第1章(4)

 朝、ティアが目覚めたのはまだ明け方のことだった。部屋に雨のにおいが充満しているが、窓の外に雨は見えない。

「寝ている間に降ったのかな」

 まるで私の心の中みたい、とつぶやくと、ティアは上半身を起こして両手を上にあげると大きく伸びをした。伸ばした手はすぐに体の前に落とされる。

 しばらくの間、ぼんやりと自分の手を見つめていたティアは、視線をあげるとゆっくり寝台から降り立った。起きなければいけない時間には、まだかなりの余裕がある。けれど一度覚めてしまった以上は、再び眠れそうもなかった。

「ノア、おはよう」

 そっと鳥かごに近づき、かごの置かれたテーブルに手をつくと声をかける。まだ太陽も昇りきっておらず、部屋の中はかなり薄暗い。それでもノアの姿を見ることはできた。ノアは止まり木の上で眠っているらしい。いつもより早い時間のせいか、ティアの声に反応しない。仕方のないことかも知れないとは思いながらも、寂しさと不安をティアは感じていた。

 ひとりっきりで、誰もそばに味方がいないような……。そんな孤独をティアは感じた。それは、歌姫候補としてここに連れられてきた時に感じた孤独にひどく似ていた。その孤独感は、ノアといることによって消えていたはずなのに。

「ノア、おはよう。ノア?」

 孤独感を打ち消すかのように、ティアはノアに話しかけつづける。何度も話しかけ、ようやくノアが動いて反応するとティアは明らかにホッとした表情を顔に浮かべたのだった。


 ノアが反応をしたことで、ティアはようやく椅子に腰掛けた。肩肘をテーブルにつくと掌にあごを乗せて、毛づくろいをするノアを見つめる。そんな見慣れたノアの動きは、ティアの心を温かくした。

「ノアだけは変わらないでいてね……」

 心の中でつぶやいたはずの言葉は、音となり口から漏れる。変わらないものなんて何ひとつないのかも知れない。きっと一番大きく変わってしまうのは自分。それでもいつかは自分が歌姫になる以上、きっといつまでも一番近くにいてくれるのはノアだけだから。

 じっと、ノアの動きを見つめ続ける。毛づくろいを終えたノアは、別の止まり木に移動し羽を羽ばたかせた。それを見たティアは悲しげな表情を浮かべた。

「あなたもやっぱり、大空を羽ばたきたい? この小さな鳥かごの中じゃ、羽を伸ばして好きなだけ飛ぶこともできない。飛べるだけの広さもない。……あの自由な鳥のように、あなたもいたいのかしら」

 話しかけながら窓の外を見たティアの視界に入ったのは、ちょうど木の枝から飛び立つ野鳥だった。

 鳥かごの中と同じような自分。逃げ出したくて仕方ないのに、逃げることもできなくて。逃げることを諦めてしまった。ノアはティア自身がそばにいて欲しくて飼っている。自分と同じように鳥かごの中に閉じこめて。

 たまに自由に羽ばたく野鳥を見かけると、どうしようもなく羨ましくなってしまう。それはノアにも言えると思う。ノアも本当は自由に飛び立ちたいはずなのだ。窮屈な鳥かごの中にいるのではなく。その方がノアにとっては幸せなことなんだと思う。

 けれど、ノアを鳥かごから出してしまったら……。もう二度とここには戻ってこないだろうとティアは思う。ここに自由なんてありはしないのだから。自分がもしここから逃げ出せたら、もう二度とここには戻りたくないだろうと思うのと同じ。

 ノアを自由にしてあげたい。そう思う以上に自分を一人にしないで欲しいと思う。その自分の望みを優先させて、結局はノアを手放すことが出来ないのだった。


 いつの間にかすっかり明るくなった空とともに、部屋の中もじゅうぶんに明るくなった。ノアの姿もはっきりと見える。

 ティアが飽きることなくノアを見つめていると、控えめに扉が叩かれた。ティアは階段を上ってくる足音に気づいていなかった。少し驚いたがすぐにいつものように、ティアは息をひそめるだけ。それと同時に聞こえる何かを床に置く音。

