第2章(2)

 夜の食事をとった後、寝台に寝転がって窓の外を見ているうちに、ティアは浅い眠りに落ちた。

 浅い眠りの中で、夢を見ていた。どこか懐かしい、とても幸せな夢だったと目が覚めた時のティアは思い返した。どんな夢だったか、詳しくは覚えていなかったけれど。

 ティアは体を起こすと、自分の右手を見つめた。

(誰だったんだろう。この手をつないでいた子は)

 夢だというのに、手に温もりが残っているような気がして、左手でそっと右手に触れた。けれど触れた手は、夜の冷気に当たって冷え切っていた。左手を添えた右手を自分の頬に当ててみるけれど、やはりその手は冷たくて。

 ティアは少しだけ、悲しくなった。

 儀式が始まるまでどれくらいの時間があるのかティアにはわからないけれど、もう一度眠る気分にもなれず寝台の上に起こした体を窓の方へと向けた。窓の外は暗闇に覆われていた。薄い雲が空を覆っているのか、月明かりも弱々しい。

 寝台に座ると視線よりも少し高い位置に窓があるせいか、窓から見えるのはすぐ外に立つ木と空ばかり。木も空も闇色をしていた。まるで自分の心の中と同じだと、ティアは自嘲気味に思った。


 重々しい階段を上る足音が聞こえ、ティアはハッとした。いつの間にかまた、少しだけ眠ってしまっていたらしい。

 寝台の上で居住まいを正し終えると同時に、突然、部屋の扉が開いた。片手に燭台を持ったその人は、カルロ長老だった。

「起きていたのか」

 長老の問いかけに、ティアは小さく頷いた。

「準備は……、これに着替えなさい。下で待っている」

 言いながら、燭台を持つのとは反対の手に抱えていたものを、寝台の上にそっと置いた。すぐに踵を返して部屋から出て行く長老を見送ってから、ティアは寝台に置かれたものを手にした。

 自身が身に着けていた服を脱ぎ去ると、すべらかな肌触りの服を身に纏う。今までに触ったことのない布の感触に、ティアは何度も服の上で手を滑らせる。足元まですっぽり覆う長さのスカートは、けれど歩きにくいというほどではないようだった。

 自分の体を見下ろす。体をひねって、真っ白な光沢のあるその服を見た。あまりよく覚えていないけれど、歌姫が纏っていた服に似ているようにティアは感じた。もう少し豪奢な雰囲気ではあったけれど。

 服の下に置かれていた靴も履く。靴も服と同様に真っ白で、やっぱり服のようにすべらかな肌触りは、足になじんで心地よい。最後にいつも自分が使っている羽織りを手に取ると、大きく一つ深呼吸をした。迷ったけれど羽織っていくことにした。

「行かないと」

 声に出して、ティアは自分の心を落ち着かせる。心臓がドクリと大きな音をたてる。一度だけじゃなく、何度も何度も。

「心臓、うるさい」

 もう一度、ティアは声に出した。深呼吸を繰り返す。何度か繰り返すうちに、少しずつ心臓の鼓動も落ちついてきた。心臓の上に手を置き、鼓動が落ち着いたのを確認したティアは、部屋の扉へと向かって一歩を踏み出した。


 階下に下りると、そこにはカルロ長老だけがいた。相変わらず階下の女は、できる限りティアの前に姿を現さないようにしているらしい。

 カルロ長老の前に立ったティアの上から下まで、カルロ長老は確認するように何度も見た。

「羽織りは着いたら取るように」

 もちろん、ティアは最初からそのつもりだ。夜闇の中を歩くには寒いだろうと、羽織っただけなのだから。けれどそんなことを口に出したりはしない。

「それから、これをつけなさい」

 手渡されたものは、真っ白な仮面。目と口のところに鋭い線のような切込みが入っただけの簡素なそれ。ティアはその仮面に見覚えがあった。

 さっと、全身の血がひくのをティアは感じた。

「それ……、歌姫、の……」

 そう、それはティアが一度だけ見た歌姫の顔に張り付いていた仮面と同じものだった。あの時に見た光景が、ティアの頭の中に甦る。くらりと眩暈がした。

「お前も候補である以上、歌姫のように、この仮面をつける必要がある。見ているだけとはいえ、交代の儀式に参加するためには必要なのだ」

 静かな声で返すカルロ長老は、じっとティアを見つめている。ティアもその視線を感じてはいたけれど、仮面から目を離すことができない。仮面だけがやけにハッキリと視界に映り、それ以外のすべてのものがぼんやりと見える。

