Ⅷ 術式侵入

 雨雲が、空を覆っていた。雨に打たれた大地は泥に変わってゆく。街の中と違って舗装されていないここは少し歩きづらい。そんな景色を憂鬱そうにみて、小さく桜色の唇を開く。


「一雨来そうね。……魔力を探すのが難しくなる」


 リコリスは多重作業マルチタスク特有の気だるさを持って呟く。いつもは鋭い眼孔を放つ漆黒の瞳もどことなくぼんやりしている。何しろ今は四つの術式操作なんて生易しいといえるぐらいの離れ業をしているのだから。

 そんな幼なじみを横から見下ろしたクロードは勤めていつものように、冗談めかして言う。


「でも、やるんだろ? だって」

「そうよ。私は、神子だもの」

 答えだけは早く、しっかりと返ってきた。

 まるでそれだけが、自分の存在意義であるかのように。


 単一の存在意義しか持たない者は恐ろしく強い、挫けてしまったら後がないからだ。彼女の師が生前言っていた言葉が、ふと脳裏をよぎる。リコリス・インカルナタは、笑ってそれを受け入れる。


(そう、私には後がない)

 けど、それすらも今の自分には痛快だった。術式操作の疲れによる、一時的な精神の高揚だったのかもしれない。けれど、今はどうでもよかった。

 魔術の詠唱というのは、もとより自己暗示。

 それで自分に酔えるのなら、問題など見つからない。見つかるはずがない。


「――Befehlげる。汝ら契約に従い、その力を示せ」 



 エレアノール・スコット少尉は予想以上に作戦がうまくいったことに、顔を弛めずにはいられなかった。 奴隷取引なんてやっている商会が国に立ち入られようとすると、援助している貴族から圧力があったり、商会が傭兵を雇い戦いになることも珍しくはない。

 今回においては前者はほとんどなく、後者においてはあったにはあったがエレア達軍の不戦勝。 


 鼻歌ぐらいは歌いたくなるほどだったが、それはまずこれからの用件と鼻水混じりの泣き声でかき消される。

 目の前のまったく可愛げも飾り気もない机に座り、めそめそと泣いているのはパレナ商会の主、ルロイ・ライオネル。


 多重作業マルチタスクを駆使し、数分もかからないうちに組み上げられた幾重もの罠。

 パレナ商会の瓦解した瞬間は短かった。


 軍の突入と同時に逃げ出そうとしたものは、商会の敷地を囲うように編まれた魔力による壁によって阻まれた。 魔力純度が高すぎる故に金色に輝く壁は異様だった。


 数日前からかけられた感染型の術式によってパレナ商会とつながりのある者はエレアがライオネルに投げつけた書類にすべて記されている。それを見た瞬間、彼は自分が完全に負けたことを思い知ったようで、机の上で泣き崩れてしまっていた。

 この分だと、エレアがたどり着くまでに彼はかなりの恐怖を味わったことだろう。自分がじわじわと追い詰められていく、何年も積み重ねてきたものをたった数日で――その恐怖は、彼自身しか知ることが出来ない。

 エレアは泣いているだけで何もしない彼を――こういう人間は彼女は嫌いだ、特に男の場合――苛立たしげに見つめ、


「さて」

 わざと靴音を鳴らして机の前に立つ。

 ライオネルはあからさまに怯えた表情で目の前に立つ少女を見つめる。


 エレアノールはたれ目気味な目で精々威圧的に見えるよう睨みつける。

 この姿は確かに憐れみを誘うが、もちろん彼女は容赦はしない。それは軍人の責務である前に彼女の正義感が許さないからだ。奴隷がどうとか、それ以前の問題だった。彼女自身もそれは普通の人間に抱き得ない感情だと理解はしているし、自分の正義感というものが誰にも理解されることがないと知っていた。


 目の前の彼が怯えているのは財産を失うからか、それとも自分の部下や家族の人生を奪った罪悪感からか。何にせよ、それは自業自得と言うもの。

 調査によれば彼は礼儀正しく、人格的な人間だったという。それでも人を売り物にするという商売をしていたのは、彼ら奴隷が「人間ではない」というより「そういう存在だとは思いもしなかった」という彼の意識の欠如のせいだ。


