第1章(1)

 しっかりとした足取りで歩く老人と、老人を少し追いかけるように小走りになる少女が向かう先から声が聞こえてくる。女性の歌声のようだった。劇場の薄暗い廊下を進めば進むほど、その歌声ははっきりと聞こえるようになってくる。時に高く、時に低く、そして少し早い口調、そういったことがわかるくらいには近づいているようだった。

 大きく曲がった先に光が差し込んでいるのが見えてきた。少女は顔を少し上げた。たぶん、そこが入り口であろう。少女の鼓動は高鳴り、よりいっそう緊張してきているかのようだった。

 ふと老人が立ち止まった。あと数歩で光の差し込む入り口が見えそうだった。少女はそれに気づくと、自身も慌てて立ち止まる。

「ガデス長老、どうかされましたか?」少女は尋ねる。「先へ行かれないのですか?」

 ガデス長老は少し考え込むようなしぐさをしたあとで答えた。

「ティアが歌姫の儀式を見るのは初めてだったかな。たしか子供のころには見たことがないと言っておったの。ゆくゆくはお前も彼女のようになるのだ。しっかり儀式を見ておくんだよ」

 それだけ言うとティアの反応を見ることもなく、ガデス長老は再び歩きはじめた。光の差し込むあの入り口へと。ティアと呼ばれた少女が初めて見る儀式が行われる場所へと。長老から少し遅れてティアも覚悟を決めたかのように、前をしっかりと見すえて歩きはじめた。そして二人は光の中へと入っていく。


「あ……」

 入り口をはいったと同時にティアは思わず目を閉じた。廊下の薄暗さに慣れた目に、外の明るい光はまぶしすぎた。少し待ってからうっすらと目を開けた。徐々に目は外の明るさに慣れ、ティアはそっと目を開いた。そのあいだも歌声は途切れることなく耳に届く。

 ティアが立っている場所は、中央にある舞台を扇状に取り囲むようにある階段状につくられた座席の、その一番下だった。

 中央にある舞台は、ティアが立っている場所よりも一段高くなっている。そこには長い袖と足元まで覆う長く白い服をまとった人がティアに背を向けて立っている。歌っているのはその人だろう。腰ほどもある長い髪と、頭には陽の光を明るく反射するかぶりもの。ティアたちから見て舞台の一番遠い場所にいる歌姫のことは、それ以上はわからない。

 座席にはところ狭しと人々が座っている。ところどころに台があり、半透明の碧い石のようなものが置かれている。それが歌にあわせるように淡く光って見えるのだ。もしかしたら陽の光が反射しているだけなのかもしれない。

「すごい……」

 ティアは思わずと言ったようにつぶやいた。その声に振り返ったガデス長老がティアに話しかけた。

「ティア、よく見よ。舞台に立つ女性、彼女こそが歌姫。のちのお前じゃ」

 ティアはその言葉に小さく頷くと、再び舞台に立つ人へと視線を向けた。と同時に、その歌姫が歌いながらティアたちのほうへと体をひるがえした。陽の光が歌姫の顔を真っ白に照らしていた。

(顔が真っ白。表情も何も読み取れない)

 しかしティアはその顔に違和感を覚えた。

(本当に、……顔?)

(よく見えない)

 ティアは、何かわからない恐怖が背中を這いあがっていくような気がした。

「長老、あの方の顔って」

 すべてを言わなくとも、長老はティアの疑問を理解したらしい。

「あれは顔に仮面をつけておる。ここからだとわかりにくいがの。歌姫が誰であるのかなど、国民が知る必要はない。歌姫は歌姫であり、それ以外の何者でもないんだからの。顔など、必要ないんじゃ」

 ティアは長老の言葉に、言いようのない不安におそわれた。

(顔が必要ない? 私は、私。私の顔は、私の顔。顔が必要ない私は、いった誰になるの? それが歌姫?)

 歌姫が何かなどと深く考えもしなかったティアは、今まで知らなかった事実にわけがわからなくなる。

(怖い。私が私でなく、歌姫になることが。なぜ私が選ばれたの? なぜ、私はここにいるの?)

