第1章(5)

 ティアの様子をしばらく窺ったあと、長老は再び口を開いた。

「彼は長い間、誰とも結婚しようとはしなかったのだよ」

 ティアの様子を気にかけながらも、長老は淡々と言葉をつむいでいく。

「あれだけの知識があれば、彼を婿に迎えたいと思う者も多かった。その誰の言葉にも頷かなかった彼が、唯一、自分から歩みよったのが、君の母であるアルテイシアだよ」

 アルテイシアとは幼馴染みのようなものだったのだと、長老は珍しく小さく笑う。

「アルテイシアは、彼女は孤独な人だ。幼い頃に家族に先立たれてしまった。その後の彼女のことは、私は詳しくは知らない。だが孤独な者同士、惹かれあったのかもしれん。いつしか二人は恋人になり、家族になり、君が生まれたらしい」

 ティアは不思議な面持ちで長老の話を聞いていた。まさか母とカルロ長老が知り合いだったとは、思いもよらなかったのだ。

 長老は、そんなティアの気持ちを知ってか知らずか、昔を懐かしむような表情を見せながら話を続けた。

「我々はもちろん、歌姫候補を決めるさいには、その人物について詳しく調べることにしている。家族についてもある程度は。アルテイシアについては私が知っていたが、ナーザのことについては……。移民だったこともあるが、彼のことは何もわからなかった」

 ティアを一瞥して、また話を続ける。

「移民でもたいていは、どこの国から流れてきたのかくらいはわかるもの。だが、彼についてはそれすらもわからなかった。

 ……お前のその力は、誰から受け継いだんだろうな」

 最後は独り言のように、ぽつりと漏らされた言葉だった。それでも長老の話すことを一言も漏らさぬように聞いていたティアには、しっかりと聞こえてしまった。『誰から』、その言葉がティアの頭の中を何度もよぎった。


「さて、少しお喋りが過ぎたな」

 軽く膝をたたいてカルロ長老が立ち上がった。ティアもそれに従うように、あわてて立ち上がる。ティアが長老の顔を見上げれば、いつものように硬い、何を考えているのかよくわからない表情をしていた。

「最初に言ったように、今日はこれから一番大切な歌を教える」

 ゆっくりと長老が口を開いた。父の話を聞くのに一生懸命でそのことをすっかり忘れていたティアは、朝の長老の言葉を一瞬で思い出した。そしてじっと長老の顔を見つめる。ティアの顔からは表情が消えていた。

「先日、お前が初めて見た休息日の儀式。あのとき歌っていた『聖(せい)日(ひ)の歌』こそが、最も大切な歌。休息日の儀式で必ず歌うものだ。そして歌姫が覚えるべき歌の中では最も長い」

 長老の言葉に、ティアは先日見たばかりの休息日の儀式を思い出した。

 あの心に響く歌と半透明の碧い石。――そして、出来れば思い出したくなかった仮面をつけた歌姫の顔。

 一瞬でティアの表情が強張る。長老はその表情に気づいてはいたけれど、何も言わない。

 そして数瞬の後、ティアの表情の強張りが解け、ゆっくりと顔から表情が消えていった。

(怖くなんか、ない)

 ティアは心の中で繰り返していた。

 そんなティアの心の動きが、長老には手に取るようにわかっていた。今までの歌姫も同じだったのだから。

 そうは言っても、まだ年若いカルロ長老が見てきた歌姫は、現在の歌姫で二人目。候補もいれれば、ティアで七人だった。候補は候補。様々な感情に乗り越えられず、あるいは力が弱すぎて、結局は歌姫になれなかった者も三人いた。

 ふと、長老は口の端に笑みをのせた。いまだティアの心は葛藤を繰り返している。けれど、この娘なら大丈夫だろう。力も、今までの歌姫と比べ物にならないくらいに強い気配がある。うまく育てなければと思うと同時に、ティアが歌姫の間はこの国も安泰だとカルロ長老は確信を持った。


