第3章(2)
オデオンにつくと、ティアは裏の通路の奥へと連れて行かれた。行き止まりの壁には秘密の扉があり、さらにその先には歴代の歌姫たちの墓があるのだが、ティアはもちろんそれを知らない。ただ、壁の前で死する者への祈りを捧げる歌を歌うように言われただけだった。
ティアはガデス長老に言われるがまま、歌を紡いだ。何もない壁に向かって紡ぐ歌はなんだか妙ではあったけれど、ティアは気にすることもなかった。
短い歌はそれほどの時間をかけずに終わり、それと同時に次の場所へと連れていかれた。そこは通路を少し戻った場所にある、小さな部屋だった。
その部屋は、中央に小さなテーブルが置かれているだけだった。テーブルの上には一振りの剣。その剣は、柄の部分にだけ何か飾りがついていた。壁の高い場所にある窓からうっすらと入る月明かりを、その飾りが鈍く反射していた。
よく見てみればそれは、前回の交代の儀式でティアが見たあの剣と同じものだった。ティアはそれに気づいた途端、体の奥底が震えるような感覚におちいった。
「これを、覚えているか?」
剣の柄を手に取ったガデス長老は、ティアに視線もくれずに問いかけた。ティアは声には出さず、頷くことで答えた。見てはいなかったものの、ガデス長老にも気配は伝わったのだろう。満足げに頷いてみせた。
「儀式の手順は既に教えた通り。そのままにやれば、問題はないだろう。合図をするまで、ここにいなさい」
手にした剣をそのまま持ったガデス長老は、言い置いて部屋を出て行ってしまった。ティアは部屋の隅へと移動し、壁に触れるか触れないかのところで立っていた。目を閉じて何年か前に見た儀式を思い出していた。
ガデス長老が剣を持って現れた。剣は歌姫の手に。刃先が天を突き刺し、振り下ろされて空気を薙ぎ、振り上げられた。その軌跡が見えた気がした。あの時は綺麗だとさえ思った剣。けれど、先ほど長老が手にしていた剣は、暗い部屋の中では鈍く月明かりを反射するだけで、美しいとは思わなかった。月明かりがなかったらきっとあの時の剣だとは気がつかなかっただろう。ただ、人の命を奪う凶器としか認識できなかっただろう。
祈りを捧げ、剣を固定した歌姫の後ろから現れた新しい歌姫。もうすぐ私がやらなければならない、歌姫。
儀式のための剣は美しかったけれど、それでもやっぱり歌姫の命を奪う凶器でもあった。
そこまで思い返したティアは、そのあと自分がとるべき行動を反すうしていた。この数日で覚えたそれらは、多くはない。『神の卵』へ祈りを捧げる歌、交代を告げる歌。そして……そのあとの所作と死せる者への祈りの言葉。失敗は許されない。一度しか出来ないのだから。もう一度なんて、許されない。
自分は少し緊張しているのかもしれないと、ティアは思う。いつもより少しだけ鼓動が早くなっている気がした。ぎゅっと、両手を強く握ってみた。そして力を抜く。深く息を吸い、そして吐き出す。何度か繰り返してようやく、少しだけ自分が落ち着いたような気がした。
長老からの合図を聞き逃さないために、ティアはオデオンの舞台側にある壁の前へと移動した。壁の上を見上げれば、先ほどから月明かりのさしこむ小さな明かりとりの窓があった。
目をそっと閉じて再び、以前に見た交代の儀式の光景を思い出していた。歌姫の後方に、上に、朝焼けに明るくなり始めた空が広がっていた。その空はオデオンの高い壁に縁取られていた。
突然、小さく硬質な音が聞こえて来た。それが合図だった。
ティアは目をあけると部屋を出た。仮面によって視界が悪い上に、昼間でも薄暗い廊下は月明かりが床まで届かない。先ほどは長老と一緒だった廊下を、片手を壁についてすり足で進んでいく。ようやくオデオンの舞台後方へと続く入り口にたどり着くと、姿勢を正して堂々とした佇まいで歩み出て、そこに立った。空はまだ暗い。けれど雲の遮りのなくなった月が辺りをうっすらと照らしていた。
