようとしていることに気がついた。そして嬉しく思った。異母妹だという言葉には驚いたが。

「そうなんだ。僕には兄と姉がいるよ」

 そして自分がきょうだいについて話すのも初めてだと、セシルゥは気づいた。自分もなんとなく家族の話は避けていたらしい。

「仲が悪いわけではないんだけど、すごく仲がいいわけでもないなぁ。僕の仕事は朝早いし、食事の時間くらいしか顔を合わせないし」

「私は、仕事の都合で一緒には住んでないんだけど……。でもすごく仲良かったの。お父さんが突然ノアを連れてきたときはさすがに驚いたんだけどね」

 ティアはいつになく穏やかな表情で言葉を続けた。

「私、お父さんの記憶はほとんどないの。私がうんと小さいときに旅に出ちゃったんだって。それで、ある時ふらりと帰ってきたと思ったらノアを連れてたらしくて。

 数日でまた旅に出るって言うから、お母さんがノアを引き取ったの。お父さんはそういう人だから仕方ないのよって笑ってた。

 ノアのお母さんが誰かはわからないの。でもその頃のノアはよちよち歩きで、その姿が本当にかわいくて」

 ティアは明るくなりゆく空を見つめながら、短いながらも家族の話をセシルゥに聞かせた。

「なんだか楽しかった」

 そろそろ塔に戻ったほうが良いと判断したティアは、そう締めくくった。声とはうらはらに、表情はさきほどと違い感情が抜け落ちているかのようだった。

 セシルゥの方を見ることなく、返事も聞かず、ティアはさっと立ち上がると丘をおりて行った。そんなティアの様子に、セシルゥは少し面食らっていた。


 ティアはいつもより足取り早く塔へと戻った。

 セシルゥに家族の話をしたのは、それくらいなら話しても問題ないのではないかと思ったからだ。しかし、やはり話すべきではなかったのではないだろうか。

 とても楽しかったのだ。懐かしい家族の話をするということが。

 歌姫である限り、ティアはほとんど他の人と話す機会がない。塔の階下に住む女からは最低限の声がけがされるだけ。会話らしい会話は、ごくまれに長老と行われることがあるという程度だった。それだって雑談のようなものはいっさいない。雑談と呼べそうなのは、カルロ長老がティアの両親について教えてくれた、あの時くらいだ。

 楽しくて、家族が懐かしくて。少しだけ悲しい気持ちになりかけて、それを押し込めた。楽しい気持ちや嬉しい気持ちはあってもいいのかもしれない。でも、悲しい気持ちや怒りの感情だけは、歌にのせてはいけない。

 セシルゥと会うのはもうやめた方がいい。そう思っていたのに。


 翌朝も、気付けばティアは丘へと向かっていた。

 セシルゥが来る前に帰ってしまえばいいなどという考えは、甘かった。結果として、セシルゥが来るのを待っていた。理性はいろいろ考えるけれど、セシルゥと話すのが楽しいことには変わりないのだから。

 ティアは自分がこんなにも理性より感情を優先するような人物だとは思ってもいなかった。

 セシルゥと会えば、少しずつだが自身や家族のことなどを話した。どこまでなら話していいのか、いつも考えながら。

 ティアはセシルゥが自分より一年早く生まれたことを知っていたが、セシルゥには教えていなかったので非常に驚かれた。ティアのほうが年上だと思ったと言われたのだ。

 こうして二人はゆっくりと、しかし確実に仲を深めていった。

 けれど丘の上だけでの短時間の逢瀬に、たがいに少しだけ物足りなさを感じていた。


 ティアが「失敗した」という顔をしたのは、セシルゥに仕事がない時の過ごし方を聞かれた時だった。

「私は塔から出られないから……」

 油断していた。セシルゥへの信頼や親しみ、そういったものからティアの口が滑ったのだ。

 ティアの言葉を聞いたセシルゥは、思い切り顔をしかめた。聞きようによっては幽閉されているとも受け取れる。それにしては、毎朝のように丘の上で会える自由はあるのだけれど。

「塔ってどこ?」

 セシルゥの真剣な様子にティアは少したじろぎながら、素直に答えてしまった。

「オデオンからあちらの方に行って、あの建物の角を曲がったところ」

 丘の上からその道やティアの言う塔は確認できないが、おおよその位置はわかる。セシルゥは訪れたことがない場所。オデオンや隣に建つ劇場をはさんで町中とは反対側。何もない完全な町外れで、誰も近寄らない場所。

「どうして塔から出られないの?」

「そういう約束だから」

 答えながら、約束だっただろうかとティアは心の中で首をかしげる。塔へ連れてこられた日だっただろうか。勝手に外へ出ないように言われただけだ。それ以来、練習など以外ではずっと塔にいる。それがあたり前だと思っていたから。歌姫候補になるということは、そういうことなのだと、勝手に思っていた。疑いもしていなかった。

 セシルゥの問いは、ティアの心に一点の染みを落としたのだった。


 その日、セシルゥは朝の食事を終えても自室にいた。寝台に寝転がって考え事をしていたのだった。

 セシルゥは気がつけばティアのことばかり考えるようになっていた。毎日のように顔を合わせているというのに。丘の上でわかれてからすぐ、ティアは今どこを歩いているんだろうか、塔についただろうか、見たこともない塔で一人すごしているのだろうか。そんなことばかり考えていた。

