第3章(3)

 早朝の儀式も何度か経験し、今までとは違う日常に少しずつ慣れてきた頃。

 早朝の儀式のあと、ティアは一人でオデオンから塔へ戻ることになっている。塔に戻っても、朝の食事まではまだ時間があり、窓の外をぼんやりと眺めながら過ごすことも多い。そんな中、早朝の儀式のあとに長老から言われた一言がティアのその日の行動を変えた。

「歌姫になった以上、今までほど多くの制限はない。お前の練習時間は今までよりもずっと短くなっただろう? 国民に会わない場所や時間ならば多少、外を出歩いても構わない」

 国民に会わない時間とは、早朝の儀式の直前か直後。国民に会わない場所とは、塔やオデオンのある町外れ。そうティアは説明された。長老たちの意図などティアにはわからない。ただ自由な行動を少しだけでも許された。それだけだった。日中は練習がなくても外出が許されないのは今までと変わりがない。

 正直なところ、早朝の儀式の後に塔へと戻り、朝の食事までをぼんやりと過ごすことにティアはなんとなく退屈さを感じていた。練習で歌うのでも良い。ただぼんやりとはしていたくなかった。日中だって、部屋の中で過ごすには何も無さすぎるのだ。部屋で過ごすにしても、何もすることがない。だからと言って何かをしたいわけでもなく、早朝の儀式のために明るい部屋の中、寝台にもぐって眠ってばかりいた。

 しかし、そんな生活にもいつかは慣れるのだろうと、そう思っていたのも事実だった。


 長老に少しの行動の自由を許可されたその日、さっそくティアは塔から外れた道を歩いていた。特にどこへという当てなどなかった。それでも塔へまっすぐ帰る気にはなれず、オデオンを出て少し歩くと、塔とは反対方向へと歩き出したのだった。

 その先にあるのは、さして大きくはない丘。オデオンから少し離れた場所にあるその丘は短い草に覆われており、中腹には枝が大きく広がる一本の木が立っている。歌姫交代の

儀式を見た日に初めて気づいたその丘へと、ティアは向かっていた。

 何もない野原を少しだけ歩くと、すぐに丘の麓へとティアはたどり着いた。そこから、なだらかな斜面へと連なり丘となっている。ティアは丘を見上げると、中腹にある木を目指してのぼり始めた。中腹とは言ってもすぐにたどり着く。木の根元へと腰をおろせば、オデオンの丸く開いた天井から中の祭壇あたりまでが見える。オデオンを上方から見るのは、初めての経験だった。

 両手を体の前で組みながら、背中を木の太い幹へと預ける。少し斜めになった上半身は空を見るのに都合が良いとばかりに、ティアは空を見上げた。まだ早朝、ようやく空の端が明るくなってきた時間帯だ。ティアは空が白み、明るくなるのをじっと見つめていた。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。

 ぼんやりと空を見上げていたティアの焦点がふいに定まり、空がすっかり明るくなったことを認識した。

「戻らないと……」

 少しだけ名残惜しそうに、ティアは丘を早足で降りると塔へと続く道を歩き出した。


 それはティアにとって、歌姫候補として塔に住むようになって初めてとも言える、外での自由なひと時だった。


 今の生活に不満があるわけではない。自由はないけれど、だからと言って何をしたいというわけでもない。自分の部屋の中で自由に過ごすことができた。それに慣れてしまって、それ以上を望まなくなっていた。ティアは自分の生活に満足していたわけではないけれど、かと言って不満があるわけでもなかった。歌姫となり、塔で過ごす時間が増えたことにたいして暇だとか退屈だとか、そんなことを感じてはいたけれど。

 そんな中で突然与えられたひと時の自由。それほど長い時間ではないとは言え、誰もいないけれど、塔の自分の部屋でもオデオンでもどこでもない場所で過ごせる自由。

 その日から毎日、雨が降らない限り、ティアは早朝の儀式のあとには丘へと足を向けるようになった。丘の中腹にある木の根元に腰をおろし、木に体を預けるようにすると、そこから見えるオデオンや街並、空を飽くことなく見つめていた。そして空がほとんど明るくなり朝の訪れを感じると、ティアはそこを立ち去る。

 ティアが丘につく頃の街は寝静まっており、人の気配はしない。けれどティアがそこを立ち去る頃には、どこかしら人々が起きだして動いているような気配を感じるのだった。

 もうずっと長いこと、長老たちや階下に住む女、そして警備をしている者たち以外の人には会っていなかった。言葉を交わすとなれば、それこそ長老たちくらいのもの。そんな中におとずれた、見知らぬ誰かの気配。それは感情を押し殺し続けたティアの心を、少しだけ波立たせるものだった。


 その日は休息日だった。ティアは早朝の儀式を終えると、いつものようにつかの間の休息を楽しみに丘へとのぼった。オデオンの隣にある大きな建物が劇場。そこでティアは休息日の儀式を行う。休息日の儀式も、ようやく三回目。早朝の儀式とは違って大勢の前で歌うことに、ティアは少なからず緊張してしまう。丘の上で木にもたれながら、ティアは空を見上げていた。

