第4章(1)
早朝、ようやく辺りがうっすらと明るくなってきた頃。この小さな国のちょうど中心にある広場に、一人の少年の姿があった。
彼は広場の片隅にある入り口から始まって、徐々に広場の中央へ向かいながら落ち葉をかき集めていく。履物を脱ぎ捨て、服が濡れないように裾をまくると、広場の中央に設けられた噴水の中にも入っていく。ずいぶん暖かくなってきたとは言え、早朝の水はまだ肌を刺すような冷たさだ。けれどもそんなことはお構いなしで、隅から隅まで広場の掃除をしていく。
彼が広場の清掃員になってからすでに数年。作業は手なれたものではあったけれど、決してその手をゆるめることはしない。
広場全体の清掃が終わる頃には、太陽が半分ほど顔を出し、周りも十分とは言えないにしても明るくなっていた。小さな国の広場とは言え、それなりに広さはある。
「今日もきれいになったなー、うん。ここまでなればいいかな」
広場を見渡しながら一人つぶやいた彼は、清掃道具を片手に広場を出て行った。広場のすぐ隣には建物が建ち並んでいる。今はまだ時間が早く誰もいないが、日中には端の建物で長老たちが集まり、建物に挟まれた路地では数々の店が開かれている。広場から建物の立ち並ぶ一帯は、国民が最も集まる場所になっている。
そのなかで広場に一番近い場所に小さな扉があり、彼はそこに入っていった。そこは広場を維持するための、彼が先ほどまで使っていた掃除道具を含むさまざまな道具が保管されていた。その一角に手にしていた清掃道具を片付けると、扉を出て街外れへと歩みを進めた。
その足取りはのんびりとしていて、少年は空を見上げたり道端に咲く小さな花に足を止めたりしながらも、目的の場所へと確実に近づいていた。
少年の名前は、クラン・セシルゥ。もう数回も季節が変わればようやく、成人と認められる年齢である。早朝は広場の清掃員として働いて収入を得ており、日中は自宅でのんびりと過ごすのが彼の日々だった。成人すれば、日中も働かなければならないのかもしれないけれど、それでもセシルゥの家柄からすれば、広場の清掃員としてであっても働く方が珍しい。
長老たちの長であるガデス長老という国の頂点に立つ人物を祖父にもつセシルゥは、働かなくとも十分生活ができるほど、恵まれた家庭に生まれたのだった。
けれど、威圧的なところもある祖父をセシルゥはなぜか好きにはなれなかった。長老としての仕事が忙しいとかで、この国の民としては珍しく、広場の近くに祖母と二人だけで住んでいる。それでも国を治める立場の祖父のことなら風の噂がいくらでも耳に入った。
めったに会うこともないが、それでもたまに会う祖父は、セシルゥが清掃員として働いていることに良い顔はしない。だからこそとも言えるのだろうか。祖父に反発するかのように、セシルゥは清掃員の仕事を続けていた。
国民たちをまとめる役目のある長老という肩書きの重さは、セシルゥにだってなんとなく理解できている。長老であるために、家族との絆を犠牲にしなければならないことも。幼い頃にはわからなかったことだって、今ならわかる。
わかるけれど、それと感情は別物だった。理解はできるけれど、家を妻である祖母にまかせっきりで、ほとんど帰ってはこない生活を続けた祖父を、セシルゥは好きにはなれなかった。
セシルゥが目的の場所に着く頃、あたりはすっかり明るくなっていた。街外れにある小さな丘。毎日のように、広場の清掃を終えるとセシルゥはここに足を運んでいた。目を覚ました人々が動き出す気配を背に。
丘の中腹に立つ一本の木。立派な枝の広がるその木の中ほどまで登って、街を見下ろした。
そのまま、朝の食事の時間までをただじっと過ごすのがセシルゥの日課だった。本当にただじっと、街を見下ろしているだけの時間。けれどその時間はセシルゥの心を穏やかにさせていた。
昨日も久しぶりに、けれどいつものように突然やってきた祖父は、セシルゥの仕事について文句を言っていた。