 しばらくの間こっそりとティアの表情を伺っていたカルロ長老は、ティアの表情が消えたまま動かないのを見てようやく口を開いた。

「まずは歌を覚えるように。長いと同時に、この歌は少し難しいらしいのでな」

 口をつぐみ、一呼吸おいた長老は朗々とした声で歌い始めた。


――ここに一つの奇跡の歌

――それは日常に当たり前のようにあるもの


 詩を聞き、歌を聞き。長老が歌い終えると、辺りは静かになった。もともと静かな場所ではあるけれど、ティアの耳には先ほどの歌声が残って、それ以外の音が聞こえなくなっていた。

 さすがに一度ですべてを覚えることは出来なかったものの、ティアは覚えた一節を頭の中で繰り返した。


――人にあたえられた運命は交錯し

――苦難と悲しみを呼ぶ


「運命は交錯し……」

 無意識に呟いた小さな声は、カルロ長老の耳にもしっかりと届いた。

 これが、歌姫になることが、お前の運命なのだと、カルロ長老は心の中でティアに話しかけた。

 ぶつぶつと、ティアが覚えた部分を何度も口の中で繰り返すのを長老は見ていた。ティアはこうして歌を覚えていくのだ。いつだって。

「長老、もう一度お願いします」

 覚えた部分を満足いくまで繰り返したティアは、そう長老に請う。これもいつものこと。再び長老は己の口に歌をのせた。

 何度か繰り返したのち、再び休憩をとる。どちらかと言えば、ティアのためというよりは、何度か歌った長老のための休憩。心をこめて歌っていたわけではない。それでも、歌を歌うということは、とても力が削られることなのだと長老は思っている。

 休憩の間も、ティアは口の中で歌を繰り返す。まだらに聞こえる旋律と詩。そしてたまに考え込むような表情を見せる。詩の内容に感化されているのかもしれない。

 途中、何度か休憩を挟みながらも、ティアの練習は続いた。

 日が傾き始めると、それが練習の終わる合図。カルロ長老が手を叩く乾いた音を聞いて、ようやくティアはそのことに気がつく。いつの間にか詩(うた)を覚えることに夢中になっていたのだった。

「おおよそは覚えたようだな」

 練習の時間が終わり、カルロ長老がティアに声をかけた。まだまだ歌の旋律は不安定ではあるものの、詩は完全に覚えたようだった。

「はい。でもやっぱり難しいですね」

 ティアはどこか満足げな表情を浮かべて答えた。歌姫になるためとかそんなことは関係なく、歌い上げる満足感を覚えていた。それに、詩がティアの心に渦巻いてもいた。体の中が歌で満ちる感覚。

 歌姫の練習を始めてから意味を持つ詩を歌うのは初めてで、ティアは詩の言葉を考え噛み砕き、歌っていた。何度も歌ううちに、その言葉たちはティアの心の中に小さく形作っていった。

「そうか。まだ時間はある。交代の儀式までには完璧にしたいところだが……。明日もまた同じ歌をやるから」

 ティアを促し塔へと帰すと、カルロ長老も練習場を後にした。


 塔の自分の部屋まで戻ったティアは、そのまま身を寝台の上へと投げ出した。塔へ戻る間もずっと、『聖日の歌』が頭から離れなかったのだ。


――人に与えられた運命は変えることができる


 詩のどの部分もティアの心へと入り込んでくるけれど、ここだけは、この部分だけはティアは受け入れることができなかった。

(私の運命は変えられない)

 どうあがいても、自分が歌姫になる運命だけは変えることができないのだと、歌えば歌うほど思い知らされるのだった。もしも自分に与えられた運命を変えることができるならば、ティアは迷わず母や妹と暮らすことを望んだだろう。いくら望んでも、二度と叶わない夢を。

