第2章(3)

 やはり先に現れたのが歌姫だったのだと、ティアがわかったのは彼女が歌を紡ぎ始めたときだった。とすれば、後から現れたのが次の歌姫なのだろうと思った。

 歌姫が歌うのは、国の繁栄を願う歌だったけれど、ティアは聞いたことがなかった。早朝の儀式でも、休日の儀式でも歌われたことのない歌。短いその歌には、歌姫の国民への気持ちが溢れているようにティアは感じた。前日に聞いた『聖日の歌』とは全く異なる感情。それはまるで、大きな慈しむような愛情。ティアは自身の母、アルテイシアを思い出していた。

 歌い終えた歌姫は両膝をつき、天に向かって祈りを捧げていた。誰一人、声をあげることもなく、その様子をじっと見守っている。ティアはただ食い入るように歌姫を見つめていただけだった。

 長い時間、歌姫は祈りを捧げていた。祈りを終えて歌姫が立ち上がった時、オデオンから見える丸い空も朝焼けに包まれ始めていた。

 歌姫は長老たちやティアに背を向けると、舞台の後方の扉へと姿を消した。代わりに、後ろに控えていた次の歌姫が舞台の中央へと歩み出た。それから彼女は振り返り、祭壇を見上げた。その動きにつられるように、ティアも長老たちも祭壇を見上げる。

 何も見えなかった祭壇に、人影が見えた。何かをよけるような動きをしながら祭壇の先へとゆっくりと進み出たのは、見たところ先ほどまで歌っていた歌姫だった。

 先ほどと同じ服装、同じ仮面。けれど頭には何かをかぶっている。かぶりものには剣のように石がついているのか、朝日が赤や青、緑に反射していた。仮面にばかり気を取られていたけれど、休息日の儀式の時、あれと似たようなものを歌姫がかぶっていたと、ティアはふと思い出す。

 あと一歩前に進めば落ちるんじゃないかというところまで歌姫は進んで、そしてようやく立ち止まった。その様子を確認したらしい舞台にいた次の歌姫は、前に向き直り、声を張り上げた。ティアは祭壇の上から次の歌姫へと、視線を戻した。

 やはり短いその歌は、国の繁栄を願い『神の卵』に祈りをささげるという内容だった。


――命、ささげて


 歌声がそう言葉を紡いだその瞬間、ティアの視界の端で何かがキラリと光った。すぐにそちらへ視線を移せば、宙に浮いた歌姫の頭にかぶったものの石がきらめいていた。

 もちろん、歌姫はその場に浮いていたわけではなかった。歌姫の体は徐々に速度を増して落下していた。――つまり、歌姫は祭壇から飛びおりたのだった。

 歌姫の体が地面に落ちるまでは、ほんの数瞬のことだった。けれどティアには、それがとても長い長い時間にさえ思えた。ティアは驚きに目を見開き口を開け、けれど静かにしているようにという声が頭のどこかで聞こえ、とっさに両手で口元を覆った。思考は完全に止まっていて、何も考えられなかった。

 歌姫の体が地面に落ちる重々しい音が聞こえると同時に、舞台の上で歌っていた次の歌姫の声も止んだ。

 ティアの耳には、歌姫の落ちる音と『命、ささげて』という歌声がこだましていた。歌姫は歌の通り、自らの命をささげて国の繁栄を祈ったのだと、ようやく思考が戻った頭で考える。確かに、カルロ長老もそのようなことを言っていた。

(これが、これが、交代の、儀式……)

 ティアは漏れそうになる嗚咽を、両手で強く口を押さえて必死で堪えた。


 舞台の後方、刃先を天に向けて固定された剣は今、ぬらぬらとした赤で染め上げられていた。何があったのかとティアが目を凝らすと、地面に落ちた歌姫の体は固定された剣によって串刺しにされていた。剣を染め上げる赤は、歌姫の血の色だったのだ。

 歌姫の仮面は見えず、うつぶせに倒れているのだとわかる。体から少し離れた場所には、歌姫が頭にかぶっていたのであろうモノが転がっていた。今も朝日を色とりどりに反射して。

 舞台で歌っていた次の――いや、新しい歌姫が、転がっているかぶりものを手に取り、自分の頭へとかぶせた。そうしてまだ息があるのか、もう既に息絶えているのかわからない歌姫の前に歩み出ると、また短い歌を歌う。それは歌姫の交代を告げるものだった。

 歌い終えた新しい歌姫が、深々と祭壇に向かって頭(こうべ)を垂れるのを見た長老たちが数人、立ち上がると歌姫のそばへと歩み寄った。その中の一人が、地面にうつ伏せに倒れる歌姫の頭を少しだけ抱き起こした。口元に手をかざし、首や胸元に手を当てていた。生きているのか、確認していたのだ。