どんな仕事であれ、仕事は仕事。長老一家の面目がどうとか関係ない。長く続けてきたこの仕事に、セシルゥはそれなりに誇りだって持っている。長老だからと、家長だからと、自分の仕事を見下されたくはなかった。
昨日のことを思い出しただけで頭痛がするような気がする。――セシルゥはこめかみを軽く押さえた。
祖父はいつだって言っていた。外で働ける者は働き収入を得る。働けない者は自分のできる範囲で働く者を助け、あるいは家の中を守るものだと。そこに性別は存在しない。年齢でさえも。そうしてこの国は発展してきたのだと、そう誇らしげに言いさえするのに。
――自分の身内はまた別だとでも言うのだろうか。
憂鬱な気分を飛ばすように頭を一振りしたあと、セシルゥはもう一度街を見下ろした。
街よりもっと手前に、オデオンと劇場が見える。休息日になれば劇場では歌姫の儀式が行われ、多くの国民が参加する。
儀式と言っても歌姫が歌を歌う。ただそれだけのこと。それだけなのに、なぜか参加したあとの国民の表情は晴れやかになる。心の中に潜む影とかそういったものがどこかに行ってしまうのだと、誰かが言っていた。どこからともなく勇気や希望が湧いてくるのだと、誰かが言っていた。
そんなことをぼんやりと思い出しながら、彼はオデオンをじっと見つめていた。
セシルゥ自身は幼い頃に何度か家族に連れられて行ったことがあるだけで、ここ何年も行ってはいなかった。
歌姫や儀式と言ったものを否定しているわけではない。セシルゥは何があっても、すべては自分自身に起因するのだと思っている。歌姫も儀式も気休めにはなるかもしれない。けれどセシルゥの生活には必要のないものであったし、長老である祖父を思い起こさせるものでしかなかった。
「そろそろ時間かな」
空の明るさを確認し、朝の食事の時間が近づいていることを知ったセシルゥは、座っていた木の枝からゆっくりと地上へ降り立った。
両手を天に伸ばし、じっくりと全身を伸ばしていく。全身の筋肉がほどよくほぐれたのを実感すると、ゆっくりと丘を下り始めた。足元からは、履物が水を含んだ草を踏む音がかすかに聞こえてくる。一定のリズムを刻むその音を聞きながら、セシルゥは丘をおりるのだった。
丘の麓にたどり着くと、そこからは少し早足になって自宅へと向かった。
周りに立つ家々からは、朝の食事の匂いが漂ってくる。パンの焼ける香り。ヤギのミルクを料理に使っているらしい、どこかほんのりと甘い香り。
そんな匂いに刺激されたのか、セシルゥの腹が低く小さな音を立てた。
辺りには誰もいないのをわかっていても、セシルゥは軽く下腹に力を入れると、誰かに腹の音を聞かれていないかと見回す。そうして誰もいないのを確認して、ほっと息を吐き出した。どうにも腹の音を聞かれるということが、セシルゥは恥ずかしくて仕方ないのだ。
広場から一本外れた道を進み何度か左右に曲がった先に、セシルゥの家はある。町外れに近いその場所は、土地もいくぶん街中に比べて広い。
自宅に着くとちょうど朝の食事の準備が整ったところだったらしい。
両親、兄や姉と共に食事の席についたセシルゥがさほど待つこともなく、朝の食事が始まった。簡単に祈りを捧げ、今日も食事を頂けることに感謝を示す。
食事はいつも厳かで静かである。誰も一言も発しない。黙々と口に食べ物を運んでいく。
食事を終えると、セシルゥは家の片隅にある自室へと戻った。
仕事中にはまだ閉ざされていた広場の隣の店々が開くまでのひと時を、セシルゥは自室の窓から庭を眺めてすごすことが多い。
庭の隅には様々な花が咲いている。濃淡の緑の葉を茂らせた低木もあれば、まだできたばかりの蕾もある。今にも咲き誇りそうな蕾や、今日の夜には落ちてしまっているのではないかと思われる花さえも。
低木や花々の向こうに広がる空は、薄くて平坦な青色をしている。今日も天気はいいらしい。
街の方から活気溢れる音が届くようになると、セシルゥは自宅を出て街に向かった。
「おばさん、おはよう」
「セシルゥ、おはよう。今日も広場をきれいにしてくれて、ありがとうね」
顔見知りのおばさんとすれ違いざまに言葉をかわす。
