第2章(1)

 ティアの毎日はとても単調に過ぎていた。

 朝起きると窓の外をながめて食事の時間を待つ。たいていは母や妹、あるいは自分が鳥かごから解き放ったノアのことを思い出していた。感傷とかそういった感情は日々薄れていっていた。今はもうほとんど、ただ思い出すだけ。

 朝の食事を終えればまっすぐに練習場へと向かい、日が傾くまで練習を続ける。それが終われば塔へと戻り、寝台の上でぼんやりと過ごす。そのうちに夜の食事の時間になり、いつの間にか寝る時間。

 日によっては、街から離れた場所にある浴場へと向かう。ティアの暮らす塔からほど近いそこには、町の人々は近寄ってこない。どうやらティアだけでなく他の歌姫候補や歌姫も、その浴場を使っているらしかった。顔を合わせることのないように、使える時間は決められていたけれど。


 初めて『聖日の歌』を歌った日から、ティアは毎回必ず休息日の儀式へと連れて行かれるようになった。最初の時と違ってひとけのない舞台の裏側にある通路から聞くだけの歌。ティアの耳に届くまでいろいろな場所を反射しているその声は、ぼんやりとしてはっきりはしない。それでもいつも、なぜかティアの心を震わせるのだ。時には一緒に口ずさんでさえいた。

 長老たちはまた別の場所にいるようで、そこにいるのはいつもティアひとり。ちょうど外からの光が届かない暗がりに立って聞いていた。誰もいないそこでティアが口ずさめば、歌姫の歌に混じって薄暗い通路に声がこだました。

 そんな休息日が七回ほど続いた頃、ティアはまだ『聖日の歌』を練習していた。速く遅くなる旋律はティアにとって難しく、旋律を覚えるだけで多くの時間を費やしてしまったのだった。詩そのものはそれほど難しくなく、一回目の休息日には覚えてしまっていたのに。

 歌姫の歌う歌は、長老から教えられた旋律とはどこか違うような気がする。音の高さ、速さ、すべてが同じはずなのに、歌姫が歌うだけで、あの声で歌うだけで、どこからかティアの心に感情が流れ込むのだ。そのひと時だけ、ティアは昔のように様々な感情が胸の内にわいてくるのだった。


 ようやく旋律を覚えると、今度はひどく抽象的な注文が長老たちからつけられ始めた。そんな注文もいつものことだと、ティアは言われるがままに何度も何度も繰り返し歌い続けていた。それはまるで、歌うだけの傀儡のように。

 何度歌っても、何度繰り返しても。

 あの劇場で聞く歌姫のような、心に感情が流れ込むような歌にならない。

 それでもティアは歌い続けた。そうするしかないのだから。そのためだけに、ティアはそこにいるのだから。それだけが、今のティアの存在意義。そうティアは思っている。


 その日の練習が終わったあと、帰ろうとしていたティアは練習に付き添っていたガデス長老に声をかけられた。

「少し大切な話がある。こちらへ来なさい」

 言われるがまま、ティアはガデス長老の方へと近寄った。珍しいことだとティアは思うけれど、そんな気持ちでさえも顔には表れない。ノアを解放した次の日から、ティアの表情は全くといっていい程、動かないのだ。その表情と同様に、ティアの心は何に対しても無になっていった。ノアのいなくなった鳥かごを見ても、少しずつ成長する窓の外の木を見ても、あるいは空を自由に飛ぶ鳥を見ても。ティアの心は動かなかった。無関心、無感動。そこにあるのは『無』。

 唯一、休息日の儀式で歌姫の歌を聴いたときだけ、心が揺れ動かされるのを感じる。歌姫の歌だけが、消し去ってしまった――心の奥底に隠したはずの感情を引っ張り出そうとする。

 ティアは長老からニ、三歩離れた場所に立つと、じっと長老の言葉を待った。

「交代の儀式の日が決まった」

 瞬間、ティアの動きが完全に止まった。けれどすぐに我に返ったティアは、静かに言葉を返したのだった。

「そう、ですか」

 その表情は全く動かない。心の中ではめずらしく動揺が広がっていたのだけれど。ガデス長老にはティアのその心の動きが手にとるようにわかっていたが、気づかないふりをした。

「次の休息日の翌朝。早朝の儀式の前に交代をする。わかっていると思うが、ティアも参加するように」

 用件だけを言い終えると、ティアの返事を聞かずにガデス長老は踵を返した。そういえばここ数日、長老たちがどこか慌ただしかったのはこのせいだったのかと、ティアはひとり、心の内で納得した。

