第1話『長瀬真守』

 4月24日、木曜日。

 俺は紺色のスーツ姿で金原かねはら駅の周辺を歩く。こんな真っ昼間から歩いているからか、周りの人からの視線が痛く感じる。


「何でクビにならなきゃいけないんだ……」


 さっきまで職場だった書店を出てから時折、文句を思わず吐いてしまう。

 ただ、時間が経つに連れ、突然の解雇というダメージは大きくなっていくばかり。そうなってしまうのも、女店長の言ったことが何一つ間違っていなかったから。

 俺は2週間ほど前に誕生日を迎えたばかりの16歳。同級生の大半は高校生として学生生活を送っている。俺も普通の家庭環境であれば、学生の道を歩んでいただろう。


 しかし、俺の場合は違った。


 3年前の春、俺は交通事故で家族全員を失った。中学に入学したばかりの俺は母方の叔母夫婦の家で暮らすことに。

 しかし、その家庭に「居させてもらっている」感覚しか持つことができなかったため、家族の一員だという自覚を一切なかったのだ。だから、叔母夫婦に学費を出してもらうのが申し訳なくて、高校に進学することを考えることができなかった。


 そんな俺だけど、将来は法曹界で働きたいという夢がある。


 高校に進学しなかったのにそんなことを考える俺のことを痛い人間だと思うかもしれない。それでも、俺は高校に進学する選択肢はなかったのだ。

 考えた末に出した結論が、高校には行かずに大学進学に必要なお金を稼ぐことだった。大学に入学するには高等学校卒業程度認定試験に合格しなければならないので、その試験に向けた勉強と両立することに決めた。

 叔母夫婦を説得し、就職活動にも苦労したけれど、やっとのことで金原駅の近くにある大型の書店で働くことになった。

 そして、入社してからおよそ1ヶ月。仕事のペースにも慣れ、社会人としてようやく生活スタイルが確立されようとしていたとき、解雇となってしまったのだ。

 目の前が真っ暗になった気がした。今はもう、どこへ行っても深い闇に落ちてゆくだけの感覚に陥っている。


「考えが甘かったってことか……」


 女店長の言う通りなのかもしれない。今から叔母夫婦に頭を下げれば、来年からでも高校に通うことを許してくれるかもしれない。


「とりあえず、家に帰ろうかな」


 自由にできる時間が大量にできたからといっても、どこかで遊ぶ気にはなれない。家に帰って今後のことを考えよう。。

 気づけば、人通りの少ない閑静な住宅街の中を歩いていた。一歩一歩踏み締める度に鳴り響く革靴の足音が妙に切なく聞こえてしまうのであった。



 数分後。俺の住んでいるアパートに帰る。

 築30年だけれど、コンクリートと鉄筋で作られているため、住むには申し分ない環境だった。六畳一間、月3万円の家賃というのは16歳の新社会人の俺にとってはうってつけ。それまで住んでいた親戚の家から徒歩で20分ほどだ。

 就職先と新生活の拠点を決め、気分が高揚していた頃が遠い昔のように思える。あのときは社会人生活が大変だと覚悟していたけれど、周りの景色が全て輝いていた。


「どうするべきか……」


 自室に入ると、俺はブレザーを脱ぎ、ネクタイを解いた。

 沈んだ気持ちを少しでも元気にさせるために、俺は大好きなコーヒーを作る。疲れているから角砂糖を1つ入れておこう。

 作りたての熱いコーヒーを一口飲む。


「美味しい……」


 コーヒーの苦味と温かさが全身に染み渡ってゆく。砂糖を入れたけれど、解雇という苦い経験をした直後だからかとても苦く感じる。ただ、そのおかげで、少しは気分が落ち着いた。

 突然解雇されたからって、いつまでも沈んでいてはどうにもならない。このまま社会人を続けるにしても、高校生になるとしても何か行動しなければ。

 とりあえず、ポストに入っていたチラシを見てみることに。社会人を続けたい気持ちもあるので、何か良いい求人があるかどうか調べる。給料ももちろんだが、勉強をしっかりするためにも労働条件を優先したい。

 ペラペラとめくっていくと、あるチラシに目が留まった。


「おおっ、これ……凄く良さそうな求人じゃないか」


 そのチラシには、九条くじょう家が所有している屋敷の使用人を募集していると書かれていた。

 九条という名前は俺でも知っている。

 九条家は日本有数の建設業界の大企業、九条建設を創立した財閥だ。数年前の大地震で耐震強度の偽装が問題となったけれど、現在はその問題も解決し、再び以前のような地位を確立している……と、以前に見たワイドショーで言っていた。

 そのような財閥の屋敷で働けるとは。これはまたとないチャンスだ。

 応募条件は中学を卒業した15歳以上の者と、正社員として働く意思のある者となっていた。これなら俺でも応募することができる。

 実は、目に留まった理由は『九条家』ということだけじゃない。応募条件の所に『屋敷に住み込み可であること』と書かれているのだ。職場もあれば住処もある。しかも、九条家のお屋敷。こんなに美味しい求人はない。


