第4章(3)

 翌朝、セシルゥは久しぶりにいつもより早く家を出た。清掃もいつも以上に早く終わらせると、丘まで走った。丘の麓が見えてきたところで、足を止めるとセシルゥは呼吸を整えた。丘の中腹にある木の下まではよく見えない。

 祈るような気持ちで、セシルゥはゆっくりと歩みを進めた。足元からは乾いた土を踏む音がかすかに聞こえてくる。丘の麓にたどり着くと、中腹を見上げた。木の下には誰かが座っているような気がする。しかしセシルゥは確信が持てなかった。気のせいかもしれない。

 セシルゥは丘を上りはじめた。一歩一歩、しっかりと草を踏みしめるように、けれどできる限り音を立てないように歩いた。視線は常に中腹の木に向いている。

 中腹まで半分ほどのところまで上ると、木の下に誰かがいることをセシルゥは確認した。鼓動がさらに早まる。彼女ではないかもしれないが、きっと彼女だという予感もあった。

「おはよう。前にもここで会ったよね」

 少し離れた場所からセシルゥは彼女に話しかけた。彼女もセシルゥの存在に気がついていたらしく、立ち上がろうとしたところだった。

「待って、行かないで」

 セシルゥは片手を前に突き出して、彼女が去ろうとする道をふさいだ。彼女と話してみたいという思いが心に渦巻く。

「少しだけでいいんだ、話相手になってくれないかな?」

 意識して笑みを浮かべたセシルゥに、彼女は考え込んでいるようだった。けれど、しばらくすると小さく頷き、再び木の下に腰をおろした。

 その様子を確認してから、セシルゥも隣に腰をおろした。

「僕の名前はセシルゥ。クラン・セシルゥっていうんだ。君の名前を教えてくれないかな?」

 セシルゥは努めて明るい声で話しかけた。しかし彼女はちらりとセシルゥに視線を向けたきり、口を開こうとはしなかった。セシルゥは名前くらい教えてくれてもいいのではないかとも思ったが、何か名前を言えない理由でもあるのだろうか。

「やっぱり今の質問は忘れて。君の名前なんて知らなくてもいいんだ。」

 そんな言葉は嘘だ。本当は名前を知りたい気持ちを抑えて、セシルゥは彼女がここから去ってしまわないように嘘をついた。

「僕は早朝に広場の清掃の仕事をしていて、清掃が終わると毎日ここへ来るんだ。君は? 毎日ここへ来ているの?」

 彼女は少し考え込むような様子を見せ、セシルゥがこの質問も駄目だったのだろうかと思い始めた頃に、小さく首肯した。

 彼女の視線はまっすぐ前を見ていてセシルゥをその瞳に写してはいない。その表情は全くと言っていいほど変わらなかった。


 一方のティアは、自分がなぜ無理にでもこの場を去らなかったのだろうかと、自問自答していた。こんな風にして国民に会うのはよくないことだとわかっている。わかってはいても、なぜだかここから立ち去ろうという気にはなれなかった。

「僕は朝食の時間まで、ここから町を見ているんだ。静かだった町が動き出す様子が、なぜだかとても好きでね」

 ティアに向かってセシルゥは笑いかけながら、自分のことを話し出した。ティアは頷くことで相槌をうつだけで、決して自分のことは話そうとはしなかった。話すことができないのと同時に、話せるようなことがティアには何もなかった。

 歌姫のことは当然何も言えない。練習や儀式の時間以外は塔で寝ているかぼんやりしていることが多い。何を話せるというのだろうか。けれどティアはそのことを気にしてはいなかった。話すことがない、それだけ。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれがティアにとっての事実で、だから自分のことは話さなかった。

 セシルゥは自分の仕事のことや、いかにここから見る景色が好きなのかという話をしていた。

 彼の話を聞きながら、ティアはなぜ自分はまたここへ来てしまったのだろうと考えていた。前回彼とここですれ違ってから、避けていたはずなのに。


 ティアはぼんやりと空を眺めながら話を聞いていたのだが、空の様子がティアの帰る時間になっていることを告げていた。ティアはどこでセシルゥの話をさえぎって帰ろうかと、少し身じろいだ。その動きに気づいたセシルゥも空を見上げて、一つ頷いた。普段なら仕事を終える時間だと気が付いたのだ。

「そろそろ帰らないといけないかな?」

 セシルゥの問いかけにティアは返事をせずに立ち上がった。そしてセシルゥに向かって深々とお辞儀をすると、丘を駆け下りていった。今度はセシルゥも止めなかった。

 彼女の声を聞くことは叶わなかったが、同じ場所で同じ時間を過ごしたことで、――たとえそれがセシルゥが一方的にしゃべっていたのだとしても――気持ちが妙に高揚していた。