 ティアも長老の後を追うように、練習場を出て歩き慣れた道を塔へと向かった。わき目もふらずに前だけを見て歩くのが、ティアの常だった。自分が歩く周りのことにも、自分を取り巻くすべてのことにも、ティアは全く関心を払わない。

 いや、関心を払わなくなった。

 ノアを放す前、一度だけ通る道をよく見たことがあった。いつでも逃げ出せそうなほど、なんの警戒もされていない道。逃げられたら、と思ったこともあった。けれどノアを放し、ティアはその思いも押し込めた。逃げたいなどと、もう二度と思わないだろうとティアは考えているのだけれど、それでも、その気持ちをもっと確かにしたくて周りを見ないようにしている。


 交代の儀式の日が決まったからといって、それを告げられたからといって、ティアの日常にはどんな変化もなかった。儀式のことすら忘れてしまったかのように、ティアは歌を練習し続けるだけ。その日常に他のものが入りこむ隙はないかのように見えた。

 表面上は何も変わらないとは言え、実際には心のうちに少しだけ変化があった。今の歌姫の歌を聴けるのがあと一回だと思うと、ティアはなぜか焦燥にかられるのだった。それを表に出さないだけで。

 今の歌姫の歌だけがティアの心をかき乱す。次の歌姫が誰かなんて知らないし、どんなふうに歌うのかも知らない。交代しても誰も気がつかないということは、歌姫はいつも同じように見えて聞こえるのだろうけれど、だからと言って次の歌姫がティアの心をかき乱すとは限らない。

 あと一回で心をかき乱される理由を確かめたいのだ、ティアは。どうやったら確かめられるのかもわからないのに。


 その日も、練習が終わって塔に戻るとすぐに、自室の寝台にもぐりこんだ。

「明日で最後……」

 翌日は休息日。今の歌姫の歌を聴ける最後の日。そう思っただけで、焦燥にかられた。

 なぜここまで、歌姫の存在が自分をかき乱すのだろう。考えてはみても、ティアには答えが出せない。

「いつかは私も、歌姫と呼ばれるのに」

 ポツリと呟いた言葉は、顔を押し付けていた寝台に吸い込まれていった。

 しばらくして運ばれてきた食事を終えるとティアは、珍しく――ノアを放したとき以来初めて、窓の枠に腰掛けるようにして外を眺めた。

 夜の闇に塗りつぶされた外には、月明かりに照らされてぼんやりと景色が見える。目の前には木の枝。以前見た時よりも少しだけ近く、そして大きくなったようにティアは感じた。手が届けば、ここから逃げ出せるかもしれないと思っていた木。そっとティアは手を伸ばすけれど、あと少しというところで手が届かない。そのことにがっかりして、手をゆっくりと引っ込めた。

 空を見上げれば、真ん丸なお月様。ティアはただじっと、月を見つめていた。月が木の向こうに隠れてしまうまで、ただじっと。


 翌朝、いつもより早い時間に起こされたティアは早朝の劇場へと向かった。劇場の裏側にある通路で待っていたのはカルロ長老だった。

「今日が、今の歌姫の最後の休息日の儀式です」

 なぜかかしこまった話し方で、カルロ長老はティアに話しかけた。

「ティアが知りたいことを知ることができるのも今日が最後です。答えは見つからないかもしれません。けれど、それを知ろうとすることは、あなたが歌姫になるためには必要なこと」

 そう言ったカルロ長老は、ここからでは見ることのできない舞台に視線を移した。その視線を追うように、ティアも舞台の方に視線を移す。

「歌姫は儀式の前に、一度だけ練習をしています。その日の調子を確認するために歌うのは『聖日の歌』だけですが。ティアが歌姫に会うことは出来ないけれど、ここから練習を聞くことはガデス長老の許可を得ています」

 それだけ言うと、踵を返してカルロ長老は去っていった。

 カルロ長老の言葉はどこか曖昧で、ティアにはその意図がつかめなかった。けれどティアの心情を見透かしたかのような言葉に、驚いてもいた。そして『聖日の歌』だけでもあと二回聴くことができるとわかり、少し喜んだ。


 通路の暗がりで、ティアは歌姫の練習を聴いていた。いつものようにその歌声はティアの心の奥の感情を引き出そうとする。両手を体の横で強く握りしめ、自分の感情を押さえ込み、そして歌を聴く。少しでも冷静に歌を聴きたかった。