 ティアの顔から血の気がひいていくのを、ガデス長老は気づいていながら何も言わなかった。徐々に視線もうつろになり、体が小刻みに揺れ始めた。そして歌姫と同じくらいの長さに伸ばされた髪にそっと触れたあと、ティアはその場に倒れた。


 ティアが目を覚ますと、そこは自分の部屋の寝台の上だった。視点が定まらないままに顔を動かし窓の外を見れば、太陽が山の向こうへと沈もうとしているのがぼんやりと見えた。窓際に置かれた燭台には火がつけられているようだが、外の薄明かりのほうが明るいほどだった。またゆっくりと顔を上向きに戻すと、ティアはぼんやりと天井を眺めた。くすんだ灰色をしているはずの天井は、薄暗がりの中では、黒く見えるだけだった。

「なんで」小さくティアが呟いた。「私、……歌姫」

 なぜ自分の部屋で寝ているのかわからないようだった。そして小さい声でゆっくりと続けた。

「明るい光。たくさんの人。光るスフィア。真っ白な顔」

 それだけ言うと、ティアは両手で顔を覆った。ため息が、両手の隙間からこぼれ落ちた。

「……歌姫は歌姫。人であり、人ではない。歌姫以外の何者でもない……」

 かみしめるような呟き声。それはすぐに小さな嗚咽へと変わっていった。

 嗚咽がおさまり、ティアが再び窓の外を見れば、太陽は山の向こうへとすっかり沈んでしまった。闇に包まれた部屋の中で唯一、窓際の燭台の火が周りをぼんやりと優しく照らしていた。

 ティアはようやく寝台から抜け出すと、燭台を手に取り、寝台が置いてあるのとは反対側の壁際へと歩み寄った。そこには卓の上に置かれた鳥かごに入れられた、一羽の鳥。燭台の灯りだけでは色の判別が難しいが、頭の黒から尾の濃い青へと色の変化が美しい鳥である。

「ノア」

 ティアは鳥に話しかけた。

「今日、初めて休息日の儀式を見たわ。とても美しかった」

 ゆっくりと、独り言のようにノアに話し続ける。

「歌姫も見たの。私、歌姫になるためにここにいるのに、歌姫を見るのは初めてだった。でもね、とても辛くなってしまった。ノアは知っていた? 歌姫は仮面をつけるんですって。のっぺりとした白い仮面。歌姫には、顔なんて、必要ないって。私、そんなこと知らなかった」

 ティアは顔を伏せると、床を見つめて深くため息を落とした。

「ねぇ、ノア……」

 次の言葉をつむぐ前に、ティアは口を閉ざした。木でできた扉の向こうから、かすかに物音が聞こえたのだ。

 ティアは街外れに作られた塔の一番上にいる。歌姫候補は代々この塔で過ごすのだそうだ。そして歌姫候補であるがゆえに、ティアは自由に塔から出ることはできない。その代わり、塔に入ることができる者も限られていた。ガデスをはじめとした長老たち、ティアを世話するために塔の階下に住んでいる女くらいのものだった。

 ティアは息をひそめた。じっと耳をすませば誰かが階段を上がってくる音が聞こえる。その音が扉の前で止まると、外から扉が叩かれた。

「ご飯、ここに置いておきます」

 それは階下に住む女の声だった。しかしティアの返事を待たずに扉の前から離れたらしい。今度は階段を下りていく音が聞こえてきた。

 扉の外から何も聞こえなくなってようやく、ティアは息をひそめるのをやめた。

「ノア、私はどうしてここに閉じ込められているのかしら。彼女は部屋をきれいにしたり食事を運んでくれるけれど、必要以上のことは話さない。それになんだか私のことも見ないようにしているみたい。ここには彼女と私しかいないのに。ここには、私以外に彼女もいるのに。それなのに私は孤独だわ」

 ティアは悲しげにノアに話しかけ続ける。ノアはじっとティアを見つめて、話を聞いているように見える。

「ノアは私にとって唯一の友達だわ。あなたがいなかったら……。私はきっと、ここでの生活に耐えられなかった。歌うのは嫌いじゃなかった。でも最近はよくわからなくなってきたの。ここに来てもうどれくらい経ったのかしら。もうずっと長い間、私はひとりぼっちだわ」

 ティアの頬を一筋の涙が伝い落ちた。


 この塔へ連れられてきたばかりの頃、ティアは一人でいることが寂しくてたまらなかった。それまでは、母であるアルテイシア、妹のノアと三人で暮らしていた。父は幼い頃にいなくなってしまった。母が言うには旅に出たのだと。もともと旅人だった父は一ところに留まることは難しいと、悲しそうに笑っていた。父に関する記憶はほとんどない。ノアは父が外で作った子供だと聞いた。父がいなくなる直前、アルテイシアがノアをひきとったのだった。母親違いとはいえ、ティアとノアは本当に仲の良い姉妹だった。何をするにも、いつも二人一緒だった。二人の間にはいつも笑いが満ちていたほどに。

