第63話 ゼンマイ仕掛けの私


この仕事になった時から服装を変えた。強そうな服を着るようになった。ふわっとしたスカートや淡い色のシャツは避けて白のシャツや濃い色のジャケットかタイトスカート、パンツで全身を固めた。クライアントに舐められないように、服装には油断をしなかった。重要な商談がある日はメイクも普段よりは丁寧にする。特にアイラインをしっかり仕上げる。交渉の時は目元が活きると信じているからだ。


昔、先輩が「交渉のここぞという時は、相手の目を見て絶対にそらしちゃいけない。相手の目をまっすぐに見て」と言っていた。当時は、それがどのような意味を持つのかわからなかった。でも、今はわかる。最終的に営業でクロージングができるかどうかがきまるのは気迫だ。「ここで負けては帰れない」と思い込んで商談に挑む。それほどの気合を入れる。朝は、バナナを食べて、普段よりも多くカロリーを取る。マラソン選手が試合前にパスタを食べるのと近いかもしれない。


ときには気持ちが乗らないこともある。特に苦手なクライアントの時は尚更だ。苦手で、落としてはいけない案件の時は尚更気が重い。一週間前から気分が晴れない。

当日まで大丈夫だったのに「ああ、今日は駄目だ。いきたくない」と思う時がある。朝起きた時はまだわからない。出勤途中でなんとなく「そんな感じ」がしてくる。そして、オフィスに出社すると「ああ、やっぱり今日は駄目だ」と思う。そうなってしまうと、なかなか動き出すことは難しい。酔っ払った時に、足腰が立たなくなるように、心に馬力が効かない。そんな時は諦めて、デスクに座り、雑用をする。名刺の整理や経費精算、案件の進捗管理をする。あるいは、普段は飲まないレッドブルを読む。周りの同僚たちが果敢に営業電話をしているのを見て、鼓舞されることもある。案件までになんとかエネルギーをチャージする。時計のゼンマイを巻くように。固まった心と筋肉をほぐして、なんとか戦いを続ける。ときに、ゼンマイどころか心臓を万力で締めているような気持ちにもなるけれど。


たまにチームでの仕事に憧れることがある。営業は1人だ。チームとしての営業はいても、担当と戦うのは私だけ。失敗は私の責任だし、意思決定も私にかかっている。もちろん上司に相談はできるが上司は上司だ。対等な相手ではない。先日はある案件の対応で4時まで会社にいた。4時まで仕事をするのが辛いのではない。一人でオフィスにいることがとてもつらかった。家で仕事をしていたならば、あんな心境になることはないだろう。私の車は1人用だな、と思う。ゼンマイを回すのは自分でしないといけないし、ピットインも1人でしないといけない。コース上では一人だ。たまに周りの人たちが神輿や戦車で走っているのを見て、自分の車はブリキのように思えてくる。身軽だけど、ゼンマイ仕掛けだ。ゼンマイはまき続けないと動かない。

仕事で失敗をした時は家にそのまま帰らず、近所を散歩する。幸い治安の良い地区なので一人で歩いていても危険は少ない。月光にてらされながら戦闘服の1つであるヒールを鳴らしながら夜道を歩く。


通った中学校の脇を通る。中学校時代に輝いていた自分が見える。学園祭でリーダーをしていたあの頃。未来に何の不安もなく、無敵だったあの頃。あの頃をおもいかえして、あの頃の自分から力をもらう。踏ん張れ、と自分に言い聞かせる。昔からずっと聞いている音楽をiPhoneで聞く。周りに人がいないのを確認して、少し鼻歌を歌う。笹川美和の歌声が響く。ときにはその音楽を聞きながら寝ることもある。朝にはゼンマイが巻かれているように、と。

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