第14話『Sympathy』

 午後9時。

 夕ご飯を食べた後、俺は露天風呂に入る。夕方の事件で名栗さんに左脇腹を蹴られたり、外壁に背中を叩きつけられたりして結構痛いので今日は長めに浸かろう。


「いったい、Cherryは誰なのか……」


 最も怪しいのは現場から逃走した都築さんだけど、灰色のスーツの男を使う用心深さを考えると彼女がCherryなのは不自然な気がする。しかし、仮にCherryが他の人物だとしたら、どうして都築さんはあの場にいたのかが分からない。謎が謎を呼ぶ。

 ちなみに、夕食後に桜さんからメールがあった。明朝、都築さんに夕方のことについて詳しく話を聞くことが決まったそうだ。今夜中というのはさすがに無理があったか。


「真守さん」

「えっ?」


 入り口の方を振り返ると、そこにはタオルを体に巻いたくるみさんがいた。


「ど、どうしてくるみさんがここに……」

「真守さんのリハビリをしてほしいと由衣様に言われまして。同じ女性が続くと、リハビリの効果が薄れるだろうと考えているようで」

「それでくるみさんが来たというわけですか」

「はい。ええと……隣に失礼しますね」


 そう言うと、くるみさんはタオルを付けたまま露天風呂の中に入り、俺の隣まで来るとゆっくりと座った。

 お嬢様の考えは正しい……のかな? 同じ女性が続くと、その女性に対してのみ症状は段々と薄くなっていく。きっと慣れなんだろう。現に、例の事件が起こった直後から就職するまで毎日過ごしてきた未来には普通に接することができるけれど、それ以外の同年代の女性には恐怖心が薄れることはなかった。

 それにしても、くるみさんは……お嬢様よりもスタイルがいいな。そういう意味では、昨日よりも危険度が増している。


「真守さん、あの……どうですか? 緊張してしまいますか?」

「え、ええ……正直、お嬢様のときよりも」

「……そ、そうですか。由衣様よりも……」


 くるみさんは頬を赤くしながらそう言った。ただ、心なしか嬉しそうにも見える。


「真守さん。昨日、由衣様とはどのようなことをしていましたか?」

「ええと、手が触れるくらいでしたけど……」

「そうですか。では……」


 くるみさんは俺のすぐ横までやってきて、俺の右肩にそっと頭を乗せてきた。


「少しの間……こうさせてください」

「は、はい……」


 思わずこの状態を受け入れてしまったけど、これはかなりまずい状況。くるみさんの頭だけでなく、彼女のしなやかな腕や豊満な胸が俺の腕に当たっている。


「真守さんから激しい鼓動が伝わってきます」

「すみません。緊張してしまって」

「仕方ないですよ。女性恐怖症ですし……きっと、これは真守さんにとってハードなことなのでしょうから」


 それが分かっているなら、もう少しソフトなリハビリにしてほしい。あと、くるみさんの吐息が肩周辺にかかってくすぐったい。不思議だな、温泉に入っているのに寒気がしてきた。


「……実は私もドキドキしているんです」

「えっ?」

「同年代の男性と温泉に入るなんて初めてのことですし、こうして身を寄せ合うことも初めてなんです。ですから、その……私も緊張しています」

「そうですか」


 お嬢様と一緒か。普段の落ち着きからしてかなり大人っぽく感じるけれど、今のくるみさんを見ていると、僕らとそんなに歳が離れていないんだなと思える。


「でも、真守さん以外の男性にはこんなことをするつもりはありませんよ? それに、由衣様が真守さんと一緒に入ったと聞いて、私も入りたくなって……」


 色々な意味でドキドキさせるような言葉を俺の耳元で言わないでいただきたい。しかも甘い声で。

 くるみさんの方に視線を向けると、くるみさんと目が合ってしまう。その瞬間に彼女は視線を逸らすけれど、照れた表情をしている。症状が出ている今の俺が可愛いと思えるくらいだから、本当に可愛いのだろう。

 今の彼女はメイドさんではなくて、普通の18歳の女の子だ。緊張してしまうのは当たり前か。シャンプーの香りなのか、彼女からは女の子らしい甘い匂いが感じられる。それがより一層、彼女を艶めかしくしている。

