第3章(1)

 ティアが長老たちのその視線に気づいたのは、歌姫交代の儀式に参加してからしばらく経った頃だった。その頃、ティアはまだ聖日の歌を練習していた。

 カルロ長老が最初に興味を示したブルークリスタルに、練習に付き合う長老たちの視線が必ず注がれるのだった。ブルークリスタルをつけてくるなと言われはしないかと、ティアはそれだけが気がかりだった。けれど、何日経っても何も言われないことで、ティアは視線の意味も考えなくなっていた。

 つけてきても問題ないのであれば、長老たちの視線になど興味もなかったのだった。

 歌っている最中に感じる視線。集中していればそれさえもどうでも良かったけれど、自分で歌がのらないと感じる日などは、その視線がとても疎ましく思えた。なぜだか歌に集中できないのだった。

 それでもそんな日は稀。

 一度だけ聞きとれた「共鳴している」という長老の言葉が気になりはしたものの、それもすぐに忘れてしまった。


 少しずつ新しい歌を覚えながらも、同じような毎日が三年ほど繰り返されていたある日。

 その日、練習に付き合っていたのはガデス長老だった。ガデス長老が練習に付き合うことは、実は意外と少ない。長老たちの長である彼は、非常に忙しい身であった。

 だからガデス長老が練習に付き合う日、ティアは何か重要なことでもあるのかも知れないと思わずにはいられなかった。毎回、何かあるわけではなく、むしろ何もないことの方が多いことはティアだってわかっている。

 練習と休憩を繰り返し、もう少ししたら今日の練習も終わろうかという頃のことだった。それまで淡々と練習を続けていたティアは、ガデス長老のことなんてとっくに気にかけてもいなかった。それに、今日は歌の調子がすごく良くて、ずっと歌い続けていたい気分でもあった。歌に合わせて次々に感情があふれ出てきていた。いつもよりもずっと強く。

「ティア、歌う時にそのブルークリスタルを握ってみなさい」

 休憩が終わり練習を再開しようとしたとき、突然ガデス長老がティアに言った。なぜ長老がそんなことを言うのか、ティアにはわからなかったけれど、言われるままにブルークリスタルを握って、歌い始めた。

 これまで歌っている最中にブルークリスタルを意識したことはなかった。紐でくくって首からかけていたし、ブルークリスタルは服の外。肌に触れていれば気にすることもあったかもしれないけれど、そんな機会はなかった。歌っている最中のティアは歌にだけ集中していて、他のことに気を取られることは少なかったからだ。

 このときティアが練習していたのは、国の繁栄を願う基本的な歌。毎朝、歌姫がオデオンで歌っているものだった。国の繁栄だけでなく、国民の幸せを願い、平和を願う。いつだって、これを歌えば心の底から温かな、すべてを受け入れられるような感情が湧き出てくる。

 歌い始めてすぐに、ティアはブルークリスタルの変化に気がついた。何もしていない、ただ握って歌っているだけだというのに、ブルークリスタルが急に冷たくなったのだった。その変化を掌に感じて歌い続けると、今度はブルークリスタルが温かくなってきた。掌の温度に近くなったのか、掌とブルークリスタルの境目がティアにはわからなくなった。

 それと同時に心の奥底から、今までにないほど強く温かい感情が溢れ出てきていた。

 歌い終わったティアは、なぜだかとても心が満たされていた。けれどその感情も、さっとひいていく。その感情の切り替えは、いつの間にか当然のようにティアの中で行われていた。それしかティアが自分自身を守る術はなかった。そうしていなければ今だってきっと、恐怖に飲み込まれていたに違いない。

 恐怖に飲み込まれて、まともに歌うことだって出来なかったかもしれないのだ。


「思った以上だった」

 いつの間にかうつむいていたティアがハッと顔をあげると、すぐ目の前にガデス長老が立っていた。

「あ、あの……」

 ティアは言いたいことがあるような気がするのに、口から言葉が出てこない。

「それは確かナーザがアルテイシアに贈って、そしてティアが受け継いだのだったな」

「はい」

 淡々とした様子のガデス長老から、当然のように自分の両親の名前が出てきてティアは少しだけ驚いた。もちろん、そんな様子は全く見せたりなどしなかったのだが。

 そのまま片手を顎に当てたガデス長老は考え込んでしまった。ティアはどうしたら良いかわからず、黙ったままガデス長老の様子を伺っていた。ティアが自ら進んで長老たちに話しかけることなんて、めったにないことだった。言われたこと、聞かれたことに返事をするだけで、それ以外は黙ってしまっている。