 休息日の儀式の準備は朝になってからで間に合う。いつものように朝がきたら塔に戻れば良い。ティアはぼんやりとここ最近のことを思い返していた。

 ティアが歌姫になってから、まだ三回目の休息日。――もう三回目の休息日。

 ただひたすらに、突っ走ってきた。そう思える日々だった。儀式の練習だって何度となくしてきた。それでも、実際に歌姫になってする儀式は、どこかしら肩に力が入ってしまうのだった。まだ慣れていない。ティア自身はそう思っていた。それでも、儀式の出来映えに長老が何も言わないのは、それなりにちゃんとした形になっているのだろうと、ティアは一人で納得していた。

 歌姫として過ごす日々の生活も、すでに毎日決まったように過ごすようになっている。あとはどうしても儀式の最中に意識がいってしまう手の中のブルークリスタルが気にならなくなれば……。そこまで考えてティアは、思考を止めた。

「今日はもう戻ろう」

 そう呟くとティアは、体に少し反動をつけて立ち上がった。うっすらと空全体が白く明るくなってきたばかりだけれど、ティアは自分の塔へと戻っていった。


 季節が一つ変わる頃、ティアはもう儀式の最中にブルークリスタルを気にすることもなかった。相変わらずどこか緊張した自分に気づいてはいたけれど、それを除けば、すっかり歌姫という生活に馴染んでいた。次の歌姫へ交代するまで、自分はこのまま同じ日々を過ごすのだと、ティアは疑うことはなかった。それほど平坦な日々。

 早朝の儀式が終われば、天気が悪くない限り丘にのぼる。中腹にある木の下に座り込むと、空が明るくなるのを見ていた。以前より空が明るくなるまでの時間が長くなったと、ティアは感じていた。その空の下にはオデオン、隣には劇場。オデオンや劇場の向こうには、寝静まって人の気配のない街が広がっていた。空が明るくなり始め、人の気配が漂い始めるとティアは丘を離れる。

 塔の自室へと戻ると、朝の食事をとって寝台にもぐりこむ。早朝の儀式が深夜に行われるため、ティアは朝の食事の後と夜の食事の後の二回にわけて眠るようになっていた。最初は眠くて仕方なかったそんな生活も、もう慣れた。夜の食事の前には、練習もある。その前は、日によっては公衆浴場へ行く。

 その日常に、例外はなかった。

 与えられた少しの自由と、短くなった練習時間。儀式に伴う眠る時間帯の変化。それ以外、歌姫になる前とは代わり映えのしない日常。

 けれど、与えられた少しの自由が、実はとても大きな自由を与えてくれるものだと、ティアはまだ知らない。


 その日も、早朝の儀式を終えたティアは丘にのぼっていた。丘の中腹にある木の下に腰をおろすのは、もうとっくに習慣になっていて、気づけばそこにいたという日もある程だった。

 早朝の儀式の前までは雨が降っていた。儀式の最中、降り注ぐ雨を遮るものなどオデオンにはないから、ティアは全身が雨に当たってしまう。別にそのことにたいして何か思ったことはない。儀式は歌姫であるティアにとって義務であり、雨が降ったとしても、汗が吹き出るくらい暑かったとしても。それはティアにはなんら関係のないことなのだ。

 さすがに雨あがりだからだろう。地面を覆う草はたっぷりと水分を含んでいた。儀式の前には雨があがっており、今日のティアはほとんど濡れてはいなかった。服が湿るのを気にすることなく、ティアはいつものように木の根元に腰をおろした。

 上を見上げれば、木の葉も水分をまとっている。視線を動かしてオデオンを見つめる。何度となく見てきた光景。それでもなぜだか飽きることなく見続けてきた。

 空がようやく明るくなり始めた頃、ティアは立ち上がり丘をゆっくりと下り始めた。さすがに草の水分を吸い取った服のお尻のあたりが冷たくて気になった。体も思ったより冷えている。季節が変わり、人々は日に日に寒さを感じるようになっていた。

 儀式に穴をあけるわけにはいかない。歌姫の代理などいないのだから。ティアは足取りを速めて塔へと向かった。服を着替え、冷えた体を温めるために。


 長老たちは、ティアがすっかり歌姫として儀式を執り行えていることに安心していた。ティアの持つブルークリスタルの影響なのか、ティアの力は一番長く長老を務めているガデスの知る限りで最も強い。国の人々へもたらす穏やかな気持ちと、どこか絶対的な安心感。国中のすべての人々が儀式に参加しているわけではなかったけれど、それでも、ティアが歌姫になってからの内政は安定し続けていた。

 やはり歌姫は歌姫なのだと、この国に平和と安定をもたらす存在なのだと、長老たちは思っていた。移民を手放しで迎え入れてきた歴史のツケなのか、この国を手中におさめようとする不穏な動きもあったのだ。それもティアが歌姫になってしばらくして、そんな不穏な動きも消えていた。平和に慣れきった国民たちの気性は穏やかで、優しい。それにつけこむかのような外からの移民たちもいたのだ。

 それもすべて、歌姫のおかげだろうと長老たちは考えていた。やはりティアを歌姫に選んだことは間違いではなかったのだと。歌姫がいれば、時には不安定な時代が訪れようとも、こうして国は長く続いていくのだと。


 それが、長くは続かない幻想でしかないとは気がつきもしないで。

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