第1章(3)

 一通りの説明は終わったのだろう。カルロ長老に促され、ティアはいつの間にか塔へと戻る道を歩いていた。いつもより早く帰れる。普段ならば一人の時間が増えたことに喜ぶティアなのに、今のティアにはそんなことを考える余裕もなかった。ふらふらと、それでも一歩ずつ、自分に与えられた塔へと歩みを進めるので精一杯だった。

 塔へと辿りついたティアは、いまだにふらふらする危うい足取りで階段を上った。部屋に入ると、そのまま寝台に仰向けに倒れこんだ。

 虚ろな目は、何も映してはいない。感情すら宿っていなかった。ノアに声をかけることすらできず、食事にも応じず。寝台の上で身じろぎもせず、夜を迎えた。

 起きているのか、それとも目を開けたまま寝ているのかもわからない。その状態は、空が真っ暗になっても続いていた。ティアは考えることを放棄し、何も感じることもなく、ただただそこにいた。

 窓の外がうっすらと明るくなってきた頃、ようやくティアは体を少し動かした。意識していたわけではないものの、一晩中ずっと同じ体勢のままだったのは、やはりティアの体に負担を強いていたらしい。その体の動きはぎこちなく、ゆっくりとしていた。固まった関節をほぐすようにゆっくりと、全身を伸ばしていく。

 何度か全身の関節を曲げ伸ばしすると、寝台の上にふたたび体を投げ出した。瞼がゆっくりと閉じ、再びまどろみへと身をゆだねた。固まっていた関節は、疲れをほぐすどころか溜め込んでしまった休息の証。


 次にティアが目を覚ましたのは、扉を叩く音が聞こえたからだった。ぼんやりとした頭で、ティアは霞む視界に窓の外を映した。太陽が昇って明るい空。朝食の時間だろうか。ぼんやりと見える空は、朝食時と同じ色に見える。

(朝、か……)

 視界同様に霞む頭でティアは考える。

 夜が明けて朝がくれば、それは新しい一日の始まり。ティアにとっての、いつもと同じ一日の始まりのはずだった。それが今、ティアは新しい一日が始まってしまったことへの恐怖や拒絶を感じていた。

 どうしても思い出してしまう。昨日の長老の言葉を。仮面に隠された歌姫の顔を。それでも、ティアにはどうすることもできないのもわかっていた。ただただ、日々を過ごすしかないのだと。

 ゆっくりと体を動かしてみる。明け方と違い、関節はなんの抵抗もなく動く。体も、少しは軽くなったように感じた。

 再び、扉が叩かれた。

 朝食だろうか。もしそうならば、扉を叩いた彼女は一声かけて、そのまま食事を置いて階下へ戻ってしまうのが常だった。一瞬、長老が来たのではないかとも考えたが、長老ならば扉を叩かずとも部屋に入ってきてしまうだろう。今までに経験のない状況に、ティアはようやく驚き、そして思考がハッキリとする。

 明け方よりは随分良いとは言え、いまだ疲れの残る体を無理やり寝台から起こした。疲れをひきずりながら、寝台から降りたティアは扉へと向かった。寝台から扉まで、それほどの距離はない。だがその短い距離でさえも、疲れたティアにはとても長く感じられた。

 扉を開けたティアの前にいたのは、朝食の載せられた板を持った階下に住む女。

(やっぱり朝食じゃないの)

 そうは思うものの、常にはない状況にティアは違和感を覚えた。

 おずおずとティアに向かって伸ばされた彼女の両手がしっかりと持つ板。その上に一枚の紙が添えられているのを、ティアは見つけた。見つけると同時にティアは板ではなく、その紙を手にした。紙に書かれた不鮮明なその文字列。内容はしごく簡潔だった。

『本日の練習は中止』

 急にティアの体から力が抜けた。理由のわからない安堵が体中に広がるのを、ティアは感じていた。ティアの視界の隅で、朝食の載った板が小さく揺れた。それを持ったまま、女はティアの様子を窺っていた。

(そうか、これを確実に見せるために彼女は私を待っていたのか)

 急にティアの中ですべてが腑に落ちた。そして、戸惑った表情を浮かべる女の両手から朝の食事を受け取る。

 何も喋らずにティアの様子を窺う彼女に、ティアは小さく頷いて見せた。それは紙に書かれた内容を理解したという返事。言葉を発せずとも、女にはティアの意図が伝わったらしい。どこかホッとした表情を浮かべ、ティアに頭を下げると階下へと戻っていった。


 女が去ると、ティアは食事をいつものようにテーブルの上に置いた。いつものように食事をしようとして、気がつく。昨日からノアの世話をしていなかったことに。慌てて、朝食のパンをちぎってノアに与えた。よほど空腹だったのだろう。ティアが差し出したパンのかけらを、勢いよくついばみ始めた。

