第1章(2)

 朝の食事を終えると、ひとときの自由な時間がティアにおとずれる。とは言っても、外へ出かけることは許されていない。塔の中の、自分の部屋の中で過ごすことしかできない。その多くの時間を、ティアはノアに話しかけることで過ごしていた。

「ノア、あなたは小さなかごの中で幸せ? きゅうくつではないのかしら。自由を奪われて、大空をはばたくことも、仲間に会うこともできないのに」

 ティアがノアに語りかける言葉は、ティアが自分自身にたいして思っていることでもあった。

 歌姫になるために塔に閉じ込められて、自由をうばわれて。家族にも友達にも会うことができない生活。何もない。あるのは歌うことだけだった。ノアがくるまでは。今はノアがいるとは言え、顔を合わせるのは限られた人たちだけ。言葉をかわすのも。


 ティアはノアからそっと離れてただ一つある窓のそばに近寄った。それほど大きくはない窓から外を見ると、最初に目につくのは一本の大きな木。ティアの部屋の窓は、塔の出入り口とは反対側に作られていた。窓から下をのぞきこんでも、見えるのは石づくりの壁だけ。階下の窓は塔の出入り口の左右に小さなものがあるだけで、塔全体がとても閉鎖的に作られていた。

「あの木に手が届けばいいのに。そうしたら私、ここから自由に抜けだせる。逃げることだってできる」

 伸ばしても伸ばしても、枝にはかすりもしない手を胸の前でにぎりしめ、吐き出すように呟く。

 怖くても、逃げ出すことさえできない。ティアは歌姫になるために飼われた、かごの中の鳥だった。塔の、自分の部屋の中でだけ自由で、決して自分の意思で外へ出ることはできない、かごの中の鳥。

 ティアはその場に座りこみ、胸元にさげた飾りをぎゅっと強く握りしめた。薄く青みがかった透明をしているそれは、ティアが母から譲りうけた大切なクリスタルだった。ティアが歌姫候補として家をでる前日、小さなころから母の持つクリスタルを欲しがっていたティアに、母がくれたのだった。

「お母さん……」

 小さく小さく呟くティアの瞳には、うっすらと涙がにじんでいた。


 ティアが歌姫候補に決まったと言われてここへ連れてこられてから今まで。自由に出歩くことのできない生活は、確かに窮屈で苦痛でもあった。塔の中ですごすか、あてがわれた練習場でおこなわれるよくわからない練習。

 それでも、ティアはこれまであまり深く考えたことがなかった。歌姫になるということについて。ただ誇らしい気持ちが、小さく胸の中にあるだけだった。

 あの日、歌姫候補として家を出たあの日、近くに住む人々のささやき声が途切れとぎれにティアの耳にも届いた。

「あの歌姫に選ばれるかもしれないんですって」

「なんて光栄なことかしら」

 そんな言葉から、歌姫になることがすばらしいことであると、ティアは思っていた。

 けれど現実はどうだろうか。歌姫は歌姫であり、それ以外の何者でもないとガデス長老は言う。ティア自身ではなく、歌姫という存在を、人々は望んでいるのだろう。あの仮面をつけてしまったら、ティアはティアではなく歌姫になる。きっと近くに住んでいた人々だって、その仮面のしたにあるのがティアかどうかなんてわからないし、気にもとめないに違いない。ティアという娘が歌姫候補として家を出たことすら忘れているかもしれない。

 母や妹はどうだろうか。仮面の下に隠れている姿がティアのものであると、気がついてくれるのだろうか……。

 次々とティアの中にわきおこる、疑問という名の恐怖。

 初めて感じる恐怖に、ティアは窓の下で小さく小さく縮こまってしまった。両腕できつく体を抱きしめて。それから体に回していた腕をはずして耳を覆い、聞こえる何もかもをさえぎるように首を左右に振り続けるのだった。

 ティアの耳には、かすかに歌姫の歌う歌が聞こえていた。実際にはそんな音は聞こえてきてはいない。それはたぶん、ティアの恐怖からおこった幻聴だったのだろう。


 長い時間そうしていたティアは、部屋の扉がたたかれる音に気がついてハッとした。

「そろそろ練習のお時間です」

 それは階下に住む女の声だった。練習時間を告げるその言葉は、今のティアには心に重しのようにのしかかる。行きたくないと、ティアは初めて願った。それでも、歌姫になるためにここへやってきた以上、練習から逃れることはできない。

 ゆらゆらと、ゆっくりと立ち上がったティアは寝台へと向かった。その足取りはおぼつかなく、今にも倒れてしまいそうにも見える。それでもなんとか寝台までたどり着くと、横の椅子にかけてあった肩掛けを手に取った。

