第26話『夜露』

 お屋敷に戻って少し時間が経ったとき、桜さんから電話があった。

 潤井さんの罪は殺人未遂の教唆、お嬢様を誘拐及び監禁、銃刀法違反の4つになったそうだ。この中でも銃刀法違反と殺人未遂の教唆が重いようで。実行犯である名栗さんが俺に怪我を負わせてしまったからことも大きい。名栗さんと同じ罪の重さを背負うことになる。

 ただ、初犯であること。一連の出来事の発端が3年前の事件であることなど、同情の余地があるとして、潤井さんが学校に復帰できる日も遠くはないようだ。桜さんが全力を挙げて、彼女のことをサポートしていくという。

 あと、潤井さんと名栗さんの繋ぎ役となった灰色のスーツの男は、潤井家の使用人の1人とのこと。彼は潤井さんの協力者として逮捕された。罪は俺に対する殺人未遂の幇助だそうだ。


『彼女達のことは我々警察に任せてくれ』

「ええ、お願いします。桜さん、ありがとうございます」

『それはこちらの台詞だ。死傷者も出ず、潤井さんに自分の罪の重さを分からせることができた。それは真守君がいたからだよ』

「俺はただ……お嬢様のSPとして当然のことをしたまでですよ。桜さんがいなかったらこうはならなかったかもしれません。桜さんには感謝しています」

『君がそう言ってくれるなら、褒め言葉として有り難く受け取っておくよ』


 クスクスと桜さんは笑っていた。

 俺だけだったら、このような結末を迎えることはできなかっただろう。桜さん、くるみさん、未来、都築さん……みんながいたからだと思う。


『なあ、真守君』

「なんでしょう?」


 急に桜さんの声のトーンが低くなり、ちょっと緊張してしまう。


『Cherryの件は終わった。ということは、君が九条さんのSPである必要は無くなる。もし、そうなったら……私の家に来ないか?』

「桜さんの家に?」

『ああ。君1人くらいは養えるだろうし、それに……君とだったら、この先どんな関係になってもいいっていうか……その』


 ごにょごにょと桜さんは何か言っている。


「あの、もう少しはっきり言ってくれませんか? 聞こえないんですけど」

『SPをもし辞めたとしたら、私の家に来てもいいんだと言っているんだ! それだけ! 君と一緒に暮らしたいとか、そんな不埒な理由じゃない!』

「それは全然不埒だと思いませんが……」


 でも、桜さんの言っていることは理にかなっている。お嬢様はCherryから命を守るために俺をSPにした。まあ、3年前の事件の償いというのが一番の理由だと分かったけれど。ただ、そのことについても決着が付いてしまった。


『どうだ? もし、そうなったら私と一緒に暮らしてみないか?』

「……桜さんのお気持ちは嬉しいですが、きっとそれを考える必要はないと思います。これが俺の回答ですけど、それでいいですか?」

『あははっ、君らしいな。確かにそうかもしれないね』

「すみません、桜さん」

『いいんだよ。まあ、時々は君達のところに遊びに行くから。もう、九条さんに怯えられることはないだろう』

「そうですね。落ち着いたら遊びに来てください」

『ああ。そうさせてもらうよ。じゃあ、これから取り調べがあるから。また、何か情報が入ったら連絡するよ』

「桜さん、お疲れ様です。頑張ってください」

『真守君もお疲れ様。じゃあ、頑張ってくるよ』


 桜さんの方から通話を切った。

 あとは桜さん達警察に任せよう。俺が出る必要はもうないだろう。



 午後10時半。

 お嬢様から先に入っていいと言われたので、今は1人で露天風呂に入っている。色々あって疲れが溜まっていたので結構癒やされている。


「ふぅ……」


 お嬢様のSPとして働いていたこの2日間。本当に濃密な時間だった。お嬢様と出会ったのが一昨日だということが信じられないくらいだ。


「真守」


 大浴場の扉からタオルを体に巻いたお嬢様が入ってきた。


「今日のリハビリ当番は私でしょ。そのことすっかり忘れてた。一緒に入ってもいい?」

「もちろんですよ」

「じゃあ、失礼します」


 お嬢様は露天風呂の中に入って俺のすぐ側まで近づいてくる。

 しかし、今までとは違って体の震えが全くない。肌が触れそうになっているのに、恐いという感覚さえないのだ。


「真守、こうしていても恐くないの?」

「……ええ、まったく」


 俺の返答にお嬢様は驚きの表情を見せたけれど、すぐに消えてどこか寂しそうな笑みを浮かべる。


「そっかぁ。じゃあ、もう……リハビリの必要なんてないのかな」

「もしかしたら、くるみさんのように頭を肩に乗せたら症状が現れるかもしれません。お嬢様、やってみてください」

「う、うん……」


 お嬢様は戸惑うものの、俺の指示通りに俺の肩に頭を乗せる。

 しかし、それでも震えが起こったり、恐怖心を抱いたりするなどの症状は全く現れなかった。

 本当に……女性恐怖症が治ったんだ。お嬢様と肌を触れ合ってから時間は経っているけれど、症状が現れる気配すらない。


「女性恐怖症が治ったのね、おめでとう」

「……もしかしたら、今回のことで女性恐怖症と向き合うことができたのかもしれません。女性恐怖症もCherryのことも、発端は3年前の事件でした。今回のことに向き合い、決着をつけたことで女性恐怖症が治ったのかもしれませんね」