 そして明日から再び仕事の時間を早めようと心に誓って、いつものように丘から町を見下ろした。


 ティアは住まいの塔まで走ったり歩いたりして帰った。急いだからなのか、心臓が高鳴りはおさまらない。自室に戻って寝台にうつぶせに寝転がる。

 セシルゥと名乗った青年は、以前にも丘で顔を合わせた人だった。きっと向こうもティアの顔を覚えていたのだろう。前回は逃げたが、今回は逃げられなかった。

 彼はたぶんティアと似た年頃だった。塔にいる世話役の女性とは会話らしい会話をしたことがないし、彼女の方がきっと年上だ。他に会うのは国の長老たちばかり。長老たちの中で一番若いであろうカルロスも、ティアの母と幼馴染という年齢。

 年の近い人からティアが話しかけられたのは、幼い頃に歌姫候補となってから初めてのことだった。ティアが名乗らなくても怒らなかった。むしろ名前なんて知らなくてもいいとセシルゥは言っていた。ティアが一言も話さなくても、気にせず彼はしゃべっていた。

 それに何より、なぜ自分はすぐに立ち去らなかったのか。進路をふさがれたといっても、辺りは草が生えているだけの丘だ。いくらでも避けて去ることもできたのに。ティアは自分自身の行動が理解できなかった。

 彼はきっと国民で、本来なら会ってはならない相手なのだ。


 頭ではわかっているのに、翌日もティアは気づけば丘へと向かっていた。以前のように丘へ行かないことだってできるのに。

 木の下に座って前日のセシルゥの話を思い返していた。ぼんやりと聞いていたこともあって、ひどく断片的ではあるけれども。

 ほんの少しの時間を共に過ごしただけだったが、彼がたまにやってくるおじいさまを苦手としていること、そしていかにこの国が好きかということが、ティアにはよくわかった。

 ティアは自分の家族のことを思い返した。母アルテイシア、腹違いの妹ノア、そして父ナーザ。歌姫になってからは一度も思い返すことのなかった、自分の大切な家族。歌姫候補になってから一度も会っていないが、元気に過ごしているだろうか。

 長い間、会うことも思い出すこともなかった家族。思い出そうとしても、顔には白いモヤがかかったようになっていて、思い出すこともできない。

 すぐにティアは思い出そうとすることをやめてしまった。会いたいという気持ちはずいぶん前に消えてしまった。思い出そうとしたところで、懐かしいという気持ちさえわかない。


――ただ元気でいてくれたら。


 それだけで良いようにティアは思うのだ。家族が何をしているのかとか、そういったことを考えることはなかった。


 早朝の儀式のあとは丘へ行くのが習慣だから、などという言い訳のような気持ちがどこかにあったのは最初の数日だけだった。ティアは以前のように、早朝の儀式を終えると、雨が降らない限りは丘へと足を運ぶ。丘の中腹に立つ一本の木の下に座ると、まだ明けきらない朝の空が微かに照らす町を見下ろす。

 町はいまだ静かに眠りについている。早起きだというパン屋の家――セシルゥが教えてくれたのだ――の煙突からも、まだ煙は出ていない。これがティアや長老たちが守っている国。そしてそこに住むすべての国民を、ティアや長老たちは守っているのだ。

 しばらくすると、その国民の一人であるセシルゥが丘をのぼってきた。その草を踏みしめる足音を聞いても、ティアは身じろぐことはない。その足音がティアのすぐ横で止まる。

「おはよう。今日も早いね」

 セシルゥの挨拶に、ティアが答えることはない。その視線も町を向いたまま。けれどそんなティアを気にする様子も見せることなく、セシルゥはティアの隣に腰を下ろした。すぐ横にあるティアに視線を向けると、セシルゥは再び声をかける。

「おはよう。今日も早いね」

 今度はティアも無言で小さく頷いた。

 そんなティアの様子はいつものことで、セシルゥは彼女の顔を横から見つめたり、町を眺めたりしながら、今日もいろいろな話題を提供する。

「ほら、あそこ。広場の近くにある少し色が濃い屋根が見える? あそこは食堂なんだ。夜には酒も出る。国の外から来た人がたくさんやってくるよ」

 ティアはセシルゥの話を聞いていないようで、ちゃんと聞いていた。幼い頃には知らなかった、あるいは気が付くことのできなかった街の様子。知りたいと思ったことなんてなかったのに、それでもセシルゥの指す建物を目に焼き付ける。心にはそこが食堂であると刻む。


 ティアの世界は、少しずつ変わっていった。セシルゥが毎朝教えてくれるささいな街のこと、家族のこと。市場で出会ったという移民して間もない人のこと。ティアが何も答えなくても、セシルゥは毎朝いろいろなことを教えてくれる。