 ティアは女が階下へと戻る足音を聞いていた。扉の外から聞こえる音が何もなくなってようやく、ティアは大きく息を吐き出した。

「ノア、朝食にしましょう。お腹、すいたでしょ」

 椅子から立ち上がると、扉に近づきそっと開ける。扉のすぐ横に置かれた食事がのった板を手にすると、そっと扉を閉め、また元の場所に戻った。椅子に腰掛けるとすぐにパンをちぎってノアに与える。ノアがパンくずをついばむのを確認すると、ティアは自分も食事をはじめた。

 ティアは食べながら時折ノアにちぎったパンを与えていた。けれどいつもと違って、今日のティアは言葉数が少なかった。確かにノアを見ているのに、心だけがどこかへ行ってしまっているかのように。

 食事を終えると、食器ののった板を扉のすぐ外に置く。そうしてからティアは昨夜のように窓枠に寄りかかるようにして、外を見つめていた。そこから見えるのは、立派な枝を広げた木。無意識に枝へと手を伸ばし、そして届かないと気づくと落胆の色を浮かべた。

 伸ばした手を胸元で強く握りしめたあと、首から提げている母のクリスタルを強く握りしめた。そうするだけで、どこかおかしな自分の感情が凪いでいくのを、ティアは感じていた。

 そのままじっとしていると、扉の外から足音が聞こえてきた。誰かが階段を上ってくる足音。

(時間かな…)

 じっと息をひそめる。足音は扉の前で止まり、扉を叩く音が聞こえてきた。

「練習の時間です」

 階下の女はそれだけを伝えると、扉の横にあった板を持ち上げたのだろう。食器の触れ合う、鈍い音が小さく聞こえてきた。そしてすぐに階段を下りていく足音も。

 音が完全に聞こえなくなると、ティアは詰めていた息を吐き出した。

 わざわざ息をひそめる必要はないのだと、ティア自身も思ってはいても、いつも無意識にしていた。

(私はずっと、何を恐れているのだろう)

 なぜ息をひそめてしまうのか。いつの間にかやるようになっていて、気がつけばしっかりと身に染みていて、ティアにもわからないのだった。

 おもむろに体を預けていた窓枠から引き起こすと、もう一度強く母のクリスタルを握りしめた。じわりと体を侵食する恐怖心を、心の外へと追いやる。きつく閉じた目を開くと、顔には何のかげりもなかった。かげりがないかわりに、表情もなかった。

「ノア、行ってくるね」

 離れた場所からノアに声をかけると扉に手をかけ、音をたてないように開いた。別に音をたてても何も問題はないのに、息をひそめるのと同様に、いつの間にかティアはそうしていた。

 相変わらずほの暗いらせん階段を、壁に片手をついて下っていく。すぐに階下にたどり着くと、明るい部屋へと入っていくが、そこには誰もいなかった。

 すっきり片付けられたテーブル、中途半端にひかれた椅子、食べ終えた食器の置かれた炊事場。見慣れたその部屋の住人は、外へ通じるのとは別の扉の向こう、自分の部屋にでもいるのだろう。そう思うとティアは小さく息を吐き出す。

 女と、顔を、合わせたくないのだ。顔を合わせたからと言って、どうということはない。女は必要な時以外は絶対に口をきかない。ティアにはそれが辛かった。

 幸いなことに、ティアがここを通る時に女がいることは稀だった。女はティアに声をかけたあとはいつも部屋にこもってしまっていたから。家事はティアがいない間にやっているのだろう。練習を終えて帰ってくると、きれいに片付いた部屋がティアを出迎えてくれる。


 それにしても、人がいないのに感じるこの束縛感は何だろうと、ティアは初めて不思議に思った。

 自分の部屋には、自分とノアしかいない。誰か長老が来ることはあっても、それはごく稀なことだった。だからこそ、あの狭い空間がティアにとっては一番自由にすごせる空間になっている。