 女性恐怖症を発症させた原因である都築さんの本音が分かったのも大きいだろう。もう、恐がることはないんだと本能が判断したのかもしれない。


「これも、お嬢様がSPにしてくれたおかげですね。ありがとうございます」

「……私は真守に感謝されるべき人間じゃないって。私は真守のことを考えずに、あなたに対して償いをしたいという一心だけで、あなたの人生を狂わせてしまった」

「お嬢様……」


 やっぱり、お嬢様は俺を書店から解雇させ、自分のSPにさせたことに罪悪感を抱いてしまっているようだ。それはとても身勝手で酷いことだということは分かっている。だけど、俺は――。


「それでも、お嬢様に対する感謝の気持ちが勝ってしまいます。俺を必要としてくれることが嬉しかった。それに応えることができて嬉しかった。女性恐怖症が治ったのは、お嬢様がもたらしたご褒美なのかなって思います」

「どうして、あなたはそんなに優しいの!」


 お嬢様は俺と向き合う形になり、両肩を強く掴む。


「あなたが苦労して切り開いた道を私が終わらせちゃったんだよ! それなのに、どうして真守は私に笑顔を見せて、感謝の言葉を言ってくれるの……?」


 お嬢様は涙をポロポロと流す。

 書店を解雇させられお嬢様のSPになった背景を知っても、お嬢様に感謝できる理由。それは、


「俺は九条由衣お嬢様のSPという仕事に誇りを持っているからです。もっと言えば、お嬢様のことを守りたいと本気で思っているからです」

「真守……」

「Cherryの件についてはもう解決しました。今、お嬢様には何の危険もありません。ですが、俺はお嬢様のことをこれからも守っていきたい。お嬢様さえ良ければ、またSPとして採用してくれませんか?」


 それが俺の本音だった。お嬢様のことをSPとしてこれからも守っていきたい。それが、俺の歩んでいきたい道だ。

 俺の気持ちがお嬢様に伝わったのか、お嬢様の流す涙がピタッと止まった。嬉しそうに、それでいて照れくさそうな笑みを見せる。


「当たり前じゃない。真守は今までも、今も、これからもずっと私のSPだから。第一、真守を解雇つもりはないから」


 そう言うと、お嬢様は俺の胸に額を当てる。


「……でも、真守には何時かSPという立場とか関係なく守ってほしいな」

「そのつもりですよ」

「えっ?」

「SPとして守ることも大切だと思いますけど、それ以前に人じゃないですか。俺は人としてお嬢様を守りたいから、SPという仕事に誇りが持つことができると思っています」


 俺がそう言うと、お嬢様は俺のことを見上げてきた。顔をぽっと赤くさせる。のぼせちゃったのかな?


「え、偉そうなこと言っちゃって。真守のくせに」

「すみません……」

「でも、あなたのその気持ちはとても嬉しいよ。だからね」


 ぎゅー、っと言いながらお嬢様は俺のことを抱きしめてきた。さすがに今のはどきっとしたけど、これは女性恐怖症の症状ではないだろう。


「今夜はもう、真守から離れないんだから。誘拐されて寂しい想いもしたし」

「……そうですか。まったく、寂しがり屋なお嬢様ですね」


 俺もお嬢様のことを抱きしめ、優しく彼女の頭を撫でる。

 まさか、女性のことを自然に抱きしめられる日が来るとは思わなかった。しかも、こんな場面で。

 お嬢様のことを抱きしめると本当に温かい気持ちになる。それはきっと、お嬢様に愛情を抱いているからだろう。



 今夜はずっと離れないというお嬢様の言葉。

 まさか、ベッドの上まで離れないとは思わなかった。俺が寝ようとしたとき、お嬢様が枕を持ってきて部屋に入ってきたのだ。

 ベッドはダブルベッドよりも大きいので大丈夫かと思ったけれど、お嬢様は積極的に俺に近づいてきた。そのせいでお嬢様の髪から甘いシャンプーの香りが。


「これはさすがにまずいのでは……」

「別にいいじゃない。私がこうしたいんだから」


 そう言われると離れた方がいいとは言えず。まさか、お嬢様がここまで寂しがり屋の甘えっ子だとは思わなかった。これまでツンツンしているときが多かったから。


「腕枕、初体験」


 えへへっ、とお嬢様は腕を絡ませて、俺に腕枕をしてくる。そのせいでお嬢様の色々な部分が腕に当たってしまっている。もし、女性恐怖症が治っていなかったら、今頃逃げているか気絶しているかのどちらかだろう。

 精神的なものだからなのか、治ってしまうと何されても全然動じなくなるんだな。


「ねえ、真守……」

「何ですか? お嬢様」

「……ご褒美あげるね」


 その瞬間、俺の頬に柔らかいものが触れたのが分かった。


「真守、ありがとう。おやすみ……」


 そのまま、お嬢様は眠りに落ちてしまった。今日も色々なことがあったからな。安心して一気に眠気が襲ってきたんだろう。


「素敵なご褒美をありがとうございます」


 それだけ、俺はお嬢様のために尽くすことができたんだと思う。お嬢様からのご褒美がその証なんだろう。


「おやすみなさい。お嬢様」


 今夜はよく眠れそうだ。

 お嬢様の可愛らしい寝息が聞こえる中で、俺も眠りに落ちるのであった。

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