(私が、私でなくなる……)

 突然、そんな恐怖がティアの心の底から湧き上がった。けれど、それに気づいたらしいカルロ長老がすぐに言った。

「つけるのは今日だけ。儀式が終わるまでの間だけだ。次につけるのは、ティアが歌姫になる時だろう」

 ティアを落ち着かせようとしているわけでもなく、淡々と告げるその言葉。それをティアは何度も頭の中で反芻した。

(今日、だけ。顔を隠すのは、今日だけ。儀式が終われば、私はまた私になれる)

 何度も頭の中で繰り返すうちに、少しずつティアは落ち着いてきたけれど、それでも手にした仮面をじっと見つめているだけだった。


「急ぎなさい」

 仮面を手に身じろぎしないティアを急かすように、カルロ長老が声をかけた。言われてティアはようやく、緩慢な動作で仮面を顔へと当てた。仮面の両側から出ている紐を頭の後ろへと回し、ティアはそこで結ぼうとするのだけれど、手が震えてうまく結べない。

 何度やってみてもうまく結べないティアの後ろへと、カルロ長老は黙って回った。

「貸しなさい」

 ティアが持っているよりも先の部分を手にして言うと、ティアはやはり緩慢な動作で紐から手を離した。

 ティアの手が体の横に落ち着くのを待って、カルロ長老はきつく紐を結ぶ。結び目を軽く引っ張ってほどけないことを確認したカルロ長老は、ティアの横を通り抜けて外へと続く扉へ向かって歩き出した。ティアも慌ててその後を追うけれど、細い切れ目からの視界はとても狭くて歩みを進めるのが恐ろしく感じた。

 なかなか来ないティアに気が付き、そうか、と小さく呟いたカルロ長老は、扉の前で歩みを止めてティアを振り向いた。

 毎日歩いているはずのこの部屋の中でさえ、ティアは両手を軽く広げて周囲に何かないかを確認している。足元は少しすり足気味で、やはり障害物がないかを確認しているらしい。テーブルと椅子くらいしか障害物がないとティアだって知っているはずなのにと、カルロ長老は小さくため息をついた。

 けれども、それも仕方のないことだとも思っていた。初めて仮面をつけて、仮面の下からの圧倒的な視界の悪さに気づいたら、たとえ何もないとわかってはいてもティアのようになってしまうのだろう。

 ようやくティアが近くまで来たのを見て、カルロ長老は外への扉を押し開けた。


 扉の外には、闇が広がっていた。けれどティアが自室の窓から見た時に比べて、空が少しだけ明るい。地平線に近いところから、朝焼けの空が広がり始めていた。

「足元には何もありはしない。いつものように、堂々と前を向いて歩けば、転ぶこともない。お前の体が、オデオンまでの道を覚えているのだから」

 ティアを振り返った長老は、そう声をかけると前を向いて歩き出した。ティアは、一度目を閉じてゆっくり息を吐き出し、そして目を開くと前だけを見て歩き出した。周りを見ずに一心不乱に前だけ見て歩くいつものように。

 視界は相変わらず狭いし恐怖もあるけれど、意外に平気なものだとティアは実感した。カルロ長老が言うように、体が道を覚えているのかも知れない。仮面の下から見える狭い世界は、ティアにとっては見慣れない風景にも思えた。普段、何気なく視界に入っているはずなのに。

 徐々に明るさを増していく空の下に広がるのは、草原。

 道をまっすぐ歩き、練習場とは反対側へと曲がった先にあるのが、オデオン。石造りの建物は、石の色にまだ見えない太陽の光が反射しているのか、不思議な色合いをしていた。

 オデオンの後方には、丘が見える。練習場へは毎日行くけれど、オデオンへ行くことはめったにない。ティアは丘の存在に初めて気づいた。丘は草に覆われているようで、でも何故だか中腹に一本だけ、大きな木が立っていた。