 休息日の儀式で仮面の下からうっすら見える国民たちの、ティアの知らなかった生活が、セシルゥを通して感じられるようになっていた。仮面に刻まれた切込みは、最低限の視界を確保するためのもので、国民の顔をはっきりと見ることはできない。それがティアの中で国民という存在を薄くしていた。確かにいるはずなのに、顔が見えない存在。それが今でも顔は見えないけれど、その存在が感じられるようになっていた。まるで国民にとっての歌姫のようだと、ティアはふと思う。


 その日も、セシルゥはティアに向かって話しかけていた。前日に自分がした失敗のこと。

「それで、気がついたら顔も体も小麦粉だらけで」

 ティアの視は町に向いているとわかっていても、セシルゥは身振り手振りで話を続ける。

 その時だった。

 ティアの空気が一瞬だけ変わった。確かに小さく笑ったのだった。それは本当に一瞬のことで、セシルゥもじっとティアの顔を見ていなければ気がつかなかっただろう。すぐにいつものように何を考えているかわからない顔に戻ってしまい、セシルゥはとても残念に感じた。けれど同時にセシルゥはてごたえを感じた。

 ティア自身は笑った自分が意外だった。笑うことなんてずっとなかった。とうに忘れてしまった感情だったのに。

 しかし同時に、セシルゥの話を聞いているだけで、じょじょにではあるものの『感情』というものが自分の中に戻ってくるようにも感じていた。歌姫であるためには必要のなかったはずの、自分で捨ててしまったはずの『感情』が。それが喜ばしいことではないのだろう、とわかってはいたけれど。


 それからも毎朝のようにティアはセシルゥと丘で会っていた。ティア自身、いつの間にかそれを楽しみにしていた。

 相変わらずティアが言葉を発することはなかったけれど、たまにセシルゥの話に小さく笑うことはあった。セシルゥはそんなティアを見て、よりいっそうティアにいろいろな話をするようになった。笑っているときのティアは、もう無表情ではなかった。

 しかし、短い時間をともに過ごしたあと、ティアはどこか後悔したような表情をにじませて去っていく日が増えていった。その表情を見るのが、セシルゥはひどく悲しかった。悲しくてもセシルゥができることは何もない。いまだセシルゥはティアから名前を教えてもらっていなかった。ティアは一言も話さないのだから当然だった。


「君は……、僕は君のことをなんと呼んだらいいんだろう」

 セシルゥは心の中で思っただけのつもりだったが、するりと言葉になって口からこぼれ出ていたらしい。思わず口を押さえてもすでに遅い。口を押さえたまま、セシルゥはそっとティアの顔を窺った。いつもの無表情だろうかとセシルゥは思ったが、予想に反してティアは少し驚いた表情を見せていた。

 セシルゥが名前なんて言わなくてもいいのだと言う前に、ティアは少し考えるそぶりをしたあとで小さく口を開いた。

「ティア」

「え?」

「私の名前はティアよ」

 少し緊張を含んだ固い表情で、ティアはセシルゥではなく町の方を見て小さな声で伝えた。セシルゥはとうとうティアがしゃべってくれたことに、感動し喜んだ。

「ティア……ティアっていうのか」

 セシルゥは心の中で、そして声に出して、ようやく教えてもらえたティアの名を繰り返した。

 ティアはそんなセシルゥの様子を見ないようにしながらも、全身で気配を探っていた。名乗ってよかったのかティアにはわからない。

 それでも、ティアにとってセシルゥと過ごす時間は、自分が歌姫ではなくティアという一人の人間としていられるような気がして。彼には「ティア」と名前で呼んで欲しいと思ってしまったのだった。


「ティア」

 セシルゥがティアを見つめて名前を呼ぶ。

 ティアは少しからだを震わせたあと、ゆっくりとセシルゥに顔を向けて答えた。

「何?」

 恐るおそるといったその様子に、セシルゥは笑みを浮かべ、こぶしを握った片手をティアに向かって差し出した。

「あらためて、これからもよろしく、ティア」

 ティアは頷くことで答え、同じように片手をこぶしに握ると、彼のこぶしに軽く合わせた。

 そしてセシルゥの目を見て、小さく笑った。

 そのあとは何となく言葉が出ず、二人は黙って町を見つめていた。

「そろそろ……」

 空の明るさを確認したティアは、そう言って立ち上がった。スカートを軽くはたくと、セシルゥの方へ振り返ることもなく、丘を下っていってしまった。

 セシルゥは黙ってその様子を見つめていた。ティアが丘を下りてからどこへ向かったのか、セシルゥの座る場所からは確認できなかった。

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