 息絶えていることを確認したのだろう、その長老は手で他の長老たちに合図を送った。すぐに他の長老も倒れている歌姫の周りに集まり、しゃがみこむ。

 何をしているのだろうとティアは不思議に思う。不思議には思うけれど、倒れている歌姫をじっと見ることはできなくて、顔を伏せて、視線だけそっとそちらへと動かしていた。


 長老たちがそれぞれ、歌姫の頭や腕、足、腰を支えるように手を地面との間に差し入れた。

 視線をそれぞれ合わせたあと、無言のまま歌姫の体を持ち上げた。ゆっくりと持ち上げられる歌姫の体から、剣が抜けていくのがわかった。剣は柄の部分が地面から出ることなく、刃先を天に向けたままだった。

 完全に剣が抜けた歌姫の体から血がとめどなく流れ落ちるのが、離れた場所にいるティアにも見えた。ティアはかろうじて声は出さなかったけれど、喉の奥がひきつるような感覚があった。

 歌姫の体から流れ出た血は剣の刃を濡らし鍔を伝い、そして剣を中心に地面に広がっていった。地面に広がった血はゆっくりと、地中へと染み込んでいく。鮮やかな赤は鈍い濃い赤へと変わっていく。歌姫の体から流れ出る鮮やかな赤い血が、なぜかとても神々しいもののように、ティアの目に映った。

 歌姫の体から流れ出る血がほとんどなくなってようやく、長老たちは歌姫の体を仰向けに地面へゆっくりと横たえた。その横で剣が、誰も触っていないのに地面から抜けて歌姫の体の上へと倒れた。その様子を見た長老たちの口角が、少しだけあがった。どこか安堵するかのように。

 長老たちは立ち上がると、小さく祈りを捧げた。それは死せる者への祈りの言葉だった。短い祈りが終わると、長老たちは再び自分たちの席へと戻り腰をおろした。

 それを見届けた新しい歌姫が、横たえられた歌姫の横に両膝をついて祈りを捧げる。長老たちと同じ、死せる者への祈りの言葉。けれどその後に続くのは、やはり歌。あなたの力を受け継いで国の繁栄を支えますと、死んでしまった歌姫へ告げる歌。

 歌が終わると新しい歌姫はゆっくりと立ち上がり、横たわる歌姫の体の上に倒れた剣を手にした。柄と刃先を持って一度天へと掲げる。空はだいぶ白み始めていた。

 刃先に添えた手を離すと、顔につけた仮面の顎の部分に手をかけた。それを見たティアはごくりと喉を鳴らした。

(仮面を、取る?)

 そんな期待とも不安とも判断のつかない感情が沸き起こる。

 けれど、歌姫はそっと仮面を上にずらして口元をさらけ出しただけだった。服から覗く素肌はとても少ない歌姫の服だけれど、見える手や首元は白い。もちろん顔だって白い肌をしていて、唇がやけに鮮やかな紅をしていた。

 そっとその唇を開くと、やはり紅い舌が少し覗く。そうしてから片手に持っていた剣をもう一度両手で持ち直し、口元に近づけた。唇に触れるか触れないかというところまでソレを近づけると、唇をより開けて舌を出した。


 ティアは、新しい歌姫の行動をただただじっと見つめていた。

 新しい歌姫は、戸惑うこともなく刃についた血を舐め取り始めた。その行動にティアは、うっと口元を押さえた。必死に抑える、胃から沸き起こる吐き気。

 長老たちは、歌姫の交代のたびにその光景を見ているからか、誰も顔色一つ変えることはない。

 新しい歌姫は半分ほどの血を舐め取ると動きを止め、剣を口元から離す。紅い唇の周りが、血で紅く染まっていた。

 両手で持っていた剣を片手で持つと、上へとずらした仮面を元に戻した。そうしてから再び両手で持ち直し、何かに捧げるように高く掲げた。そのまま片膝をつき、両膝をつき、柄を両手で持って地面へと突き刺した。


 短かったような、とても長かったような、歌姫の交代の儀式は終わりを告げた。

 新しい歌姫は、舞台の後方にある扉へと消えていった。長老たちも無言でオデオンから出る。ティアもその後に続いた。

 オデオンの中では、普段は練習場で警備をしている二人が歌姫の肩と足を抱えて運び出していた。オデオンの裏にある通路へと運び出された歌姫の遺体は、そのまま通路の奥へと運ばれていった。

 通路の奥は一見行き止まりに見えるけれど、長老とこの警備兵しか知らない秘密の扉がある。そこを開けると地下へと続く階段があり、二人は歌姫の遺体をその中へと運び入れた。オデオンの地下の一部に、歴代の歌姫たちの墓は作られていた。あらかじめ用意されていた墓へと、歌姫の遺体は埋められ、こうして国民の知らないうちに、歌姫は新しい歌姫へと代わったのだった。


 ティアはカルロ長老と共に、自分の塔へと戻る道を歩いていた。まだその顔には仮面がつけられたまま。

 黙って歩くカルロ長老の後ろを、ティアも黙ってついていく。長老との間に会話がないのはいつものことで、二人とも沈黙は気にならない。

 というよりも、ティアの頭の中には先ほどまで見ていた光景が繰り返し流れていた。駆け足のように何度も思い出すうちに、こみあげる吐き気や感情は治まっていく。仮面を取ったら驚愕していたであろうオデオンの中の時とは違い、仮面の下のティアは少しずつ表情が消えていっていた。

