第4章(2)
翌朝も日が昇る前に起き出したセシルゥは、着替えて仕事に行く準備を始めた。家の中は静まり返っており、まだ誰も起き出す気配はない。静かに準備を終えると、静かに家を出た。
まだ外は暗いものの、空の端がうっすらと明るくなってきている。まず向かうのは、広場の近くにある道具入れ。昨日片付けた清掃道具を取り出し、いつものように広場の入り口から順に清掃をしていく。もちろん噴水の中も毎日綺麗にしている。広場の清掃を終えると道具を片付け、のんびりとした足取りで町外れの小さな丘に向かった。
余程のことがなければ毎日訪れる小さな丘の中腹に立つ一本の木の下。その日初めて、セシルゥは小さな違和感を覚えた。まるで先程まで誰かがそこにいたかのような、そんな気配が残っていた。しかしこんな朝早い時間にいったい誰がここを訪れるというのだろうか。覚えた違和感は気のせいだろうと思い直し、木に登って街を見下ろす。
いつもの見慣れた街の景色。さほど大きくはない国だが、ここからすべてを見渡すことはできない。それでも国の大半は見える。早起きのパン屋のおじさんは、もうパンを焼き始めているらしい。時間を問わずいつでも入れる公衆浴場の入り口が見える。空が明るくなり人々が起き出したからか、段々と人々の動く気配が強くなる。
空の様子に朝の食事の時間が近付いていることに気づいたセシルゥは、木を下り自宅へと歩き出した。
ある日の夕方、久しぶりに祖父であるガデス長老がやってきた。来た時から少し機嫌が良くなかった祖父は、夜の食事の後にセシルゥを呼び出した。セシルゥの家に来る前から既に飲んでいたらしく、食事と共にさらに飲んだ祖父は、明らかに酔っ払っていた。そして機嫌が悪かった。
「セシルゥ、お前はいつまで清掃夫などという仕事を続けるつもりだ? 清掃夫には、お前よりもっとふさわしい者が他にいるだろう? 何もわざわざ早朝の仕事を選ぶ必要はない。お前は仕事を選べる立場の人間だ。仕事をしないことも、仕事ではないのか」
淡々とセシルゥに向かって言う祖父は、表情一つ動かない。
「おじいさまは、どのような人物が清掃夫としてふさわしいとお考えなのでしょうか? 僕は、この国が好きです。この国に住む人たちが好きです。だから皆の集まる広場の清掃をしているのです。」
「清掃など、誰だってできるではないか。仕事を選べない人間、学や教養のない人間がやればいい。セシルゥ、お前にはきちんとした教育を受けさせたはずだ。それにふさわしい仕事をしようとは思わんのか」
セシルゥは心の中でため息をこぼした。少しでも油断をすれば「クソじじい」などと言ってしまいそうになる。
「僕は、僕の意志で、この仕事を選びました。僕なりに考えて、僕の好きなこの国と人々のためにできる仕事を選んだつもりです」
セシルゥの言葉に祖父は何を思ったのか。それ以上言及することもなく、無言で立ち上がり部屋を出て行った。代わりに緊張の解けたセシルゥが座り込む。
セシルゥの父は祖父であるガデス長老を始めとした長老たちの下で働いている。祖父がセシルゥに父のようになって欲しいと思っているらしいことも、セシルゥは薄々感じていた。しかし、セシルゥにしてみれば、それこそ自分よりふさわしい人物がいるに違いないと思っているのだ。施政の場に自身はふさわしくない。というよりも、合わないのだ。きっと。自分が施政の場に身を置くことを想像できず、またそういう仕事が出来るとも思えなかった。
そうしてセシルゥの日々は過ぎていった。
早朝から広場の清掃を行い、帰宅後に朝の食事をとる。その後は出かけたり自室でのんびりと過ごし、夜の食事を終えると早々に眠りにつく。たまに祖父のガデス長老がやってきては小言を繰り返し、気分が落ち込む。
大きな変化はないけれど、小さな変化や発見は数え切れないほどある。毎日がとにかく楽しいわけでもないけれど、飽き飽きすることもない。
平凡な普通の幸せな毎日を送っていた。