 ティアは、昨日カルロ長老から聞かされたことをノアに話したかった。ノアに聞いて欲しかった。けれど話そうとしても、声にならない。どう話したらいいのかがわからず、頭の中が混乱するばかりだった。聞いて欲しいと思いながらも、自分で言葉にできるほど心が落ち着いているわけでもなかった。結局は何も言えず、ただノアが勢いよくパンをついばむのを見ていた。

 その勢いがおさまってきた頃、ティアはようやく自分の朝食を食べ始めたのだった。

 いくら頭の中が混乱しているとは言え、聞いたことは頭の中からいつまでたっても消えない。いだいた恐怖は心の中から消えない。繰り返し心に浮かぶ恐怖。心と思考が、何度も恐怖に侵食される。そのたびに食事をする手は止まり、ティアは両手で自分の体をかき抱いた。これ以上ないくらいに強く強く自分の体を抱きしめて、そしてすぐ隣に置かれたかごの中にいるノアを見つめた。ノアを通して、妹のノアや母を思い出していた。そうすると、恐怖が和らぐのだった。恐怖が和らぐと、ようやく食事を再開する。それを繰り返し、いつもよりもかなりの時間をかけて、それでもなんとか食事を終えた。

 食器をのせた板を扉の外に出してしまうと、ティアは再び寝台に体を投げ出すように倒れこんだ。食事をするだけで疲れてしまっていた。体ではなく、心が。

 頭に何度も浮かぶ、歌姫の真っ白な仮面。耳に聞こえる、いないはずの長老の言葉。ティアの心は、恐怖に侵食されて千切れそうだった。

 練習がない以上、ティアは塔から、この部屋から出ることはできない。何か他のことで恐怖を紛らわせることもできなかった。寄せては去っていく波のように、恐怖に侵食され、妹や母を思って落ち着く。それを繰り返すばかり。


 おもむろに、ティアは寝台の下へと手を伸ばした。

 寝台の下には、ティアが家を出る時に持ってくることを許された物が置かれていた。いわゆる思い出の品。ノアと母がくれた物。決して数は多くないが、そのどれもがティアにとっては宝物。

 その中のひとつ、濃く深い青色をたたえたクリスタルを手にとった。ティアの母、アルテイシアがいつも首から提げていたそのブルークリスタル。ティアが家を出るときに、母がくれたものだった。ティアの幼い頃から、いつも母の首にかけられていたそれは、太陽や燭台の光を反射して美しく、無数の青色に光るそのブルークリスタルを、ティアはいつも羨ましく思っていた。いなくなってしまった父が、母に贈ったものらしい。

 ティアの覚えている母は、いつもこのクリスタルを首から提げていた。母とクリスタルは、常に一緒だった。だからだろうか。ティアは辛くなると、それを握りしめては母を思い出していた。いつものようにクリスタルを握りしめ、寝台に横になった。

 かなり長い時間、ティアはそうしていた。何度も考える。何度も思い返す。恐怖し、母や妹は思っては心が凪ぐ。


 どれくらい経った頃だろうか。窓から見えていた太陽はゆっくりと姿を消そうとしていた。そろそろ夕食が運ばれてくる時間だった。

 ゆっくりと思い足音が扉の外から聞こえてきた。

(誰か来る)

 体を寝台に投げ出したまま、それでもティアの体は自然と強張った。

 ゆっくりと、数回叩かれる扉。しかしそれは、ティアの返事も待つものではなく、部屋の中に入るという意思表示のためだけのものだったらしい。すぐに扉が開けられ、夕食と燭台の乗せられた板を持つ男性が入ってきた。

 男性の顔を見て、ティアの顔はひきつった。それはカルロ長老だったからだ。すぐに思い出される、昨日の彼の声と言葉。

 そんなティアの様子も、カルロ長老には一向に気にならないらしい。テーブルに板を置き、燭台は寝台のそばへと置く。そうしてから寝台の脇に立ち、ティアを見下ろした。


 いつものように、表情のうかがい知れない、感情のない顔で彼は言った。

「今日もあと少しで終わり。食事をしたら、ゆっくり休みなさい」

 言葉は優しいのに、声は少しも優しくはない。

「今までの歌姫も、お前と同じだったんだよ」

 ティアは一瞬、驚きの表情を浮かべた。

「最初は恐怖を感じるだろう。お前も、今までの歌姫も。歌姫の本質を何も知らされずに来たのだから」

 落ち着きはらったその声は、ティアの体にゆっくりと浸透していく。

「歌姫は民の心の支えである。それと同時に、この国を維持するためには必要不可欠。人は誰しも恐怖を抱く。しかし、歌姫には恐怖の感情は求められない。恐怖を乗り越えるための、今日という一日の休息」

