第59話 祭りのリズムとダンス


祭りのある町に生まれた。そこでは、祭りが日常だった。祭りが終われば「あと364日で祭りだ」と翌年の祭りを楽しみにする。「もう少しで祭りだね」「来年の祭りは参加されるの?」と日常の会話は祭りを中心に交わされ、当日は会社や学校も休みとなる。


祭りには、踊りが欠かせない。そして、リズムが欠かせない。太鼓のリズムは横隔膜さえも揺らし、大地を響かせる。


ねぶたの「ラッセーラ」、阿波踊りの「ヤットサー」、神輿の「わっしょい」、他に祇園も天神も掛け声がある。リズムがある。そして、舞がある。祭りはそもそも神への感謝や祈りのものだった。ゆえに、神への憑依やあるいは神の前の共同台の儀式として踊りが踊られた。すわなち、自我を捨てる踊りであり、あるいは、共同を示すための踊りであった。


踊りは、天照大神を天岩戸から顔を出させた。踊りは神をも躍らせるのだ。


そんなリズムは私の体内の遺伝子に深く刻み込まれ、あの太鼓の音を聞くと、ふっと自分が幽体離脱するように、どこか別の世界に身体が持って行かれる気分になる。きっとあのリズムで私は日常から脱するのだろう。


でも、そんな私も、ある時から踊らなくなった。きっかけはシンプルだ。体調を崩したからだ。


それまで私は「祭りで踊りを辞めるくらいなら死んだほうがましだ」とまでも思っていた、本気で。しかし、実際に体調を崩してしまうと、「踊りたい」という気持ちは全く消えていた。人間は自分の死に向き合うと、そこで舞を踊ることはできない。踊りは日常を元に産まれるものであり、日常のない世界では非日常の踊りは成り立たない。


それから私はつきものが落ちたように踊りを踊らなくなった。なんだかお遊びにも思えたからだ。踊りは自分の生命を司るものとさえ考えていたのに、自分の体力の欠如の前には踊りさえも意味は持たなかった。


そして、踊りを踊らなくなり10年が経った。ある時、私は別の地方の祭りに参加した。そこには、私が昔に感じていた踊りのリズムがあった。太鼓があり、笛があり、掛け声があった。その時に、私は、まだ身体が浮遊するのを感じた。あの踊り狂っていた日々の熱さが身体に戻ってきた。そして、それまで考えていた仕事の悩みや恋人とのいざこざは全て吹き飛んだ。私は思わず、その踊りに参加した。その時に、私はその瞬間だけをいきていた。10年ぶりの感覚だった。


そして、私は悟ったのだ。踊りは、日常の上になりたつハレ(非日常)のものだが、同時に日常はハレとしての踊りを欲していたのだ。踊りは日常を求め、また日常は踊りを求めていた。


そうして、私はようやく祭りを日常と共存させることができた。祭りは麻薬のように日常をむしばむ。若いころの私の日常は祭りに侵されていた。10年の日常があり、やっと私の日常は祭りを押さえ込むことができた。日常があって、祭りがある。祭りだけでも駄目だったのだ。日常だけでも物足りなかったのだ。やっとバランスを取ることができた。


そうして私は祭りのリズムを手帳に書き込んだ。

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