 だからこそ余計に、ティアがここへきた当初は一人きりでいること、部屋にひろがる静寂が恐ろしく、そして悲しかった。

 そんなティアの様子を見た長老が、寂しさをまぎわらせるために鳥を飼うことを許可したのだった。人間の友人を作ることはできないが、鳥であればいいだろうと。そしてティアはその鳥に、大好きな妹の名前をつけた。本当の妹に話しかけるように、ティアは鳥のノアに心のうちを話し続けてきたのだった。


 しばらくノアに話しかけたあと、ティアはそこを離れた。扉の前に立って外の様子をうかがったあとで扉をそっと開けて、外に置かれた食事を手にした。木でできた一枚の板にのせられた食事は、パン、スープ、ヤギのミルク、そして焼かれた魚。それはごく普通の食事だった。歌姫候補だからといって豪華な食事が出るわけでもない。どの家庭でも普通に食べられているであろう食事だった。

 板を壁際の卓に置くと、窓際の燭台も卓の上に移動させ、ティアは食事を始めた。すぐ横に置かれた鳥かごにいるノアに話しかけながら、ゆっくりと食べる。ときどき、パンを鳥かごのすきまから差し出してノアに食べさせた。

 ノアの世話だけはすべてティアが行っていた。エサはティアの食事を少しずつ分け与えていた。

 食事を終えると、空になった食器をのせた板を扉の外に置く。そして燭台を寝台のそばに置くと、火を消した。

「おやすみ、ノア。明日がすばらしい日でありますように」

 ノアに声をかけると、ティアは寝台にもぐって眠りについた。


 特別、今日という日がすばらしかったわけではない。毎日は変わらず単調で、孤独だった。それでも毎晩祈らずにはいられなかった。

『明日がすばらしい日であるように』

『明日こそすばらしい日であるように』


 その夜、ティアは夢を見ていた。

 幼い姿のティアは、今よりもずっと髪が短くて、ちょっとした体の動きに合わせて大きく揺れていた。そばには同じ年頃の少年がいて、一緒に遊んでいるようだった。けれど、少年の顔だけは何度見てもわからない。彼を呼ぼうと大きく口を開いて、けれど名前は聞こえない。それなのに、確かに幼いティアはその少年の名前を呼び、彼はそれに答えるのだった。

 二人は小さな野原にいた。周りを林に囲まれたその野原には、黄色い花が咲き乱れていた。その花の間をぬうように二人で走り回る。けれどもいつしか疲れきってしまったのか、野原と林の間のくさむらで寝転がる二人。

 うとうとして視界がぼやけてきたころ、ティアを呼ぶ男性の声が聞こえてきた。懐かしいような、聞いたことがあるような、そんな男性の声だった。

――ティア、ティア。起きなさい。

――やーよ。まだねむたいもの、もうすこしだけ、ねかせて。

――ティア、起きなさい。

――んー、もう少しだから。……お父さん……。


「……ア、ティア」

 聞き覚えのある声が、再びティアの名前を読んだ。低い、少ししわがれた声。

「ティア、いつまで寝ておるのじゃ」

 けれど、その声は懐かしい声とは違って。

「ティア!」

「……ん……」

 少しどなるような呼びかけに、ティアはようやく目を覚ました。ゆっくりと目を開き、乾いた目を何度もまばたきさせる。そして、ようやく目が慣れ、しっかりと目を開いた。

 窓の外を見れば、朝がきていた。しかしいつもよりずっと暗い。太陽がまだ姿をあらわしはじめたばかりの時間。ティアがいつも起きるのは、もう少し太陽が高い位置にきてからだった。こんな早い時間に起こされることは今までなかった。

 その状況が理解できなくて、ティアはぼんやりと太陽を見ていた。

「ティア」

 もう一度呼ばれた声で、ティアようやく声の主へと視線を向けた。そこにいたのはガデス長老だった。驚いたティアは慌てて体を起こした。早朝だというのに、ガデスは普段と同じ格好をしている。

「長老、おはようございます」

 ティアがしっかりと目覚めたことに気がついたガデス長老は、少し眉をしかめたあとで口を開いた。

「ティア、今日は早朝の儀式を見に行く。わしは下におるから、急いで支度をするんじゃ。朝の食事の時間までには戻れる」

 それだけ言うとガデス長老は身をひるがえして部屋を出て行った。階段を下りる音が聞こえていたのも少しの間。すぐに聞こえなくなった。それを確認したティアは寝台から抜け出すと、外へ出る準備を始めた。部屋の片隅にかけられた外出着に着替えると、その横にかけられた大きな布を手に取った。対角となる二ヶ所に輪が縫いつけられたその布の、輪を持って三角形に折って羽織る。そして二つの輪を重ねて、片手で握った。一般的な肩掛け。