 だって、どう考えてもおかしい。仕事の関係で、とティアは言うけれど、だからといって塔の中に閉じ込められているような生活は変だ。そんな仕事、聞いたこともない。

 そんなことを考えているうちにティアが心配でたまらなくなってきた。

 ティアに「困っていることとかない?」と聞いても、不思議そうな顔で「ないよ」と返されるだけだった。そんなやりとりをしているうちに、セシルゥはティア本人から何かを聞きだすことは諦め、自分で調べてみることにした。

「調べるって何からしたらいいんだろう」

 セシルゥは寝台の上で寝返りをうちながら考える。そしてティアについて知っていることを頭の中で思い返す。

 どこかへ行ってしまったという父親については何もできなさそうだ。母親と妹、妹の名はノアと言ってたっけ。その二人なら探すこともできそうだけれど、長く会っていないという。それなら探したところでどうしようもない。

 仕事についてはよくわからない。あとは毎日こもっているという塔。

「塔を探してみようか」

 そうと決まれば話は早い。セシルゥは寝台から起き上がると、すぐに町へ出るしたくをして出かけた。


 セシルゥがティアに教えてもらったのは、オデオンからの方角、曲がる目印となる建物。けれど建物は屋根のあたりしか見えなかったからよくわからない。まずはオデオンへ行ってみることにした。

 家からだと掃除している広場を通らずに行くのが一番の近道。セシルゥは店の立ち並ぶ通りから外れた、ひとけのない家々の間を進んでいく。

 誰にも会うことなくオデオンのそばまでたどり着いたセシルゥは、丘の位置を確認した。ティアに聞いた方角はこっちだろうとめぼしをつけ、そちらの方へと歩いていく。

 ティアに教えてもらった曲がる角に建つ建物を探して、歩く。オデオンから離れるにしたがって建物は少なくなる。全くないわけではないものの、誰かが住んでいる気配のしない建物ばかり。それにどの建物も似ていて、どれがティアの言っていた建物かわからない。

 建物ひとつひとつの屋根を見上げ、曲がり角を覗き込む。どの角を曲がっても、その先にはぽつりぽつりと家が建っている。塔のようなものもあるが、どれも違うような気もする。

 今日一日で見つけられるとはセシルゥも思っていない。今日はおおよその場所の当たりをつけられれば、と少し気軽に思っていた。

 そのまま角で立ち止まりながらも曲がることなく、先へ進んでいく。

 もういくつめの角だろうか。角を曲がったところにいるらしい人影が、ちらっと見えた。この道を進んで初めてみかける人影に、セシルゥは思わず体がこわばる。

 そっとゆっくり家の前を通って角に近づいていくと、足音でも聞こえたのだろうか。突然、角の向こうから人が現れた。

「そこで何をしているっ!」

 角から現れた人は、セシルゥを見つけると大声で怒鳴った。よく見れば、めったに見かけることのない警備の服装をしている。

「あ、いえ、ちょっと散歩を」

 ちょっと苦しいかな? と思いながらも、セシルゥは嘘をつく。案の定、警備の人は眉間に大きなしわを寄せた。

「ここは散歩をするような場所ではない」

「すみません。こっちの方って行ったことないなって思ったらつい」

 セシルゥの言葉に、警備の人の眉間のしわが深くなる。

「二度と近寄るな」

「わかりました。あの、ここには何かあるんですか?」

 目を見開いた警備の人が、いっそう大きな声で怒鳴りつけた。

「お前のような一般人が来ていい場所ではないと言っているんだ! さっさと去れ!」


 セシルゥは慌てて引き返した。あれ以上、何かを聞きだせるとも思えなかったし、先へも進めなさそうだったからだ。

 警備の人がこちらから見えないところまで来て、セシルゥは立ち止まった。

「いったい何だって言うんだろう」

 この国にあんな場所があるだなんて、セシルゥは今まで知らなかった。町はずれすぎて近寄る人なんてめったにいないだろう場所。それでも確実に人を寄せないための警備……?

 家へ戻る道を歩きながら、セシルゥは先ほどのことを何度も思い返しては考えていた。


 翌朝も清掃を終えて丘へ向かったセシルゥだったが、昨日のことがまだ理解できずにもやもやした気持ちを抱えていた。だからだろうか。

「今日は静かなのね」

 ティアがそんなことを言ったのは。ティアはいつだって静かだ。少しだけ話をしてくれるようにはなったものの、基本的にはセシルゥが話しているほうが圧倒的に多い。

「ちょっと考え事」

 苦笑いを浮かべると、ティアは「そう」と小さく呟くと立ち上がった。いつの間にかティアが帰る時間になっていたらしい。

「また明日」

 そう言ったティアは、相変わらず振り返ることなく丘をおりていく。丘をおりた後はどこへ行くのだろうか。セシルゥの中に後をつけたい気持ちが芽生えた。この日は行動に移すことはなかったけれど。

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