 ふと空を見上げればずっと明るくなっていて、朝が近いことを示していた。


「ティア」

 塔の近くまで来た時、カルロ長老は立ち止まって声をかけた。

「はい」

「今日の練習はない。明日からはまたいつも通りだ」

 それだけを告げると、また塔に向かって歩きだした。


 塔に入ると、やっぱり階下の女の姿はなくて。

「すぐに上へ行って着替えなさい。服も靴も、そして仮面も。私が持って帰るから」

 そうカルロ長老に促されたティアは、一つ頷くと、すぐに自分の部屋へと引き上げた。

 部屋に戻るなり、すぐに仮面を取る。それだけで、ティアは大きく息をついた。仮面を寝台の上に投げ捨て、自分の顔を何度も何度も両手で触って確かめる。

「私は、私……」

 何度も繰り返してようやく納得すると、靴も服も脱ぎ、いつもの自分の靴と服に着替えた。

 寝台に放った服を、靴を、仮面を見やる。

(いつか私も、当たり前のようにこれを身に着けて、歌姫になるんだ)

 けれどすぐに、階下にカルロ長老を待たせていることを思い出し、ティアは脱いだ服をたたみ、靴と仮面を服に載せて階下へと降りた。


 階下の部屋に置かれたテーブルの上にはカップが置かれ、カルロ長老はその中身を飲んでいた。姿は見せなくても、やはり女は自分の部屋にいるらしい。

「長老」

 部屋に入るとそっと声をかける。長老はその声でティアが部屋に入ってきたことに気がつき、ゆっくりとカップを下ろしながらティアへと視線を向けた。

「これ……」

 服と、その上に乗せられた靴と仮面を持った腕を前へと伸ばす。

「ここに置いておきなさい。私は少し休んでから帰るから」

 ここと指し示されたテーブルの上に置くと、ティアはすぐに自分の部屋へと戻っていった。


 翌日からもティアの生活には変わりがなかった。

 次の休息日の儀式も、ティアは通路の陰で聴いていた。やはりあちこちを反射して聞こえてくる歌声は、どこかぼんやりと聞こえる。それでも、前の歌姫ほどではないにしろ、ティアの心へと何かが入り込んでくる感じを覚えた。

(これが、歌姫の力なのかも知れない)

 けれど、ティアが休息日の儀式を聞いていたのは、その日が最後だった。それからは、休息日の儀式を聞くこともなく、ただ単調に練習だけで日々が過ぎていった。何度も休息日が過ぎた頃、ようやくティアの『聖日の歌』が長老たちの納得のいくものになり、他の歌の練習もするようになっていた。

 歌姫が覚えるべき歌は、驚くほどに多かった。『聖日の歌』の他にも、休息日の儀式で歌う歌はいくつかあって、季節によって異なる歌を歌う。その一つ一つの歌を、長老の納得がいくまで何度も何度も練習し続けていた。

 その間にいくつもの季節が過ぎ、ティアも成長していた。本人は気づいていなかったけれど、長老たちはその成長をこと細かに観察していた。彼らの結論はただ一つ。


――ティアの力が覚醒するまで、あと少し。


 それは同時に、歌姫がティアに交代するまでの時間があと少しだということも示していた。長老たちは、迫りくる交代の儀式のために動き始めた。ティアの次の歌姫候補が、ティアのときと同じように儀式を見、歌姫について教えられ始めた。

 この頃のティアは、すっかり感情が抜け落ちていると言っても過言ではなかった。今の歌姫に交代する前よりももっとずっと強く感情は消えていた。休息日の儀式を聴かなくなってから、ティアの心をかき乱すものがなくなった。それと同時に、ティアの隠された感情は隠されていることがあたり前になっていた。その感情が表に出ることはなかった。

 歌う時には、その歌に祈りをこめる。愛を、願いを、あるいは絶望を。けれど、歌う時には無意識に表れている感情は、歌っていない時には消えていた。表情一つ、変わることはなかった。


 歌姫の儀式は、脈々と受け継がれ変わることはほとんどなかった。それでも、情勢が不安定になったり作物の出来が悪かったりしては、歌姫は祈りを捧げる儀式を執り行ってきた。増え続ける人口に、内政は不安定になることも多くなっていた。

 それでも、歌姫がいたからこそ、この国は国として安定し続けることができたのだった。

 早朝の儀式は、深夜に行われるようになった。以前は空が白み始める頃に始まっていた儀式も、今では儀式が終わる頃に空が白み始めていた。長老たちは交代で六人ずつ、儀式に参加するようになっていた。

 歌姫のおかげでなんとか続いている国では、長老たちがしなければならないことも増えてきていた。いつまでも歌姫だけに頼ってはいられないと、どこかでは気がついていた。

 気づいてはいたけれど、やはり歌姫がいてこその国――トートクルスだと、誰もが信じていたからこそ、歌姫は歌姫でなければならなかった。ずっと長い間。今までも、これからも。

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