「よし、ここの使用人になろう!」


 九条家の屋敷に就職することを決め、応募方法を見る。まずはここに記載されている番号に電話をかけなければならないらしい。

 さっそく、スマートフォンで電話を掛けてみる。


『はい、九条家の屋敷ですが』


 可愛らしい女性の声に身震いしたけど、一度、深呼吸をして話し始める。


「私、長瀬真守といいます。家のポストに入っていた求人広告のチラシを見て、そちらの使用人になりたいと思って電話をさせていただいたのですが」

『そうですか。募集ありがとうございます。すみませんがもう一度、お名前を言ってもらってもよろしいでしょうか?』

「長瀬真守といいます」

『長瀬真守様、ですね。分かりました。では、この後……午後3時頃に九条家のお屋敷に来てもらうという形でよろしいでしょうか?』

「はい、分かりました」

『では、お待ちしています。長瀬様はお屋敷の場所は分かりますか? 宜しければ、こちらから長瀬様の住んでいる場所まで迎えに行きますが』

「いえいえ、そこまでしてもらわなくても。チラシにも住所や簡単な地図が書いてありますし、大丈夫です」

『そうですか。分かりました。では、失礼します』

「はい、失礼します」


 通話を切ると、仰向けになって天井を仰いだ。


「ああ、緊張した……」


 だからなのか体がとても熱い。実際に顔を合わせていなくても、俺にとって女性と話すことはかなり勇気のいることだ。

 まだ採用されているわけでもないのに、九条家の屋敷での生活を思い描いてしまう。使用人として雇われるのだから裕福な生活はできないだろうけど、生活環境は今よりもずっと良くなるだろう。そんな淡い期待をしてしまう。


「う、浮かれちゃいけない。もしかしたら、16歳になったばかりだからって不採用になるかもしれないし」


 さっき、厳しい現実を思い知ったじゃないか。頬を強く叩いた。

 時刻は午後1時。約束の時間まではかなり余裕がある。

 昼食を食べていなかったので、数日前にセールで買い溜めをしておいたパスタで腹を満たした。

 電話では聞き忘れてしまったけれど、履歴書が必要だと思ったので、履歴書を棚から引っ張り出して必要事項を記入する。証明写真がなかったので、近隣のコンビニにあるスピード写真で証明写真を撮りに行った。


「これで大丈夫かな」


 洗面所の鏡の前で、再びネクタイを締める。

 色々としている間に時刻は午後2時半になっていた。

 地図で九条家の場所を確認すると、アパートから15分もあれば歩いて行ける距離だ。しかし、大事な面接を控えているから、早めの行動をしないと。


「そろそろ出発するか」


 スーツを着て、ビジネス用の鞄を持って部屋を出た。

 さっきとは違って外の空気が美味しく感じる。これも、未来への扉が少しずつ開いているからだろうか。

 軽やかな足取りで九条家のお屋敷に向け、人気のない道路を歩いて行く。

 遠くから二人の女子高生が俺の方に向かって歩いてきているのを見つける。俺は咄嗟に伊達メガネをかけ、俯きながら歩く。


 どうしてそんなことをするのか。それは、俺がかなりの女性恐怖症だからだ。


 医者にそう診断されたわけではない。ただ、とある出来事のせいで、俺は女性という存在が怖くなっていた。特に同年代の女性に対して酷く症状が出てしまう。さっきも、九条家のメイドさんの声が若そうだったので、電話越しでもあのくらい話すのが精一杯だった。

 やがて、俺は2人の女子高生とすれ違う。ここが一番緊張する瞬間である。

 脚が震え、まともに歩くことができない。不審者に間違われないよう、スマートフォンの画面を見てその場をやり過ごす。

 女子高生達と何事もなくすれ違い、ほっとしたときだった。


「ねえ、あの人凄くかっこよくない?」


 女子高生の1人がそんなことを言ってきたのだ。俺、かっこよくないです。女性を見て挙動不審になる変態です。

 怖い物見たさとは違うけれど、そういうときに限って女子高生の方を見てしまう。俺の視線の先には、さっきの女子高生達が恍惚な表情をして俺のことを見ていた。

 どうして、俺のことをそんな風に見るんだよ。

 180センチくらいの身長の男の人は何度か見たことあるし、黒い髪だって普通じゃないか。

 何だ、伊達メガネが悪かったのか?

 彼女達はメガネ男子が大好きな子だったのか?

 女子達に見つめられるのは本来喜ぶべきところだろうけど、俺にとっては地獄絵図なんだ。

 ここから逃げ出したい。穴が入ったら入りたい。それは別に卑猥な意味じゃない。


「ご、ご、ごめんなさい!」


 女子高生達が俺に近づこうとしてきたので、俺は逃げるようにして走り去る。

 逃げ足の速さには自信がある。それは、女性恐怖症になってから自己防衛のために筋肉改造を行った賜物だけど。


「どうしてメガネの効果が全くないんだ!」


 俺は毎回そう思いながらも、女子と出くわす度にメガネを掛ける始末。それなのに、何故か興味を持たれてしまう。この負の循環のことを『メガネ・スパイラル』とでも名付けておこうか。

 全速力で走ったため、あっという間に九条家の屋敷の正門前に辿り着いた。


「ここか……」


 疲れた。

 両手を足に当てて激しく呼吸しながら、九条家の屋敷の方を見る。

 確か、金原市の最大の私有地と言われる九条家の敷地は東京ドーム3つ分に相当するらしい。よって、正門からでは中の全貌を見ることは不可能だ。

 九条家の私有地を初めて見る俺にとって、目の前に広がる光景が異世界のように感じられた。こんなところで働けるのだろうか。自然とそのような疑問を抱いてしまう。


「まずは面接を受けないとどうにもならないよな……」


 時刻は午後2時40分。

 午後3時のアポイントメントにしては早すぎるかもしれないけれど、俺は門の近くにあるインターホンを押したのであった。

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