小さな発見の一つは、早朝、仕事を終えた後に向かう丘の中腹でのことだった。初めて違和感を覚えたあとも、毎日ではないものの、少し前まで誰かがいたような気配を何度も感じた。例えば、木の下の草の一部に、誰かが座った跡のようなものがついていたり。例えば、雨上がりに足跡らしきものがついていたり。
しかし気配は残っているものの、セシルゥがその人物に出会うことはなかった。セシルゥは仕事の手を抜いてまで早く丘に向かおうとは思わなかったし、丘へ向かう足を早めることもなかった。あくまでもいつも通りで、ふとした時に感じる気配にいつの間にか慣れていき、気にすることもなくなった。
その日の前日、久しぶりにガデス長老がセシルゥの家を訪れていた。夜の食事のあとにセシルゥを呼び出したガデス長老は、しかしいつものような小言を言いはしなかった。ただ、セシルゥの仕事について聞いてきただけだった。そしてまた、成人したらどうするつもりなのかとも。ガデス長老が帰った後にセシルゥが父から聞いたところによると、ガデス長老はセシルゥが成人するまではこれ以上何も言わないことに決めたらしかった。その心境の変化が何によるものなのかは父にもわからないそうだが、セシルゥはひとまず安心した。成人するまでは、祖父の小言がなくなることを喜んだ。
前日は建国を祝う祭りが広場で行われていた。セシルゥは早朝の仕事のために祭りの途中で帰ってしまったのだが、祭りの後片付けでいつもより掃除に時間がかかるだろうと、いつもより早く家を出た。
広場に着いたセシルゥは、すでに祭りの気配が跡形もなくなっていることに驚いた。祭りの最後に全員で片付けたかのような雰囲気で、いつもよりかなり早い時間に仕事を終えることとなった。
「いつもよりゆっくりできるかな」
そんなことを呟きながら、セシルゥは丘へと歩みを進めた。まだまだ暗い時間、丘を登り始めたセシルゥは違和感を覚えた。普段感じていたのは、誰かがそこに『いた』気配。でも今は、まだそこに誰かがいるような、そんな気配を感じた。空が暗く、丘の中腹にある木は輪郭だけが見えている。
自分の足元で水気を含んだ草を踏みしめる音が聞こえている。夜露をまとった草の新鮮な匂いが漂う。
木に近づくにつれて、木の下に人が座っているような輪郭がぼんやりと見えてくる。向こうもこちらに気づいたのだろうか。身じろぐような気配がした。それと同時にどこか戸惑っているような雰囲気も。
「おはよう、早いんだね」
セシルゥは木から十歩ほど離れた場所から相手に声をかけた。髪の毛が長い。女性だろうか。
「あ、あの。……私」
明らかに動揺しているのがわかる声色。立ち上がるように輪郭が動く。
「君だよね? 毎日ここに来てるの? 僕、いつもはもう少し遅い時間にここに来ているんだけど、今日は仕事が早く終わって……」
セシルゥが話している途中で、彼女は逃げるようにセシルゥの横を通って走り去った。
セシルゥは唖然としてそれを見送るしかできなかった。
しかし、それまでは気配しか残っていなかった人に、セシルゥはとうとう初めて会った。それはセシルゥを不思議な気持ちにさせた。
一方で、ティアは激しく動揺していた。与えられているつかの間の自由な時間。条件の一つに国民に会わないことがあった。それに早朝の儀式の前後なら会うこともないだろうと言われていたのに。
人がいた。それもティアがあの丘に通っていることに気づいているかのようだった。ただ、ティアが歌姫であることは知られていないようだった。それはそうだ。歌姫のときのティアは顔を仮面で隠している。彼女は歌姫でありティアではないのだ。
丘を駆け下りたティアは、そのまま早足で塔へと向かった。
いつもよりずっと早く鳴る鼓動は、きっと急いで塔へと戻ったせい。ティアはそう思い込もうとした。
塔の寝台でティアは思い返す。彼はティアと同じくらいの年齢に見えた。同じくらいの年齢の人と言葉を交わしたのはいつ以来だろうか。きっと歌姫候補となってからは初めてだった。
いつまでも胸の高鳴りが治まることはなかった。
そして、翌日からティアは丘へと向かうのをやめた。彼にまた会うかも知れないと思うと怖かったのだ。