 だが、その部屋を一歩出てしまえば、階下に住む女の気配がどこかしらに残っている。それがどこか見張られているようで、きゅうくつだった。

(ああ、そうか)

 ふいにティアは気づいた。自分の部屋ではティアはティアだ。だがそれを一歩出てしまえば、ティアはティアでなく、ただの歌姫候補でしかないのだと。そのことを知った今、ここにいるのが自分であって自分でないような気がして、怖いのだ。

 歌姫という存在に、がんじがらめに縛られているような気がして仕方がないのだ。


 そっと外へと通じる扉を開けて、隙間に体を滑り込ませる。後ろ手に扉を閉めると、空を見上げた。二羽の鳥が、自由に空を羽ばたいていた。

(歌姫になるしかないと、諦めたのよ。私は)

 自分に言い聞かせるように、ティアは何度も心の中でつぶやく。片手にはクリスタルを握りしめて、ゆっくりと大きく呼吸を繰り返す。

(怖くなんかないわ。恐怖なんて忘れてしまわなければ)

 クリスタルを握る力を強めたあと、ゆっくりと離した。視線も空からはずし、進むべき道を睨むように移す。ぎゅっと引き締めた口元はすぐに力が抜けて、顔から表情が消えた。

 練習場へと続く道に足を一歩、踏み出した。顔には出ていないものの、ティアは緊張していた。今までにはなかった緊張感。

 初めてここへ来た時、それから慣れるまで。確かにその時も緊張していた。未知のことに対して。それにもすっかり慣れて、今では階下の女と顔を合わすんじゃないかとか、そんな緊張くらいしかしなくなっていた。

 それが、歌姫の本質を知ってしまった今、また緊張感を呼び起こしていた。既知のものへの緊張。知っているからこその、緊張と恐れ。それらをすべて、表情の消えた顔の下に隠して、ティアは練習場へと向かって歩き出した。


 練習場に入ると、カルロ長老が待っていた。

(今日は、カルロ長老なのね……)

 正直、今は一番会いたくない長老だと思いながら、いつもどおりにティアは挨拶をした。それに答えながら、ティアの無表情な顔をじっと見つめたカルロ長老は、しばらくして満足そうに口の端を小さくあげた。

「今日は、何を……?」

 ティアは少し警戒するような声を出した。表情にも、少しだけ恐れが覗いていた。しかし、カルロ長老はそんなティアの様子を気にするわけでもなく、淡々と今日の予定を告げる。

「いつものように、発声練習を。それが終わったら、一番大切な歌を教える。しっかりと覚えるように」

(『一番大切な』歌……?)

 今までと違う練習内容に、ティアは小さく首を傾げた。

 今までの練習と言えば、最初の頃は発声練習ばかり。声が出るようになれば、より声が出せるように、そのための歌を覚えて歌って。いくつもの発声練習のための歌を覚えて歌って。それの繰り返し。

 それぞれの歌は短くて、すぐに覚えられるようなものばかり。けれど、長老たちが満足のいくように歌えるようになるまで、どれも時間がかかった。

 長老たちが満足のいく出来というのが、どういう状態なのかがティアにはわからないのだ。ただ言われるがままに、感情を込め、声を出し、時には殺し。自分ではよくわからない歌い方の変化を求められる。自分ではわからないからこそ、長老たちに言われるがままにするしかなかった。

 ティアは『一番大切な』という長老の言葉を疑問に思いながらも、それでもいつだって彼らに従うしかないのだからとその疑問を頭から追い出して、発声練習を始めた。


 途中で休憩をとって、歌うことによって乾いた喉を水で潤しながら、ティアの発声練習は続いていた。

 太陽がすっかり昇って、頭上に到達した頃。何度目かの休憩のときに珍しくカルロ長老がティアに話しかけてきた。どの長老たちも、ティアと必要以上に話をしないのが普通だった。