視界の悪い仮面の下から舞台の中央の歌姫、客席の長老たちとそこに混じる仮面をつけた少女を確認した。白い仮面は月明かりを反射し、やけにハッキリと見える。仮面だけが浮かび上がっているようにさえ、見えた。
そうしてまた視線を歌姫へと戻す。
ゆっくりと歌姫は歌いだした。国の繁栄を願う歌。あの時と同じように、慈しみすべてを包み込むような愛情を歌から感じていた。その愛情は子を愛する母のようだと、ティアはぼんやり思った。もちろん自分には子などいないし、母と別れてずいぶん経つのだけれど。それでも歌を聞いて思い出すのは自分の母であるアルテイシアなのだから、そういうことなのだろうと思う。
歌うことで守り続けたこの国と国民。歌姫にとっては、子どものようなものなのだろう。ティアは、その時が来たら自分も同じように感じているのだろうかと、いつか来る自分の歌姫としての最後を思い浮かべた。それはきっとそう遠くはない。
歌姫は数年で交代するのだと、いつだったか長老が言っていたのだから。
歌い終えた歌姫は、舞台の中央に両膝をついて天に向かって祈りを捧げた。祈りを終えるまでの長い時間、ティアは身じろぎせず、ただひたすら歌姫を見つめていた。
祈りを終えて立ち上がった歌姫は、ティアの後ろにある扉へと姿を消した。
もうすぐ、もうすぐティアが歌姫へと交代する瞬間がやってくる。ティアは振り返りたい衝動に駆られた。けれど振り返ってどうするというのだろうか。衝動はすぐに理性におさえられ、ティアはじっと前を向いていた。心の中でゆっくりと数を数える。
教えられただけ数え終わるとティアは舞台の中央へと歩み出て、後ろを振り返って祭壇を見上げた。大人の視線よりも高い位置にある祭壇の上を、舞台の上から見ることはできない。それでもすぐに歌姫の上半身が見えた。
頭のかぶりものについている石たちが月明りを様々な色に反射していた。空にはひと筋の雲もなかった。月明かりを遮るものは今、何もない。
そっと、舞台から落ちないギリギリの場所まで進み出た歌姫を確認して、長老たちへと向き直ったティアは歌をつむいだ。歌姫になる前の、最後の祈りの歌。
ティアは短いその歌を歌いながら、後ろばかりが気になっていた。
――命、ささげて
ティアが最後のその言葉を紡ぐと、ほんの数瞬の時間を空けてティアの後方から重々しい落下音が聞こえてきた。と同時にティアの歌が終わる。
小さく息を吐き出したティアは、落ちて剣に串刺しになっているであろう歌姫に向き直った。歌姫から少し離れた場所に落ちているかぶりものを拾い上げると、自分の頭にかぶせる。これから新しい歌姫として最初の歌を歌うために。
歌姫の体を突き刺している剣は、血が滴っていた。月明かりではその血の赤さはわからないけれども、血にまみれていることは十分にわかった。歌姫のそばに歩み寄るとティアは、短い歌で歌姫の交代を告げた。
次に歌姫から少し離れ、祭壇に向かって頭(こうべ)を垂れた。ティアは心の中で、死せる者への、歌姫への祈りの歌を歌っていた。きっと背後では長老たちが歌姫の死を確認しているだろう。剣の抜かれた歌姫の体から流れ落ちる血は、刃先をぬらし鍔(つば)をぬらし、そうして地面へと広がっているのだろう。
人の動く気配がした。小さな音がした。剣が自然と地面から抜けて倒れたのだろう。ティアは、振り返った。
狭い視界の中で、長老たちが祈りを捧げる姿を見ていた。