 ゆっくりと寝台から起き上がったティアは、ノアのそばへと歩み寄った。

「ノア、あなたがかごから出ることができれば、あなたの運命は変わるのかしら?」

 床に膝をつき、テーブルにのせた両腕に顔をあずけた姿勢でノアを見つめる。ノアもじっとティアの顔を見つめていた。


 翌日も、いつも通りに練習場へとティアは向かった。出迎えたのはガデス長老だった。

「昨日の練習の成果を見ようかの。発声練習が終わったら声をかけなさい。そこにいるから」

 練習場へと入ったティアに声をかけたガデス長老は、すぐに隅にある石段状の席に腰掛けた。

 ティアは落ち着かない気持ちで、けれど言われたように発声練習を繰り返す。いくつもの発声練習のための歌を繰り返し、そして満足がいくとガデス長老を呼んだ。

「昨日の歌を歌いなさい。どれくらい覚えたかが知りたい」

 抑揚のない声で言われ、ティアは深呼吸を繰り返した後、声を張り上げた。


――人に与えられた運命は変えることができる


 納得のいかないその部分で、声が震えてしまったのは仕方がないことだとティアは思う。それでも、ティアはそっとガデス長老の様子を伺った。その表情に変化がないのを確認すると、歌いながら心の中でそっと息をついた。

 ところどころ旋律があやふやな部分はあったものの、最後まで歌いあげたティアは口を閉じると同時に目も閉じた。なぜだかすごく、この歌を歌い上げた満足感に満たされるのだった。

 しばらくの間、ティアもガデス長老も黙ったままだった。ティアはそんなことにも気づかないくらい満たされていた。ガデス長老はじっと、ただただティアの様子を見つめていた。じっと目を閉じ、無意識に両手でブルークリスタルを握るティアを。そして、少しだけ口角をあげた。

 いつまで経っても動かないティアのそばへと、ガデス長老が歩み寄る。その足音に気がついたティアがはっとしたように目をあけた。

「あの、すみません……」

 自分の内に浸ってしまっていたことに気づいたティアは、慌ててガデス長老に頭を下げた。体の中が歌に満たされて、自分の外側にあるものを完全に忘れていた。昨日よりずっと強いその感覚に、ティアのすべてが流される。

「休憩にしようかの」

 そう言ったガデス長老は、そのまま体の向きを変えると同じ場所に戻って腰掛けた。ティアも後を追いかけて座る。用意された水を飲み干すとようやく人心地ついたようだった。

 黙って前を見据えるガデス長老の横で、ティアも黙って顔を伏せていていた。

 何度歌っても、何度心の中でつぶやいても。やはり自分に与えられた運命は変えられないと、ティアは思う。こうしてガデス長老の前で歌って、その思いはより一層強く、ゆるぎないものになった。

 それと同時に湧き上がった思い。

 自分の運命は変えられない。けれど、この歌を聞いた誰かを変えられるかもしれない。私とは違って運命を変えられる人がいるかもしれない。私の歌で変わる人がいるのかもしれない。


 自分の運命は変えられないけれど、人々のために歌い続けよう。


 歌姫がどういうものかを理解したうえで、ティアが歌姫になる決心をしたのは、この時だった。

 何度も練習を繰り返した。もちろん、まだまだ完璧にはほど遠い。これから何十回、何百回、何千回と練習を繰り返さなければならないだろう。けれどそれを苦だとは感じなかった。歌姫になる決心をしたティアの心の中では、大きな変化があった。


 練習を終えて塔に戻ったティアは、いつものようにノアと食事を共にした。そして寝る前、初めて他の運命を変えた。

「ノア、今までありがとう。あなたはあなたの運命を探しなさい。大きな空の下で。こんな小さなかごに閉じ込めてしまった私を許して……」

 そっとかごの扉を開けたティアは、ノアをかごから出して窓辺に置いた。しばらくティアを見つめていたノアは、数回の鳴き声を残し、窓から飛び立っていった。

「さようなら、ノア……」

 うっすらと瞳に浮かんだ涙をぬぐったティアは、寝台へともぐりこんだ。

「明日が、すばらしい日でありますように。ノアにとっても」


 翌朝、目を覚ましたティアの顔からは、表情が完全に消えていた。

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