 何度かティアの髪を揺らすように少し強い風が吹き抜けた。

「今日は少し早いが、練習を終わりにしよう。明日からは、先ほどのようにブルークリスタルを握って練習するといい。他の者にも伝えておこう」

 ちらりと視線をブルークリスタルに向けたガデス長老は、ティアを促すようなそぶりを見せた。

「わかりました」

 ガデス長老に一礼したティアは、いつものようにわき目もふらず練習場を出て塔へと帰っていった。


 塔の自分の部屋へと戻ったティアは、寝台に転がった。窓から入る光は薄暗いとは言え、室内を十分に明るくしていた。自室にいる間、ティアのすることはほとんどない。

 ノアを放ってから久しい。ノアがいないことで出来た心の隙間は、いつの間にかふさがるというよりは、隙間そのものを忘れてしまうようにしていた。ティアの心の奥底には、そうして出来た悲しみや辛さの混沌とした悲しみが、たくさん押し込められていた。

 吐き出されることなく溜まっていく混沌を、ティアは無意識に感情を消すことで見ないふりをしていた。そうでもしなければ、ティアはとっくに壊れていただろう。


 翌日の練習から、前日にガデス長老が言ったようにブルークリスタルが練習に用いられることになった。ただ歌う時に片手に握るという単純なことではあったけれど、ティアには目に見えて効果があった。ティア自身、肌で心で今までとの違いを感じていた。

 練習に付き合う長老たちは、ティアの気づいていないブルークリスタルの変化に気がついていた。ブルークリスタルが冷たくなったとティアが感じる瞬間、長老たちの目はブルークリスタルの色が深く濃い色に変わるのを捉えていた。

 そしてブルークリスタルは温かくなると同時に色が元に戻り、そして淡く光を放っていた。それはまるで、歌姫が休息日の儀式を行うさいに座席の間に置かれている碧い石の放つ光のようだった。

 実のところ、その碧い石もブルークリスタルだった。何代も前から使われ受け継がれてきたクリスタルは、普通のクリスタルではなかった。歌姫の歌に呼応するように光るクリスタルは、歴代の長老たちがいくら探しても、この受け継がれてきたクリスタルだけだったのだ。

 長老たちはクリスタルをもっと増やせば歌姫の力がそれだけ増大し、国はもっと安定すると思っていた。だが肝心のクリスタルが見つからなくては、どうしようもなかった。

 最初にティアのブルークリスタルの変化に気づいたのはカルロ長老だった。ティアにブルークリスタルのことを聞いたあの日、ティアが歌っている最中にブルークリスタルの色が変化したように感じたのだ。その頃はまだ微かな反応で、はっきりとはわからなかった。

 けれど、カルロ長老の報告を受けた長老たちが練習のたび、ブルークリスタルに注意を払い続けてきた。その変化は少しずつではあるけれど、日に日に強くなってきていた。

 長老たちが探し求め、けれど見つけることのできなかったクリスタル。それをティアが持っていた。

 儀式には使いたいけれど、ティアから取り上げることはできない。それに、ブルークリスタルにどれほどの力が秘められているのかもわからなかった。

 ティアの覚醒も近いだろうと感じていたこともあり、長老たちが数日話し合って結論が出た。ティアの練習にブルークリスタルを用い、その力を確認すること。十分な力があることが確認できれば、ティアが歌姫になると同時に儀式に取り入れること。そしてティアの後の歌姫に代々引き継いでいこうと。


 ブルークリスタルの力なのか、それともきっかけに過ぎなかったのかはわからないけれど、ティアの力は急激に覚醒しはじめていた。それは長老たちも驚くほどの速さで。すべての儀式の歌を覚えるよりも先に、完全に覚醒してしまうのではないかとさえ思われた。

 覚醒した力は歌にのせて国中に広がる。ティアが歌った時に心の底から湧き起こる感情と共に。それによって人々に良い影響を与え、国を一つにして繁栄してきたのがこの国の歴史だった。けれど、それには危険も伴う。

 ティアの感情がうまく歌にのせられなかった時、ティアの感情が乱れていた時。良くない感情が国中に広まり、いさかいを引き起こす可能性だってあるのだ。国の繁栄と衰退は表裏一体、紙一重。歌姫の死によって安定をもたらされた国は、歌姫の死によって繁栄し続けてきた。

 けれどこの儀式は、歌姫自身を律するためにも必要なものだった。余計な感情を出さないようにするために。余計な感情が歌にのって広がってしまわないために。ティアのように感情を押し殺すという行為は、歌姫自身の心を守ると同時に国さえも守っているのだった。

 そして覚醒する前にすべての儀式を覚えることは、練習の途中で中途半端に力が広がってしまわないためにも重要なことだった。ティアはすでにほぼ全部の歌と儀式を覚えたとは言え、まだ完全とは言えなかった。まだ中途半端だった。

 長老たちは覚醒を喜ぶと同時に、ティアの練習時間を増やした。ブルークリスタルの使用をやめるという選択肢は彼らの中にはなかった。ブルークリスタルの持つ力を、少しでも観察して知りたかったのだ。長老たちは欲深かった。それは国を思ってのことで、私利私欲のためではなかったけれど、国のために歌姫が犠牲になるべきであるという先入観があったのだ。