 互いに言葉を発することがなくなってしまうけれど、くるみさんの心臓の鼓動が肌を通じて伝わってくる。くるみさんが緊張しているのが本当であることが分かる。俺がくるみさんを1人の女性として意識してしまうように、くるみさんも俺のことを1人の男性として意識しているのかな。

 この状態が続くと気絶すること間違いなしだ。だけど、俺から動いたらくるみさんに悪いし、どうすればいいんだ。


「真守さん」

「何でしょう?」

「……どうして、真守さんは高校に通わないのですか? 由衣様も真守さんさえその意思があれば支援すると言っていましたよ?」


 やはり、誰もがそのことに疑問を抱くよな。将来は大学の法学部に行くつもりなのに、高校に通わず就職の道を選んだ理由。


「俺の家族が亡くなった3年前の事件は知っていますか?」

「ええ、真守さんが警察に行っている間に由衣様から……」

「それなら話が早いです。家族が亡くなり、俺は叔母の家に住むことになりました。叔母一家は俺のことを迎え入れてくれたと思います。でも、俺にとっては住まわせてもらっているとしか思えなかったんです」

「何かそう思うきっかけがあったのですか?」

「……多分、突然家族を失ったからだと思います。将来は弁護士になりたくて、大学にも行きたいと思いましたけど、叔母一家にはお金を払ってほしくなかったんです。学費を気にせずに宝月学院に通っていいと言われたんですけど、どうしてもその気にはなれませんでした。高校に通わなくても、大学に行ける道があることを知っていたので」

「そこで就職の道を考えたのですか?」

「ええ。就職して家を出ることも決めていました」

「そのことを反対されなかったのですか?」

「叔母夫婦からは十分考えたことだからと了承してもらえたのですが、従妹の未来が猛反対しまして」


 俺が就職して家を出ることを告げたとき、未来は大泣きしていた。叔母夫婦によると、彼女は俺と一緒に高校に通いたかったらしい。叔母夫婦が必死に説得してくれたことを昨日のことのように覚えている。


「真守さんはそれで就職の道を選んだんですね」

「ええ。当時は自分の考えは正しくて、自分なら何とかやっていけると思っていました。ただ、俺の選んだ道は物凄く我が儘なことなんだって解雇させられて分かったです」

「どういうことでしょう?」

「俺は大学の学費を稼ぐために就職をしたんです。ということは、早ければ3年後の3月は正社員を辞めることになるんです。そんな人間を採用したいと思うでしょうか。だから、1ヶ月でも社員として働かせてくれた書店に今は感謝しているんです」


 3年後には辞めることを決める人間を、正社員として採用したいと思うだろうか。俺が面接官だったら、正社員として採用したいとはあまり思わないだろう。採用するとしても、アルバイトという形だと思う。


「お嬢様のご厚意で学校に通わせてもらったら、それこそ叔母一家への裏切りになってしまうんです。特に、泣かせてしまった未来には。まあ、SPとしてお嬢様に同行している時点で、そんなことを言う資格はないかもしれませんが」


 お嬢様の様子を見ることが第一だけれど、教室の後ろに立って授業を聞いている。板書を取ることはもちろんしていないけれど、授業内容は結構頭に残っている。俺が既に独学で勉強していた内容だからというのもありそうだけど。

「私はそんなことはないと思いますよ。従妹の未来さんは……きっと、宝月学院であなたに再会できてとても嬉しかったと思います」

「嬉しそうな顔はしていましたけどね」

「おそらく、未来さんはあなたと同じ場所にいたいと思ったんでしょうね。由衣様のSPという形で宝月学院に同行し授業を聞いても、未来さんへの罪悪感を抱く必要はないと思います」