 ゆっくりと余韻を残して歌が終わる。

 ティアの瞳は潤んでいた。かろうじて涙がこぼれ落ちることはなかったけれど、なぜか悲しみに心が支配されていた。同時に口元が緩み、悲しみの中にも喜びが混じっていた。

「これは……、歌姫の感情……?」

 ティアにだって確信はなかった。けれど、なぜか歌姫の感情が自分の中に入り込んできたと思えてならなかったのだ。


 自分の心と葛藤しているうちに休息日の儀式が始まったらしい。再び聞こえ始める歌声。『聖日の歌』は儀式の最後に歌われる。最初は短い歌ばかりが続く。どれも先ほど聴いた時のようにティアの心をかき乱すことはなかった。

 順番に歌い上げられていく儀式の歌たち。最後の歌――『聖日の歌』がつむがれ始めた。再びティアの心が感情に支配され始めた。

 強く両手を握り、暗がりに座り込んで自分の体を抱きしめる。

 それでも心は悲しみに支配されていく。どうしようもなく、涙が溢れでてきた。


――大地に響くことあれ

――限りない命と命と命が連なる光の輪


 悲しみの底から、喜びが溢れてくる。


――大地の言葉でつむぐ歌

――愛しています、いとしい人よ


 歓喜の歌声。


――愛しています、いとしい人よ


 解放される喜び。


――愛しています、いとしい人よ


 死によってしか解放されない、悲しみ。


――愛しています、いとしい人よ


 ひときわ響く声。

 そして、静寂。


 ティアは放心していた。気がついた時にはとっくに儀式は終わっていて、辺りに人の気配はなかった。あふれ出た涙はとうに乾き、肌に違和感を覚えた。

「終わってしまった……」

 歌姫の儀式が終わってしまった。彼女に残された最後の儀式は、交代の儀式だけ。

 次の休息日には新しい歌姫が儀式を執り行うのだと、ぼんやりと考える。そして、そのことに気づくものはいないのだろう。知っているのは新しい歌姫と長老と、そしてその次の歌姫候補であるティア自身だけ。

 ティアが歌姫になる時も、ティアが歌姫ではなくなる時も、いつだってそれは変わらないのかも知れない。そう思うと心が少しだけ痛んだ。けれどそんな思いも、小さく頭を振ると同時に振り落とす。

 儀式を見ていたであろう国民たちの気配もいつの間にか消えていた。暗がりで立ち上がると、ふらりと舞台へ向かって歩き出した。

 舞台へと続く入り口に近づいたティアは、そっと中を覗き込む。暗がりにいたティアにとって、外の明るさが目に眩しかった。

 そっと見回して誰もいないことを確認すると、ティアは舞台へとあがってみた。少し前まで歌姫が歌っていたその場所に立つと、ゆっくりと周りを見渡した。

 すり鉢状の劇場の底にある舞台からは、座席がよく見える。階段状の座席からも、舞台がよく見渡せたと一度だけ見た休息日の儀式を思い返す。

 あの時見た浮かぶスフィアは、今はない。石でできた座席の、石と石の継ぎ目からは細い草が伸びている。前に座った時もはえていたのかもしれないけれど、ティアは覚えていなかった。

 空を見上げれば、千切れ千切れの雲が風に流されていた。

 足元を見れば、同じ大きさの石が敷き詰められているのがわかる。

 最後にもう一度ぐるりと座席を見渡して、そして舞台から降りた。

 一人で塔まで帰るように言われていたことを思いだしたティアは、通路を通り、そっと裏から劇場の外へと出た。見上げたティアの瞳にうつるのは、先ほどと同じ空。同じはずなのに、どこか違うと感じる空だった。


 塔へと戻ったティアは、寝台へと仰向けに寝転がった。交代の儀式の時間に合わせて誰か長老が迎えにくることになっている。それまでティアはこの自室で過ごすことになっていた。

 寝台の上でティアは今日の休息日の儀式のことを思い返していた。

 感じた悲しみと喜びは、あの歌姫の感情そのものだとティアは確信していた。そしてその気持ちがよくわかってしまったのだ。自分も歌姫でなくなる直前、あんな風に感じるのかもしれない。


 いつの間にか眠ってしまっていたらしいティアは、扉を叩く音で目が覚めた。窓の外を見れば、夕闇が広がっていた。

「お食事、置いておきます」

 そっと控えめな声で階下の女が告げる。板を床に置く音が聞こえ、すぐに女が階段を下りていくのがわかった。その足音が消えると、ティアは扉をそっと開けて食事ののった板を持ち上げた。

 食事をして、もうひと眠りしないと。ティアはこのあとのことを考えた。

 早朝の儀式の前に行われる、交代の儀式。

 その儀式が始まるまで、あと少し――。

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