 ティアの練習時間は長くなったけれど、これもブルークリスタルの力だろうか。次々に儀式のための歌を覚え、長老たちも感心するほどの出来映えに仕上げていった。

 ティアの力が覚醒する前に、すべての儀式の歌を覚えることができた。そのことに長老たちは胸を撫で下ろした。そしてティアの力が完全に覚醒しだい、交代の儀式の準備に取り掛かることが決まった。

 すぐにティアの次の歌姫候補が、歌姫の休息日の儀式を見るために劇場を訪れた。次に、さらに早い深夜から行われるようになった早朝の儀式も。ティアの時のように、歴代の歌姫たちのように。


 それからまた休息日が数回過ぎて、長老たちはティアの力の覚醒を確信した。

 練習のとき、ティアからあふれ出る感情と、その感情の広がり方が唐突に変わったのだった。長老たちは交代の儀式のための準備を始めた。


「ティア、お前が歌姫になる日が決まった。次の休息日のあと、早朝の儀式を行う前に交代の儀式を執り行う」

 ティアがガデス長老から申し渡されたのは、それからさらに数回の休息日が過ぎた後だった。それは歌姫にも、次の歌姫候補にも伝えられた。

 ティアはこの日から、交代の儀式のための練習を始めた。

 一度だけ見た交代の儀式は非常に印象的だったとは言え、細部までは覚えていない。あれから数年という長い時間が過ぎていたのだ。儀式で歌う歌を覚える必要もあった。それらを次の休息日までの数日の間に覚えなければならなかった。


 とうとう翌日は休息日となった。明日という一日が終わる頃には、ティアはオデオンで交代の儀式のための準備をしなければならない。

 歌姫の衣装と仮面は既に渡されていた。部屋の隅のテーブルの上に置かれたそれを、ティアは何とはなしに寝台の上から眺めていた。それを見ていると、初めて休息日の儀式を見た時のことが思い出されてならなかった。

 衝撃的だった。鋭い切り込みが目と口の部分に入っただけの、白い仮面。歌姫を『歌姫』にしてしまうもの。それと同じものがテーブルの上に置かれている。これをつけたら、ティアも『歌姫』になる。『歌姫』以外の何者でもなくなる。

 ついにその日が来てしまうのだと思うけれど、いまだ実感はなかった。

 夜遅く、ティアはカルロ長老とオデオンにいた。翌日の動きを確認するために。オデオンにある燭台の半分ほどに明りが点けられ、月明かりも手伝ってか、薄暗いながらも十分にどこに何があるかを確認することができた。

 前回と違い、早朝の儀式の始まる時間がずっと早くなったことで、交代の儀式も今くらいの時間になるだろうとカルロ長老は言っていた。空は真っ暗で、燭台の明りと月明かりだけが頼りだった。

 月は丸く、翌日もきっと明るくオデオンを照らしてくれることだろう。

 燭台の光が弱まってきた頃、ティアとカルロ長老はオデオンを後にした。

 ティアは真っ直ぐ夜道を塔へと帰り、自室に戻るとそのまま寝台に突っ伏すように眠ってしまった。


 翌朝、ティアの練習は休みだった。長老に言われ、浴場へと向かい体を丁寧に洗った。まっさらな服を身につけて塔に戻ったティアは、窓から外を眺めていた。

 ふと思い立って手を伸ばしたティアは、窓の外に立つ木がいつの間にか大きく成長し、手先が枝に触れることに気がついた。あれほど枝に手が届けばと思っていた頃もあったというのに。今のティアの心に浮かぶのは、木がそこまで成長するだけの年月が過ぎていたことに対する感慨のようなものだけだった。

 日が傾き始めると、ティアはゆっくりと歌姫の衣装を身にまとっていった。あとは仮面をつけるだけの状態で、ティアは自室の中央で立ち尽くしていた。指先が少しだけ震えていた。仮面を寝台の上に置き、片手でもう一方の手を包み込むように握りしめて震えをおさえた。

 しばらくそうしているうちに指先の震えも治まり、ようやくティアは仮面をゆっくりと顔につけた。

 ティアの準備ができるのを待っていたかのように、扉が突然開けられた。そこにいたのはガデス長老で、扉のところから動かずにティアの姿をじっくりと観察していた。

「問題はないだろう。儀式に向かう。ついてきなさい」

 ティアの反応も見ず、答えも聞かず、そのまま階段を下りていくガデス長老のうしろ姿を、ティアは少し遅れて追いかけた。

 黙って歩き続けるガデス長老の後を追うように、ティアも黙って歩き続けた。仮面をつけると驚く程に視界が狭くなる。月が薄い雲に隠されて、仮面をつけていなくてもほとんど周りは見えないだろう。それでも、歩きなれた道を二人は、迷うことなく歩き続けた。

 国民の寝静まった深夜。街中からは離れており、昼間でも静かな道。聞こえるのはガデス長老とティアの足音、それにたまに吹く風にすれる葉の音だけだった。

 ティアはガデス長老の足音を聞きながら、同じくらいの歩調でついて歩いた。

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