 もう一度、扉をたたく音が聞こえる。

「今、行きます」

 ティアの返事が聞こえたのだろう。少しして女が階段を下りていく音が聞こえてきた。

 ティアは何度か深呼吸をくりかえすと、持っている肩掛けを羽織る。さらにもう一度、深呼吸をすると、ティアは扉に手をかけた。

「ノア、行ってくるね」

 かごの中から自分を見ているノアに振り返って声をかけると、静かに扉を開けて部屋の外へと出る。ティアは名残惜しそうに、けれど音を立てないように扉を閉めると階段を下り始めた。自由な空間から、すべてを束縛された空間へと。


 実のところ、塔から練習場までティアは一人で移動していた。逃げようと思えば逃げられるのかもしれない。周辺に高い壁のようなものがあるわけでもない。かなり町外れにはあるものの、町までは何ひとつさえぎるものはないのだ。とはいえ、塔の階下に住む女性はティアの帰りがいつもより遅ければ長老に伝えたりするのだろう。

 そもそも、今までティアが逃げようなんて考えたことはなかった。不自由な生活ではあったけれど、そんな生活に慣れきっていたのだった。塔と練習場の往復だけの毎日でも、慣れてしまえば不自由など感じることもなかった。日々はとても単調なものだった。淡々と、ティアが歌姫になるまで時は過ぎていくのだろう。まるでそう洗脳されているかのように。

 塔を出てから練習場まで。ティアはしきりに辺りを見回していた。通りに人はいない。塔からまっすぐ進むと一軒の小屋の角を曲がる。その先には練習場。練習場の前には警備をしているらしき人が立っているが、塔を出てから小屋までの人目はなかった。けれど、そこも塔の中から小さな窓越しに女性が見張っているのかもしれない。

 ティアは本気で逃げ出そうと思ったわけではなかった。恐怖を感じる瞬間、たしかに逃げ出したいとは思った。けれど、逃げ出してどこへ行けるというのだろうか。母や妹のところへ逃げ帰ることができるのだろうか。それはできない。そんなことをすれば、母や妹に迷惑がかかるだろうと、ティアは思った。


 体が重い。心も、頭も重い。そう感じながら、いつになく嫌な気分でティアは練習場へと入っていった。

 警備の人はティアが通っても身じろぎさえしない。あいさつもしない。しかも毎日同じ人。生きた人間なのか、ティアは疑問に思ったことさえあった。人間によく似た像なのではないかと疑ってすらいた。しかし、その疑問はある日の帰りに解決したのだ。その日、練習を終えて練習場からティアが出たのとほぼ同時に、警備の人がくしゃみをしたのだ。それを見たティアは、やはり生きた人間であったのだと、なぜだか胸をなでおろした。

 そんなことを思い返しながら練習場へ入ると、そこには長老の一人が待っていた。練習は常に長老の誰かが付き添って行われている。

 ティアはその理由を一度だけたずねたことがあった。『覚醒を見守るため』とか『秘密保持のため』と長老は答えたのだが、まだ幼いティアはその言葉を理解することができなかった。今になってみれば、その言葉をいくらかは理解できるのかもしれないが、ティアがその言葉を思い出すことはめったになかった。思い出しても深く考えることをしなかった。


 今日は、もっとも年が若いらしいカルロという長老が練習に付き合うようだ。カルロ長老がティアの練習に付き添うのは珍しいことだった。

「昨日は休息日の儀式を、今朝は早朝の儀式をお前に見てもらった。歌姫の主な仕事はこのふたつだ」

 彼は静かにティアへと話しかける。

「お前にこれらの儀式を見せたのには、理由がある」

 カルロ長老は口を閉じると、じぃっとティアの表情をうかがうように見つめた。

「理由、とは、なんでしょうか」

 その様子にいたたまれなくなったティアが口を開き、カルロ長老に先をうながした。緊張しているのか、ティアは少し言葉を詰まらせた。

「次の歌姫が覚醒した。彼女がすべての儀式を覚えたら、歌姫交代の儀式をとり行う」

 ティアは心から驚き、カルロ長老の顔を見上げた。そしてひどく動揺しながら呟いた。

「覚醒……? 交代……? わ、私には意味が、わかりません。知らないんです」

「それは当然だ。お前はまだ何も知らない。次の歌姫が覚醒したことによって、お前もすべてを知るときがきたんだ」

 ティアは無意識に両手をこぶしに強く握りしめた。息をひそめ、カルロ長老の言葉に耳をかたむけた。

「今日は練習はおこなわない。歌姫について知ることが、今のお前にとって必要なことだからだ。すべての歌姫は、先代歌姫の覚醒を機に、先々代から先代へと交代をする前に実際の儀式を見て歌姫について知る。そして交代の儀式に参加する。それが歌姫の伝統だ」