 恐怖を乗り越える……。その言葉が、やけにティアの心をかき乱す。

「歌姫の歌に民は心癒される。それができるのは、選ばれた歌姫だけ。民は歌姫の歌を心待ちにする。同時に、歌姫の歌はこの国の栄華を守る」

 引き結ばれた口元。入ってきた時と変わらぬ表情。

 カルロ長老は、言い終えると身を翻し、来た時と同様にゆっくりと部屋を出て行った。扉の外からは、階段を下りていくらしい重い足音が響いていた。けれどそれも少しの間のこと。


 長老が去ってからもしばらくの間、ティアは身じろぎしなかった。ティアの心にあったのは『恐怖を乗り越える』という長老の言葉。

 窓の外がすっかり暗くなった頃、ようやくティアは体を起こした。

 ずっと握りしめていたクリスタルを、初めて自分の首にかけた。

「母さん……」

 悲しみに満ち熱くなる瞳を、ぎゅっと閉じる。小さく震える体。それでも涙はこぼれない。


 ティアは思う。

 歌姫の候補に選ばれてから、自分の運命は既に決まっていたのだと。歌姫になる以外、ティアに残された道はない。そしてそれは、ティア以外の歌姫や歌姫候補たちも同じ。人々の心を癒せるのが歌姫で、自分はその歌姫になるために選ばれたのだから。

 恐怖の心を持ち続けることは、その恐怖を歌にのせて人々に伝えてしまうかもしれないのだ。そうなっては歌姫の意味がない。恐怖は忘れてしまうしかない。忘れられないのならば、捨てるしかないのだ。

 どうやったら捨てられる……?


 ――助けて……。


 ティアの心に浮かぶ小さな悲鳴は、言葉にならずに消えていった。

 代わりに大切なクリスタルを握りしめた。強くクリスタルを握りしめるその手は、小さく震えていた。瞳は虚ろで、さまよっていた。

 再びぎゅっと目を瞑ったあとに開いた目。そこには何の感情もなかった。同時に、ティアの顔から表情が消えた。それでも手は、首から提げたクリスタルを握りしめていた。

 寝台のそばに置かれた燭台を手にすると、食事のためにテーブルへと移動した。そのティアの口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。けれど、瞳は虚ろなまま。まるで無理矢理に笑みを浮かべているような、不自然な笑みだった。

「ノア、ご飯にしましょう」

 ノアに話しかけると自然とこぼれる笑み。ティアに答えるかのように、ノアはかごの中でティアに近寄ってきた。その様子を見たティアは、笑みを深めた。

 いつもと同じ、食事風景。自分のパンをちぎってはノアに与え、そして話しかける姿はいつものティアと変わらないように見えた。

「ねぇ、ノア? 私、今ちゃんと笑えてる?」

 そんなことをノアに何度も問いかけることを除けば。ティアは笑ってはいたけれど、それでもたまに顔から表情が消えてしまう。本人もそれに気づくと、はっとしたように顔に笑みを貼り付けていた。

 ティアは自分の中にある恐怖を、負の感情を、捨て去ろうと必死になっていた。すぐに叶うことではないと思いながらも、少しでも早く消えてしまえばいいのにと思う。

「私はなんで、歌姫に選ばれたんだろう。私の、何が、歌姫に合ってたんだろう……」

 ティアの独り言のような呟きを、ノアはいつものようにパンをつつきながら聞いていた。ティアはときどき考えこむように、食事の手を止めながらも、夕食を終えた。そしてすぐに食器の載った板を扉の外に出してしまった。

「ノア、おやすみ」

 ノアに声をかけると、ティアは燭台を手に寝台の横に立った。けれど寝台に寝るのではなく、窓枠に上半身を寄りかからせて外を眺めていた。

「いつか、あの木ももっと大きくなって手が届くようになるのかしら。そうしたら、私はここから抜けだせるのかな。ただのかごの鳥なんかではなく、自由に大空を羽ばたける鳥のように……」

 ティアの瞳は、目の前にある木と、その先に広がる闇をぼんやりと映し出していた。

「でも、あの木が大きくなる頃には、私はきっと歌姫以外の何者でもなくなっているに違いない」

 諦めにも似た響きを含ませた言葉が、ティアの口をついて出た。そして大きなため息が一つ。表情にもどこかかげりがあったものの、しばらくすると消えてしまった。自分の表情に気づいたティアが、すぐに感情を押し殺そうとしたのだった。かわりのように、ゆっくりと口元に浮かぶ笑み。一方で、細められた目には何の感情も浮かんではいない。

 おもむろに窓枠から体を起こしたティアは、ゆっくりと寝台へと移動する。その顔には先ほどと同じように、口元にだけ小さな笑みが、まるで仮面のように貼り付いていた。

 そして寝台に体を横たえたティアは、いつものように祈りを呟く。

「明日が素晴らしい日でありますように」

 ティアは、目を閉じるとすぐに眠りの世界へと連れて行かれたのだった。

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