セシルゥは丘で会った女性のことを家に帰ってからも思い返していた。気配だけの人に出会った。かわいらしい女性だった。肩の中ほどまでに伸びた髪は、この国ではよく見かける淡い茶色だった。毛先が少しうねって触ったら柔らかそうで。少し意思の強そうな瞳は何色をしていただろうか。国の住人のすべてをセシルゥが知っているわけではないけれど、それでも全く見たことのない顔だった。最近この国に来たばかりなのだろうか。
(また会えるだろうか)
朝の食事も上の空で終えると、店が開くのも待たずに街へと出かけた。朝会った女性に会えるのではないかという期待と共に。
一日かけて街の隅から隅まで、それこそすべての店を覗き込み、人のいない道も歩き回った。しかし、セシルゥがあの女性に会うことは叶わなかった。
翌日、セシルゥは前日のようにいつもより早く家を出て広場へと向かった。早く丘へと向かいたい気持ちを抑え、セシルゥは広場の掃除を丁寧にこなしていく。
何があっても仕事の手は抜かない。それだけは決めていた。長老の孫だからと言われたくはないのだ。長老の孫でもきちんと仕事ができるところを見せたい。ただその一心で黙々と、けれどいつもより早く手を動かして掃除をこなしていった。自分自身がどこか意固地になっていることに、セシルゥは気が付いていなかった。
結果として昨日と同様、いつもより少し早く広場の清掃を終えたセシルゥは、丘へ向かって走った。途中で息が切れて早歩きになってしまったのは仕方がない。
セシルゥは丘の麓にたどり着くと中腹を見上げて、どうやら人の気配がないことに気を落とした。それでもゆっくりと丘を上ると、中腹にある木の下に座った。
朝露に濡れた草の匂いがする。自分の腕を枕代わりに草の上へ身体を横たえて空を見上げる。空には雲が広がっていた。
空がすっかり明るくなるまでそこにいたセシルゥは、昨日の女性に会えなかったことに落胆しながら帰途についた。
今日はたまたま来なかっただけかもしれない。そう思いながらも、朝の食事を終えたセシルゥは再び街へと出かけた。店を覗き込み、店番をしている人たちと話をしながらも、昨日の女性がどこかにいないか、そればかりが気になってしまう。
日が沈み始める頃になっても、セシルゥは街を歩き回ったが、この日もあの女性に会うことは叶わなかった。
家に帰って夜の食事をとる間も、セシルゥの頭の中は丘で会った女性のことでいっぱいで、両親の話にも上の空だった。
翌日も、その翌日も、あれから毎日、セシルゥは普段より早く家を出て広場の清掃を丁寧に行っていく。そして丘へと向かうのだが、そこに女性の姿はおろか、誰かがいた気配も感じられなかった。朝の食事の時間に間に合うように帰るのだが、女性に会えないことに落胆していた。
街へ出て女性を探すことも五回目でやめてしまった。それからは、少しだけ街へ出たあとは自宅に戻って、自室に閉じこもることが増えた。
両親はセシルゥの行動に疑問を感じたものの、すぐにそれが日常になり、何を言うこともなかった。もともと、セシルゥにあれこれ言うような両親ではない。セシルゥに対して一番口うるさい祖父は、しばらく顔を出しにこない。セシルゥは小言に煩わされることもなく、日がな一日、女性のことを考えていた。
そして気が付けば暦の上では月が二つ変わっていた。
この頃になるとセシルゥは女性に会うことを諦めていた。もしかしたら旅の途中で立ち寄っただけの人だったのかもしれない。朝の掃除も、徐々に以前と同じ時間に始めるようになっていった。
それでも丘の上から街を見下ろしていると、彼女のことをいつの間にか考えていた。記憶の中の彼女の姿は日に日におぼろげになっていく。しかし靄(もや)がかかったような顔を、思い出そうとせずにはいられない。
そうして更に次の月へと変わる頃、セシルゥは久しぶりに丘に残る人の気配に気づいた。あの女性かもしれないし、違うかもしれない。それでも胸の高鳴りを抑えることはできなかった。
その日一日、セシルゥは街へ出かけることなく、自分の部屋で過ごした。
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