 カルロ長老の言葉を聞いて、ティアの胸は高鳴り、そしてきしんだ。緊張と、わきあがる興味と恐怖。知りたかったことをようやく教えてもらえるうれしさと、知ってはいけないとどこかで思ってもいる。言いようのない感情が、ティアの心を支配していた。

 カルロ長老は口を閉ざしだまっていた。それは、いっときのようにも、とても長い時間のようにも、ティアは感じた。


「歌姫はすべてを知り、そしてすべてを受け入れなければならない。自分自身のために、そして歌姫を信じるすべての者のために」

 ようやく口を開いたカルロ長老は、そう前置きをしてから語りはじめた。ひどく抑揚のない声で、ティアに歌姫に関するすべてのことを、カルロ長老は伝えた。歌姫の起源、大きな災害によって少しずつ変わっていった歌姫の儀式のこと。そして交代の儀式についても。


 本来の歌姫とは、その歌声によって国の繁栄を願い、時にはその歌声によって人々を癒すものだった。

 このトートクルスと呼ばれる国が建国されて、ある程度の時が流れた頃のことだった。この国は外からの移民に対して非常に友好的で、災害が起こるたびに移民が流れついた。本来の意味合いでの歌姫とは、その頃にやってきた移民によってもたらされたものだった。

 歌姫のもたらす不思議な力が覚醒したのは、それから少しの時が流れた頃だった。

 その頃、国では疫病がはやっていた。体中が痛んだかと思ったら、ときに体の一部が異常にふくらみ、あるいは体中の皮膚が黒く変色していくのだった。そうなってしまうと、助かる者はいなかった。国の半数が、この疫病によって死んだのだった。

 いつの頃からか、当時の歌姫がその疫病に苦しむ人々が少しでも気持ちがやわらぐようにと、隔離されている人々の前で歌うようになった。それ以外にも、彼らの回復と、これ以上の蔓延がないようにと願って、一日のほとんどを祈りの歌を歌って過ごしていた。

 それからしばらくして、すでに疫病に苦しんでいる者は時を経て命を落としていったけれど、新たに疫病にかかる者がいなくなった。

 人々は、これを歌姫の奇跡だと、そう信じた。

 当時は、まだ五人しかいなかった長老たちは、歌姫のために歌を歌う場所を作った。それが『音楽堂―オデオン―』。

 歌姫はオデオンで歌を歌うようになった。いつしか国の人口が増えると共に、その場所は隣に作られた劇場へと移されたのだが。

 それからの何十年かは、決して国が安定していたとは言えなかった。

 移民を受け入れるうちに、国を乗っ取ろうとする者も現れた。天からの災害によって、オデオンが半壊したこともあった。

 最もひどかったのは、二回目にオデオンが半壊した直後。

 それは、建国からかなりの時が過ぎて、歌姫も長老も何度も代替わりをしていた。

 建国の功労者はとうに死に、多くの移民によって国は荒れた。長老の威厳がないにも等しかった。長老たちを含む長老側につく者たちと、長老たちに反発する者たちの間で、戦が起きようとしていた。いや、すでに小さないさかいはいくつもいくつも起きていた。

 そんな中にあっても、人々は歌姫の歌声にささやかな癒しと心の慰めを求めていた。

 歌姫は、懸命に歌っていた。人々が手を取り、国に平和が戻るように祈っていた。けれど、そんな祈りも空しく、人々は対抗し続けていた。

 祈り続けても好転しない状況に、歌姫は賭けに出た。

 人々は、歌姫が歌っている間だけは争いを休止し、歌姫の歌に聞き入っていた。

 そんなある日、歌姫は半壊したままのオデオンで歌い終わると同時に、オデオンでもっとも高い場所へと登ってこう言ったのだ。

「私は、争いを望みません。なぜ、あなた方は争うのでしょうか。人々は考え方に違いはあっても、妥協し受け入れ、容認し視野を広げ、そして協力し合うことができるはずなのです」

 そして、そこから飛び降りた。

 ……人々の目前で。

 それを見た人々は、後悔の念に囚われた。自分たちが歌姫を殺してしまったのだと。

 結局、その歌姫の死をうまく利用した長老側が争いの勝者となり、国に平和が戻った。歌姫の死によってもたらされた平和。

 半壊したままだったオデオンは、歌姫が飛び降りた場所に祭壇が作られる形で、修復された。それが、今あるオデオン。

 そして祭壇には『神の卵』が祀られている。オデオンに祀られており、また休息日の儀式を今では劇場で行っていることもあり、その存在を知らない者も多い。しかし実のところ歌姫は『神の卵』に歌を捧げ、国の繁栄、平和、国民の健康などを祈っている。