「……そうかもしれませんね」


 だけど、お嬢様のご厚意で高校生として学校に通うつもりはない。そこだけは絶対に貫くつもりだ。

 そろそろ話題を変えよう。くるみさんに訊きたいことがあるし。


「くるみさんも住み込みで働いていますよね。18歳ということですけど、くるみさんの話だと随分と前からいるように思えます。失礼ですけど、以前に何かあったんですか?」


 今年で19歳、ということはこの春に高校を卒業してメイドになったことも考えられる。しかし、これまでの話から結構前からここで働いているように思える。

 くるみさんの笑顔は優しさの中に寂しさが混ざっているように見えた。


「……私も真守さんと同じなんです。5年前に両親を事故で亡くして。ご主人様が私の父と古くからの親友だったので、私はメイドとして住まわせてもらうことになったのです」

「そうだったんですか……」

「事故直後は悲しかったですけど、由衣様や妹様がいましたから。姉妹のように接してくれました。ご主人様のご厚意で宝月学院に通わせて頂き、先月卒業しました」


 ということは、つい最近までくるみさんもお嬢様と同じ制服を着ていたのか。メイド服姿しか見ていないせいか、くるみさんの制服姿が想像つかない。

 くるみさんも俺と同じような境遇で九条家にお世話になっているのか。自分が宝月学院に通っていたからあんなことを訊いたんだな。納得した。


「……九条家がなければ、今ごろ私はどうしていたのか想像できません。私も真守さんのように、どこかで働いていたのでしょうか……」

「……どうでしょうね。人生、何が起こるか分かりませんから。家族を交通事故で亡くしたことも、俺がSPとして働いていることも予想できなかったことですから」


 もし、あの日の体調が良かったら俺も交通事故で死んでいたかもしれないし、晴れていれば交通事故がなかったかもしれない。そうすれば、俺は今頃普通の高校生だったかもしれない。一瞬の出来事が、一生を左右する。俺は何度もそれを味わってきた。


「でも、きっと……」


 くるみさんはそう言うと、手を俺の胸に当てる。


「悔やんでも仕方ないと前を向いて生きているでしょう。それだけは絶対です」

「……そうですか」


 悔やんでも仕方ない、か。

 俺もそう思って生きてきた。それでも、3年前の事件の犯人のことを許せなくなるときがある。だけど、裁判によって犯人には無期懲役の実刑が下されている。ちゃんと法律に則って裁かれたんだと、何とか気持ちを落ち着かせている。


「真守さん」

「はい」

「……これ以上、大切な人がいなくなるのは嫌なんです。由衣様のことをどうかよろしくお願いします」

「分かりました」


 くるみさんにとって、お嬢様は妹のような存在なのかもしれない。5年間一緒に過ごした大切な家族なのだろう。


「真守さんも気をつけてくださいね」

「はい」

「……そういえば、どうでしょう? 私が側にいて少しは恐怖心が薄れましたか?」

「……あっ」


 話に夢中になっていたけれど、今はくるみさんと肌を寄せ合っていたんだった! それを思い出した途端、体がまた震え出してきた。


「顔が青くなってしまいましたね。温泉も波立ってきました。話しているときは普通でしたのに……」

「……話すことに集中すればだ、大丈夫なんでしょう」

「なるほど。真守さん、今日のリハビリはこのくらいにしましょうか?」

「そうしてもらえると嬉しいです。結構な時間入っているので、これ以上浸かっているとのぼせそうなんで」


 くるみさんに長い間、頭を肩に乗せられていたせいで症状が悪化し始めているし。これ以上入浴すると明日の仕事に支障が出る。


「それは大変です! 私はもう少し入っていますから、真守さんは早く出て水分を取ってください!」

「すみません、くるみさん。でも、くるみさんに色々話せて良かったです」

「……私もですよ、真守さん。楽しかったですよ。次はもっと長い間、一緒にいられるようにしましょうね」



 くるみさんは優しい笑顔で言ってくれた。


「では、お先に失礼します!」


 半ば逃げるような形で俺はくるみさんの元を後にした。

 今日のリハビリは……くるみさんの言うとおりハードだったな。まさか、くるみさんがあんなに俺に密着してくるとは思わなかった。くるみさんだからいいけれど、もし都築さんだったら確実に俺は襲われていたことだろう。

 でも、以前よりも女性と接することが多くなったからか、話に集中すれば症状が現れないことが分かった。それは大きな進歩かもしれない。

 こうして、SPとしての初めての日は終わった。色々ありすぎて、とても長く感じたな。明日からも頑張っていこう。

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