 そんな彼が自分の大嫌いな人間に重なって、エレノールは容赦なく尋問する。

 幸いなことにこの男は彼女の「大嫌いな人間」ほど打たれ強い人間ではないようだから、すぐに白状することになるだろう。


「奴隷の隠し場所について、そろそろ吐いて下さいます?」

 ところが彼は鷲色の瞳を動かし、小声で呟いただけだった。

「……神子様を呼んで下さい……お伝えしたいことが」


 期待していた答えとはまったく違う回答だった。というよりかは、思いもしなかったような予想外の返事だ。けれど、瞳に怒りが宿った。リコリス・インカルナタの政治への貢献も、彼女はもちろん知っていた。小さな拳が異常な力を持ってライオネルの机を殴りつけた。

(よりにもよって、こいつ……!) 


「それは四年前、お姉様がアルバート第二王子殿下に自ら奴隷禁止法を奏上なされたと知っての言葉ですか!」


 自らリコリスの願いでもあった法を破ったにも関わらず、図々しい発言をした彼にエレアノールは本気で激怒していた。

 あまりの剣幕にライオネルは言葉に詰まる。様子を見に来た部下を無視して続けた。また癇癪を起こさないように自分を諫めながらだったが、眼光の強さはまだ収まらないらしい。彼はおびえきった目でエレアノールを見つめ返すだけだった。


「言いなさい。そうしたらお姉様――インカルナタ大佐に取り次ぎます」

 低く問うとライオネルは唾を飲んだ。

「国境線をサマランカに少し抜けた洞窟の中。関所から北になります」


 ライオネルは扉を開けてリコリスを呼ぶと思っていたが、彼女が次にしたのは軍服から栞を出すこと。

 怪訝に思い声を出すよりはやく、エレアノールは努めてにこやかに呟いた。――せいぜい、お姉様の恐ろしさに恐怖すればいい、と思いながら。

「――聞こえていまして? お姉様」


「ええエレアノール少尉、ご苦労様。こちらは今から目標に向かうわ。そうね、馬だからあと数分ってとこかしら」

 金色に薄く光る栞にリコリスは返した。それに組み込まれているのは通信用の術式。先ほどからすべて、二人の会話はこれを通して聞こえていた。


 通信を一時的に切ると隣のクロードに場所を伝える。

 国境の森の中は広い。あまりの広大さに迷いの森とも呼ばれるこの森は、リコリスの索敵術によって完全な地図が作られていた。リコリスによってインクで清書されたこの森の地図は今持っているクロードも息を呑むほどの精密さだった。


「大丈夫か?」

 クロードは短く聞いて、リコリスはいつも通り強気に返す。ただひとつ、その強気を後押しするのは、ここで負けるはずがないという魔術師としての自己暗示、そして彼女自身の誇りだった。