少し走るようにして広場へと続く道を進む。掃除の時には全くひとけがなかった通りも広場も、今はもう人があふれていた。この活気の中、お店を見て回るのがセシルゥの日課の一つになっている。
「おいしいヤギのミルクがあるよ」
恰幅のよい、顔に柔らかな皴の刻まれたおばさんの張りのある声に誘われ、セシルゥは店の前で立ち止まる。毎日のようにここを訪れている彼は、ほとんどの店の人と顔見知りになっていた。けれどこのおばさんは初めて見る顔だった。新しくやってきた移民なのだろうと、セシルゥは深く考えることもない。
「飲んでみるかい?」
おばさんの問いかけに笑ってうなずくと、ヤギのミルクの入ったカップを受け取って一口飲んでみる。
「あ、おいしい」
思わず口元が緩むほど、ヤギのミルクは今まで飲んだ中で一番新鮮で濃かった。おばさんはセシルゥの表情を見て、とても嬉しそうに頷く。
「そうだろう、そうだろう? 絞りたてはもちろんだが、ヤギたちの餌にもだいぶ気を使っているからね」
「おばさん、これちょうだい! そうだな、……五杯かな。いくら?」
家族の顔を思い浮かべ、数を伝える。目じりと口元に皴を刻みながら笑みを浮かべたおばさんにお金を払うと、セシルゥは受け取ったミルクを抱えて家へと戻った。
セシルゥの頭の中には、今飲んだばかりのおいしいヤギのミルクを家族にも飲んでもらうことしかなかった。早朝の陰鬱な気分はとうに過ぎ去り、好きになれない長老である祖父のことも忘れていた。
「セシルゥ、おじいさまがおいでよ」
家に帰ってすぐにセシルゥは買ってきたヤギのミルクを家族へとふるまった。全員が「おいしい」と言葉をもらし、それにセシルゥは満足すると自室へと引きこもった。
母親がセシルゥの自室を訪れてその言葉を伝えたのは、高く昇った陽が今度はゆっくりと沈み始めた頃だった。
「そんなに嫌な顔をしないでちょうだい」
二日続けての祖父の来訪に顔を歪めたセシルゥを、母親はすぐにたしなめた。
「わかってる」
セシルゥは低い声で答えると、立ち上がった。嫌っていたところで無視はできないのだからと、しぶしぶ母親に続いて部屋を出た。祖父のいる広間までの短い距離を、セシルゥは足取り重く進んだ。
家族が集まるときに使われる、奥側の私的な広間に祖父であるガデス長老はいた。ガデス長老はセシルゥの部屋から見えるのとはまた別の庭を眺めていた。けれどその瞳や表情にはどんな感情も浮かんではいなかった。見るものがないから庭を何とはなく眺めている、そんな雰囲気だった。
「おじいさま」
セシルゥは広間の入り口からガデス長老に声をかけた。本音では声をかけたくはないのだ。祖父と話をするのは憂鬱だった。
「あぁ、セシルゥか。こちらへ来なさい」
セシルゥへ目を向けることもなく、ガデス長老はいつものように厳しい声音をしていた。セシルゥの気持ちはあっという間に暗く沈んでいた。この雰囲気はまた小言でも言われるんじゃないだろうか、そう思えてならないからだ。
せめてと思い、セシルゥはガデス長老から一番離れた席に腰掛けた。それを見たガデス長老は小さく眉をひそめたのだが、それに関してセシルゥに何か言うことはなかった。
「お前はいつまで清掃夫などという仕事を続けるつもりだ?」
(また始まった)
セシルゥは心の中で顔をしかめた。昨日も聞いたばかりの小言が、今日もこの場で繰り返されるのだろう。セシルゥはうんざりしながらも、懸命に顔に出すまいとしていた。しかしこの日のガデス長老は暇だったのか、前日にも増してセシルゥに仕事に対する小言を延々と言った後、祖母が迎えにきてようやく帰っていった。
セシルゥは安堵しながらも、うんざりした様子を隠せないでいた。頭のどこかにイライラした気持ちが離れずにいた。それでも、公衆浴場に行って帰ってきた頃には気持ちもだいぶ落ち着いており、翌日の仕事のために眠りについたのだった。
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