 オデオンの横を半分ほど過ぎたところに、中へと入る入り口がポッカリと開いていた。カルロ長老はそこで立ち止まると、ティアを振り返った。

「ここから先、お前は口を開いてはならん」

 少し厳しい口調のカルロ長老に、ティアは思わず口元を仮面の上から押さえてうなずき返した。

「お前は見ているだけだ。客席から。ただ見ていれば良い。その代わり静かにしていること。交代の儀式の邪魔をしてはならん」

 カルロ長老はもう一度、念を押すように言葉にすると、ティアの返事を待たずに中へと入っていった。

 燭台の明りがところどころに置かれた通路を歩きオデオンの中へと入ると、そこはふだんの儀式に使われる劇場のように大きな石が階段状に並べられた客席だった。既に長老たちが舞台の真正面に腰掛けていた。

 ティアは言われた通り、声を出さないように気をつけながら、促されるがままに長老たちの後ろの席へと座った。

 真正面には舞台。舞台の後方の壁の中ほどには祭壇が作られている。祭壇にはこの国にとって大切なものが祀られているのだと、ティアは以前聞かされていた。視線よりもかなり高い場所にある祭壇は、ティアの場所から何があるのか見ることはできない。

 ガデス長老が舞台の後方、祭壇の下にある扉を開けて入ってきた。手には一振りの剣を持っていた。トートクルスの国民が戦地へ赴くことはなく、たしなみとして剣術を愛するものがいるくらいで、国民は剣とはあまり縁がない。そのことはティアももちろん知っていて、ガデス長老が剣を持っていることに少しだけ驚く。

 ガデス長老が持つ剣はとても簡素だけれど、柄の部分に何か宝石のようなものが嵌め込まれているらしい。弱々しい朝日さえも、それは反射して光を放っていた。刃もよく砥がれているのか、やはり弱々しい朝日を控えめに反射して光っていた。

 ガデス長老が剣を持った手を、刃先を天に向けてすっと横に伸ばすと、いつの間にそこにいたのか、仮面をつけた人が剣を受け取った。たぶん歌姫だろう。

 彼女が剣をしっかりと両手で持つのを確認したガデス長老は、舞台から客席側へ下りる階段へと向かった。そして他の長老たちの中央に空けられた席へと腰掛けた。


 ティアはじっと歌姫の所作を見ていた。

 両手で柄を持ち直した彼女はすっと刃先を天に向け、腕を天に向かって伸ばした。その間も、手の隙間から見える柄が、天へと伸びる刃が、朝日を反射して光る。

 ぐるりと高い壁で覆われたオデオンの客席から見える空は丸く、そこはまだ闇色。けれども高い壁と空の境目から少しだけ明るくなった空も覗いていた。

 光る剣を、ティアは綺麗だと思った。キラキラと不思議な色に光る剣に、心惹きつけられた。

 歌姫が剣を大きく振り下ろした。振り下ろした剣を今度は真横へと薙ぎ、そして天に向かって振り上げる。ティアには、白く刃の軌跡が見えたような気がした。

 ハッキリとは聞き取れなかったけれど、歌姫は祈りのようなものを捧げていた。そして剣を胸に抱え、舞台の後方、祭壇の真下へと下がった。そこには、何か道具が置かれていた。歌姫は刃先を天に向けた剣を、そこに置いた。穴が開いているのか柄の部分は地面へと埋もれ、鍔(つば)が道具によって固定されたらしい剣は、彼女が手を離しても動くことはなかった。

 歌姫が舞台の中央へと戻ると、舞台の後方からまた人が現れた。

 歌姫と全く同じ仮面、服装。背格好も似ていて、二人が並べばどちらが歌姫かわからなくなりそうだった。いや、もしかしたら今までここにいた人こそが歌姫ではないのかもしれない。ティアはどちらが歌姫なのだろうと、少し混乱していた。

 けれども、後から現れた人はそこから動くことなく佇んでいた。

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