 それから寝ているノアにそっと声をかけた。

「ノア、ちょっとだけ行ってくるね。朝の食事までには戻れるみたいだから。ぐっすりおやすみ」

 木の扉を開けると、階段は真っ暗だった。明かり取りのない階段は昼間であっても薄暗い。片手を壁にあててゆっくりと下りていく。

 らせん状の階段をしばらく下りると、うっすらと光の差し込む場所が見えた。そこは階段を下りきった場所で、どうやら階下の部屋に通じる扉が開いているらしい。そのまま部屋に入ると、ガデス長老が椅子に座っていた。

「お待たせしてしまいました。すぐにでも出られます」

 ティアが言い終える前にガデス長老は椅子から腰をあげ、黙って外へ続く扉へと歩きだした。ティアも慌てて後を追いかける。


 ガデス長老が向かったのはオデオンだった。昨日も足を運んだ劇場の裏手に、オデオンはある。昨日のような儀式は広い劇場で行われる。オデオンは市民にもあまり馴染みのない建物だった。

「ここで何があるのですか?」

 オデオンへと入りながら、ティアはガデス長老の背中に向かって問いかけた。

「毎朝、歌姫はここで早朝の儀式を行う。この国が永遠に栄えるようにと。出るのは長老だけだから、国のものは知らんだろう。だが、歌姫にとっても、この国にとっても、大切な儀式じゃ。お前が歌姫になったら、お前が儀式を執り行うことになる」

 ティアに振り向きもせずに説明する長老の話が終わる頃には、半円形に作られた階段状の座席の中ほどにある出入り口にいた。

 座席の一番下に長老らしき人々が並んで座っているのが見えた。ガデス以外の長老が全員、そろっているようだった。

 劇場よりもずっと狭いそこは、半円の中心にやはり半円の舞台があった。その後方、少し高い場所に祭壇のようなものが設置されているのも見える。ティアがオデオンに入るのは、初めてのことだった。中央には昨日と同じであろう歌姫。そこには長老しかしないというのに、昨日と同じように顔には仮面をつけていた。縦に長い真っ白な仮面には、目と口とおぼしき三ヶ所に、細長く切れ目が入っているだけだった。切れ目の奥は暗く、目も口も全く見えない。それを見たとたん、ティアは軽くめまいがした。昨日と違うのは、頭にかぶりものをしていないところだけ。

 ガデス長老は他の人たちの中央に空いた席に腰をおろし、ティアは一段高い席に腰をおろした。

 全員揃ったのを確認したのか、歌姫は軽くお辞儀をすると手を空に向かって広げた。そして昨日とは異なる歌をゆっくりと、時に早くつむいでいく。すると、座席の間にいくつか置かれたスフィアが静かに淡く光を放ち始めた。しかしティアはそうなって初めて、スフィアが置かれていたことに気がついた。それはとても不思議な光景だった。昇りはじめた太陽の光を反射しているようで、そうではないようだった。スフィアそのものが光を発しているにちがいない。


 歌姫は短い歌を三曲うたいあげると、手を握りしめて長老たちに向かって軽くお辞儀をした。すぐに後方の祭壇の下あたりにある扉の奥へと姿を消した。

 歌姫の姿が消えると、長老たちは集まって小声で何ごとかを話しはじめた。ティアにもれ聞こえてくるのは「覚醒」とか「交代」とかそんな言葉。ときどきティアにも視線が送られるので、ティアについて何か話しているらしいと、ティアは感じた。

 それもほんの少しの間。ガデス長老が「今日もいつものように」と声高に言えば、ほかの長老たちがうなずいてオデオンから順番に出て行った。最後に残されたのは、どうしたらよいかわからないティアと、どこか満足げなガデス長老だった。

「朝の食事の時間になる前に帰ろうかの」

 ガデス長老の言葉にティアは小さくうなずくと、ふたたびガデス長老のあとについて塔へと帰っていった。

 帰り道、ガデス長老はずっと無言で、何かを考えているようだった。ティアは歌姫の姿を何度も思い出していた。忘れようと、せめてその日がくるまでは忘れていようと、どこかでそう思う気持ちがあるのに。忘れようとすればするほど、頭の中に仮面をつけた歌姫の姿が思い浮かんだ。

 ティアは両手でそっと自分の体を抱きしめた。ティアの心に芽生えた『恐怖』から逃れようと。

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