「ティア、その首にかけているものは?」

 ティアの首からさげられたクリスタルを興味深げに見つめながら、カルロ長老が口を開く。普段と変わらぬ表情だが、目つきは鋭い。淡々とした喋り方だって、いつもと変わりはない。

 だがティアは、どこか怒られているような気持ちになっていた。

「……母が、私が家を出るときに、くれたもの、です……」

 無意識に消え入りそうになる声を、長老に聞こえるようにゆっくりと喋る。

 ティアの答えを聞いていなかったのか、カルロ長老はクリスタルから視線を外さない。

「あの、……すみません。……このようなものを、神聖な練習場につけてきてしまい……」

 ティアはカルロ長老に怒られると思った。知らずに顔がうつむいてしまう。

 ティアにとっては大切なクリスタル。だが、練習場は神聖な場所。そんな場所にこのような装飾品を身につけてきて良かったのだろうか。いや、つけてきていいはずがないだろう。そう、ティアは一瞬で思い至った。なぜ塔を出る前に考えなかったのだろうか。

 しばらくしてようやく口を開いたカルロ長老は、しかしティアが思っていたのとは全く違うことを言ったのだった。

「ブルークリスタルとは……。珍しいものを持っているのだな、お前の母親は」

 これが珍しいものなのか、ティアにはわからない。ただ綺麗で、好きだったのだ。だから欲しがった。

「あの、これは父が母に贈ったものだと、そう聞きました」

 ティアの言葉に、長老は少しだけ視線が宙をさまよう。何かを思い出しているようだった。

「お前の父親は、移民だったな。確か。ここへ来る前にどこかで手に入れたのだろう。この国では入手できないものだから」

 長老の言葉に、驚いたようにティアが顔をあげた。

「あのっ。長老は、その、私の父を、ご存知なんですか?」

 ティアが小さい頃にいなくなってしまった父親。自分の父親のことなのに、ティアはその人物のことをほとんど何も知らなかった。父親が移民だったという話も始めて聞いたのだ。

 ティアは、もう顔もぼんやりとしか思い出せない父親の姿を思い浮かべた。日に焼けた、浅黒い肌をしていたように思う。手は大きくて骨ばっていて、その手が大好きだった。

「もちろん、知っている」

 静かにそう言った長老は、目を少し細めてふたたび視線を宙へとさまよわせた。遠い記憶を思い出すように。

 しばらくの沈黙のあと、長老が再び口を開いた。

「不思議な男だった」

 ティアは少しでも父のことを知ろうと、かたずをのみ、真剣な眼差しを長老へと向けた。

「やけに物知りだった。彼のおかげで作物は豊富に採れるようになった。そのおかげでこの国の生活も格段に豊かになった。だが……」

 そこで言葉を切ると、胸の前で組んでいた手の片方で、自分の顎を撫でる。

「……いや、何でもない。ただ、彼は本当にただの人間だったのだろうか。そんなことを言う輩もいた」

 穏やかで、けれどどこか重い言葉が、ティアの中に沈んでいった。

「ナーザという名前だったかな」

 呟く長老の言葉に、ティアは自分が父の名前さえ覚えていなかったことに気がついた。

「彼がここへ流れついた時、一人きりだった。家族はいないと言っていたように思う。当時、私はまだ若かったから詳しくは覚えていないのだけれど」

 ときどき考えこむように言葉が止まる。けれどティアはじっと聞いていた。父のことは知りたいと思う。どんな些細なことでも。けれど、何を聞けば良いかはわからないのだ。父に対する興味はある。

 今まで、ティアが父のことを思い出すことがなかったと言ったらウソになる。けれどそれほど思い出したことがあったわけでもない。小さな頃、特に父がいなくなってすぐの頃には、寂しくて思い出したこともあった。そしてそれ以上に、突然やってきた腹違いの妹との新しい生活が楽しくて仕方なかったのだ。


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