そうして祈りを終えた長老たちが席へ戻ると、ティアも歌姫へと近づき膝を折り、死せる者への祈りの言葉を捧げた。そうして再び歌を紡ぐ。もう一度、歌姫が自分に交代したことを歌で宣言する。完全に、ティアが歌姫に代わった瞬間だった。
歌い終えたティアはゆっくりと立ち上がり、横たわる歌姫の体の上に倒れた剣を手にした。柄と刃先を手に、一度天へと掲げる。そっと刃先に添えた手を離すと、その手で顔につけた仮面の顎の部分へと手をかけた。そっと仮面を上へとずらし、口元をさらけ出す。ずれた仮面で視界は暗闇。
口を開きながら、片手で支えていた剣を再び両手で持ち直し、口元へと近づけた。刃先が唇へ触れそうになる感覚でティアはその手を止めた。
口をさらに開いて、そっと剣についた血を舐め取っていく。口の中に血の味が広がっていく。けれど不思議と不快ではなかった。胸に広がっていく、なんとも言えない感情。聖なるものを自分の中に取り込んでいると、そう感じた。
たぶん半分は血を舐め取れただろうとティアは判断すると、そっと口元から剣を離した。両手で持っていた剣から片手を離すと仮面を元に戻す。相変わらず狭いけれど、視界は戻ってきた。剣を見れば、やはり半分ほどの血が消えていた。
剣を再び両手で持ち直し高く掲げた。そのまま片膝をつき、両膝をつき、柄を両手で持って地面へと突き刺した。
体中の血が沸騰しているみたいにティアは感じた。気持ちが静かに高揚していた。
最後にもう一度手に力をこめて、さらに剣を地面へと押し込めるとようやく、ティアは立ち上がり舞台を降りて後方の扉を通り抜けた。
儀式の前にいた小部屋へと、ティアは戻っていった。ここでしばらく待つようにあらかじめ言われていたのだった。
高揚した気持ちが落ち着いた頃、部屋にガデス長老が現れた。
「早朝の儀式を始めよう」
ティアはその言葉に頷くと、ガデス長老に続いて部屋を出た。向かったのはオデオンの舞台。
そこには歌姫の遺体も、剣も、広がっていたはずの血の跡もにおいも、何も残ってはいなかった。舞台の中央へとティアは立った。空はまだ暗いけれど、端の方が明るいようにも思われた。
客席には、十二人全員ではないらしいものの、普段儀式に参加する六人よりは多い長老たちが座っていた。
ティアは、首からさげたブルークリスタルを握りしめた。今までの歌姫は持っていなかったブルークリスタル。これを見たら、母や妹は、自分が歌姫になったと気づいてくれるだろうか。心の奥底にそんな小さな願いを抱えて。
客席の間には、いつの間にかいくつものクリスタルが置かれていた。今はただ、座席の間に置かれているだけ。月明かりを微かに反射しているだけだった。
ティアは練習を思い出し、儀式を始めた。
歌い始めると、ティアが握りしめていたブルークリスタルがいつものように反応しはじめた。それに続くように、客席の間に置かれたクリスタルも、淡く碧い光を放っていた。
ティアの狭い視界の中で、初めて見た休息日の儀式の光景と重なった。
あの時のティアは客席から舞台の上にいる歌姫を見た。今、ティアは舞台に立って客席を見ている。
歌姫になったのだという実感が、歌いながら湧いてきた。
何曲も歌い、ようやくすべてを歌い終える頃には空が白み始めていた。
ティアはすべての歌を歌い終えると、祭壇に向かって祈りを捧げた。これで、早朝の儀式が終わる。明日から毎日、この儀式を繰り返さなければならないのだ。それが、歌姫であるということだった。
舞台を降りたティアは、また部屋へと戻った。疲れてはいたけれど、不思議と座りたいとは思わなかった。部屋の中央の小さなテーブルに両手をついて、上方にある窓から差し込む、まだ薄暗い朝日を見つめていた。
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