 そこまで話すと、カルロ長老は言葉を止めた。

「ここまでで何か質問は?」

 ティアは答えなかった。ティアは、初めて知らされる歌姫の歴史に戸惑っていた。そしてなぜか、『歌姫の死によってもたらされた平和』という言葉が、ティアの心に巣食っていた。

「何も質問がないなら、続けよう。今話したことが、本来の歌姫と現在継承されている歌姫の始まり」


 歌姫が死んだあと、歌姫不在の時期はしばらく続いた。それは、人々の心に歌姫という存在をより一層強く刻み付けることにもなった。

 一方で、長老たちは次の歌姫探しに翻弄されていた。歌姫による疫病の終息、歌姫の死によってもたらされた平和。

 人々が望む歌姫は、心を安らげるだけではダメなのだと。長老たちは密かに国中の女について調べた。

 あまり公にはされなくとも、人とは思えない力を持つ者というのは、いつの時代にも存在していた。死んだ歌姫には、どうやらその力があったらしい。それによって人々は歌姫の歌に聞き入ってもいたのだということが、調査によってわかったからだった。

 その中から選ばれたのが、その次の歌姫。選ぶ基準というのは、代々の長老にのみ伝えられるもので、たとえ歌姫でも、それを知ることはできない。

 その歌姫が歌姫として歌うようになってから、すぐに次の歌姫候補が選ばれた。それは、歌姫不在の期間を二度と作らないため。

 そして、歌姫が仮面をつけるようになったのも、この頃からだった。いつ歌姫が交代してもいいように。また歌姫が交代したことを国の民に知られないために。

 歌姫は歌姫でしかなく、それ以外の何者でもないと。そう決められたのはこのときだった。滞ることなく、歌姫の儀式が行われるように。

 今とほぼ同じ決まりごとなどが作られたのも、このときだった。今に続く歌姫は、すべてはこのときに始まったと言える。


 ティアは、息をするのを忘れたかのように、カルロ長老の言うことに聞き入っていた。恐怖にうちふるえる鼓動を隠しながら。

「歌姫の歴史は、これくらいだろう。あとは、脈々と同じことが受け継がれてきただけのこと。国民が増え、長老の数が増えてもそれは同じ。同じことの繰り返しだ。歌姫は」

 それから少し考えて、再びカルロ長老が口を開いた。

「いや、他にも違ってきている。歌姫の在位期間は短くなってきている。昔と比べるとずっと」

「それは、何故ですか?」

 喉の奥がカラカラに乾いてしまっていると、ティアは感じた。うまく言葉が出せないようなもどかしさを感じていた。

「それは、歌姫交代の儀式のため。――交代の儀式については、簡単な説明はするが直接見るのが一番だ。そう遠くない未来に、それは行われるだろう。歌姫の力が強いうちに、その強い力を継承するように、次に交代する。それらすべてが滞りなく行われるように、次の歌姫が覚醒すると同時にこうやって更に次の歌姫に知識を与える」

 カルロ長老の言うことは、わかるようでわからない。うまくはぐらかされているようにティアは思う。


 そのあとも、しばらくはカルロ長老が歌姫について話していたのだが、ティアには結局理解することができなかった。もちろん話は聞いていた。理解できないというより、理解したくないという気持ちが働いたのだろう。

 それほど、ティアの心に深く突き刺さり、狂気を引き起こすようなものでさえあった。ティアは歌姫候補に選ばれたことをうらみ、何も知らずにこれまでいた自分を後悔した。しかし、いまさら逃げることはティアにはできなかった。カルロ長老の言うように、ティアは受け入れるしかなかったのだ。すべてを。呪われているとさえ思える自分の人生を。

 それでも、ティアは一つだけ鮮明に覚えていることがある。覚えているというよりも、頭から離れていかない。そのカルロ長老の言葉が。

「歌姫は、歌姫の自害によって次の歌姫に交代することになる。それが歌姫交代の儀式である」

 鮮明に頭に残る『自害』という言葉。

(知らなければ良かった。知りたくなかった)

 頭の芯から、そして全身が冷えるのをティアは感じた。

 恐怖。前日から休む間もなく増殖する恐怖。前日のように気を失うことはなかったが、ティアの心を蝕むには十分すぎるほどの恐怖だった。


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