「今ので使っている術式はあと二つだし、目的に着くまでに追跡術式は

 そんなリコリスにクロードはそうかそうか、と何故か父親のように頷いた。


「馬の方も、大丈夫なんだな?」


 冷たい雨の中、彼女の顔色が青くなる。クロードはそれを寒さのせいだとは思っていない。

 思わずぎゅっと握り締めた手綱に馬は鋭く反応した。 その馬にもリコリスは過敏に反応する。小さく聞こえた悲鳴はあえて触れないで置く。


「ばばば、馬鹿っ。思い出させないで!」

 黒髪を翻して馬を走らせたリコリスにクロードは苦笑して追いかけた。



「そんな馬鹿な……! あんなに遠くにいて、二重の術式など神子様といえど出来るわけがない! 座標の入力だって、現地にいなければ機能しない!」


 思わず立ち上がって叫ぶ彼に、エレアノールは表情を変えずに答える。


「付け焼き刃程度の知識はあるようですわね。確かにあの術は座標の入力が必要。 座標はその日その時の精霊の様子によって入力方法が異なる」


 窓際に行くと、未だに立ちはだかる金色の壁がよく見えた。あきらめの悪い商人がまた一人連行される。

 エレアノールは商会主の視線が自分だけに向いていることを感じ、振り返って出来の悪い子供を見るように微笑んだ。


術式崩壊スペル・アウトをご存知?」


 ライオネルは怪訝そうに答える。

 一見この質問は無意味に思えるからだろう。


「相手の術式に無理やり侵入し、制御を妨害することによって起きる。術として体を成さない為に起きる崩壊現象」


 桜色の魔術師は頷く。

 リコリス・インカルナタの魔術の才能の異常性。もはや彼女の才能は神子だから、と簡単に片付けられる話ではない。あのくそがつくほど杓子定規な教会ですら、彼女の才能を「歴代神子最強」と認めた。けれど若干十六歳の彼女は弟子を取ることはせず、気ままに内密に、魔術の研究に勤しんでいる。故に彼女の魔術が何たるか、を知る人間はそう多くはない。エレアノール・スコットはその少ない人間の一人だった。そんな彼女の才能に――。


(なんというか――そう、ぞくぞくする)


 古来、魔術というのは『人間を越えること』を目的にした文学だったという。

 不老長寿に金の錬成。それら未だに達成できていないもの、解明されたものの技術を理解したものを『境界を超えた者』と呼び、それを目指していたため魔術は発達した。誰もだ『境界を越え』ることを望み、魔術の高みを目指し、そして例外なくすべての魔術師は破滅した。

 誰も到達できないそれをいつしか魔術師達は追い求めることをやめ、『境界を超え』ることを目的としてでなく、ただ魔術の発展のための研究を始めた。


 そんな、今では笑われるだけの存在となった『境界を超えた者』。

 でも、彼女――リコリス・インカルナタならなれるかもしれない。


 そう思わせてしまう程の才能が、リコリスにはある。それが魔術師であるエレアノールがリコリスに入れ込む理由の一つ。

 そんな喜びを感じながら、エレアノールは聞く。


「では、術式侵入クラックは?」


 今度は答えないライオネルに、エレアノールはつまらなそうに視線を窓に戻して言った。


「お姉様が最近開発したものですものね。所詮商人は商人、さすがにそこまでは知りませんか」

 むしろ知っていたら驚きだ。今回の質問は単なる意地悪だ。

 視線をはずした窓の外には、未だに金色の壁。一旦手放したその壁の制御感覚が、また戻ってくるのを感じる。

 全身の魔力がその術式と難なく癒着し、またその活動を始めるのを感じながらエレアは言った。

「術式崩壊と同じく、術式に侵入する。でも中途半端な崩壊ではなく、それを完全に奪う」


 ライオネルが背後で絶句した。 

 魔術師は独自に魔力の通る血流を拓く。体内にもうひとつ神経を通すようなものだから、それぞれの血流の在り処は微妙に異なる。

 そして魔術師の使う術式は雛形となる部分意外は個々で調整することになっている。魔術の血流の所在が違うのなら、魔術師個人によって最適な術式の構築が異なるからだ。

 リコリス・インカルナタのした術式侵入はそれらの血流の場所を完全に把握しつくし、術式を推察し、主導権を奪う。そして自分の術式にあてはめ直し、そして今エレアノールに再び戻した。しかもそれを同時作業で。術者による事前の協力があったとはいえ、離れ業をやってのけたことには変わりがない。


「もうお分かりでしょうけど、今回は私が座標を入力、報告した術式を奪ったお姉様が制御していましたわ。 作戦中は私、一つも魔術を使っていませんの」

 改めて神子の恐ろしさを知った商人の表情を見ながら、満足げに呟いた。



「見つけた!」

 運動面においてはリコリスを超えるクロードは、彼女を追い抜いていち早く見つける。

 商人らしき人影を見つけたと言い残して走り去ったリコリスは


「独断専行しないっ! 待って、今のは違うの、これ以上早くは――」 

 必死で馬と戦っていた。


 今や真っ青になったライオネルは机に向かって何かを早口で呟いている。

「お姉様への伝言なら、牢で聞きますわ」

エレアノールはそんな彼に近づいて連行しようとする、


「な、なんですの!」

 その腕を恐ろしいほどの力で掴まれる。


「違う、それじゃ遅すぎる……!」

「だからなんですの!」


 必死の形相の彼に思わず怯みかけるが、強気の視線は崩さない。


「これは罠だったんだ! 私じゃない、神子様への――!」

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