深根善忠

 N市内、ある県道沿いのコンビニエンス・ストアの便所に、一人の若い男が倒れていた。

 首の肉をえぐり取られ、頸動脈を切られ、腹を裂かれ、内臓を奪われ、左手を奪われ、大量の血液を失い、心臓は止まり、呼吸も無かった。

 ――しかし、その若い男は、生きていた――

 男の右手の中指が、ピクリと、かすかに動いた。

 血流がまっても、男の筋肉は活動をめていなかった。

 閉じられていたまぶたが上がり、焦点の定まらないまま瞳が左右に動いた。

 かつて深根ふかね善忠よしただという名前で呼ばれていたその若い男は、記憶の大部分を、知性の大部分を、そして感情の大部分を失っていた。

 噛み付かれた傷口から体内に侵入してきた大量の『何か』……電子顕微鏡でなければ見ることが出来ないほどの微小な『何か』は、彼の脳神経を冒し、その機能を著しく低下させた。

ただ『命令』だけが深根善忠を支配していた。知性を無くし、感情を無くした脳にいた大量の『何か』から送られてくる命令。

 ――人間ニンゲンニ、ケ、――

 深根善忠は、ゆっくりと立ち上がった。

 神経の伝達効率が極端に低下し、おまけに片手を失っていたため、手をついて立ち上がるのは容易ではなかった。

 何度か失敗し、転び、やっとの事で狭い便所の中に立つことができた。

 便所の半開きの扉を押し開けて洗面所を通過し、コンビニエンス・ストアの店内に出る。

 もとは青と白の細ストライプだった血まみれのシャツを着た、若い男のアルバイト店員と目が合った。

 ――人間ニンゲン、ダ、――

 無数の『何か』が深根善忠の頭の中で言った。

 ――シカシ、コノ人間ニンゲンハ、スデニ我々ノ仲間ダ、ク必要ハ、ナイ、――

 その瞬間、深根善忠は、その若いアルバイト店員に対する興味を失った。

 スイング・ドアを開け閉めする音に釣られて、若いアルバイト店員(だったもの)と深根善忠(だったもの)は、店の出入り口を見た。

 一人の男が立っていた。

 背の高い、太った若い男だった。

 上半身裸だった。

 右肩の一部と左手だけ、わずかに肌の色が違っていた。

 善忠は、その太った男の左手を見た。

 そして、自分の左手首を見た。(手首から先が無かった)

 知性も感情も失われた善忠の脳が、一瞬だけ記憶を取り戻し、その男の左手が元々は自分の体の一部だったことを思い出した……『悲しい』という感情が浮かび上がり、すぐに消えた。

 同時に、脳内に寄生する何万という微小な『何か』が言った。

 ――コノ人間ニンゲンモ、スデマレテイル、――

「ようっ! 善忠じゃねぇか……まだ、こんな所にいたのか」

 既に噛まれているはずの男が……善忠と同じように『何か』に脳を冒されているはずの男が、声を発した。

 しかし、その声の意味を理解するだけの知能は、もはや善忠には残っていなかった。

「どうやら心身ともにの仲間にったようだな。立派な〈噛みつき魔〉によ……俺だよ、俺、毒虫ゲンタだよ。分かるか? ……って、分かるわけねぇか」

 その太った男が近づいて来て、善忠の頬っぺたを、かつて善忠自身のものだった左手でペチペチと叩いた。

「俺は、よう……」

 男が続けた。

「お前らの『完全な』仲間にはれなかったよ。さりとて、もう健康な人間にも戻れないだろうなぁ……人間でもなく、お前らの仲間でもなく……どうしようもなく中途半端な存在にっちまった……」

 そこで太った男は、ニヤリッ、と口を歪めた。

「史上最強の、中途半端マンにな」

 言いたいことを言い終えて用が無くなったのか、それとも言葉を理解できない善忠を相手に独りごとを言うのに飽きたのか、毒虫ゲンタと名乗る太った男は、レジカウンターの中に入り、レジ袋を一枚とり出すと、店内を回って弁当やらツマミやらスナック菓子やらビールやらを次々に放り込んでいった。

 ゲンタと名乗るその男がレジ袋へコンビニの商品を入れていく様子を、善忠と店員たちは、ただぼーっとながめているだけだった。

 店の商品で袋を一杯にすると、ゲンタは棒立ちの善忠に「あばよ」と声をかけ、店から出て行った。


 * * *


 毒虫ゲンタが廃工場に帰って来たのは、死体を引きずって出て行ってからおよそ三十分後だった。

「兄貴、ビール持って来てやったぜ」そう言ってゲンタは、パンパンに膨れたコンビニのレジ袋を兄のライタに渡した。「弁当と菓子類も」

「……」ライタは、少々困惑しながら袋を受け取った。

「なるべく血の付いていないやつを選んで来たつもりだけど、多少は付いてるかも……まあ、チョチョっと外袋を洗ってレンジでチンすりゃ大丈夫っしょ……あ、ビールは冷蔵ケースの中に入っていたから心配ないと思うよ」

 廃工場に引きこもっていたライタは昨日の夜から何も食べていない。さすがに腹が減っていた。

 しかし、あからさまに弟に情けをかけられているような気がして、イラついた。

「ゲンタ……おぇ、死体はどうした?」

「ああ、ちゃんと路地裏に捨てて来たよ。ついでに、スチール・ドアの外に倒れてたも同じ場所に捨てといた。百メートルくらい向こうかな……とりあえず腐っても工場ここまではにおって来ないと思うけど……どうだろう? 確信は無い」

「まだ工場内には血痕があるだろうが」そう言いながら、ライタは打ちっ放しのコンクリートゆかの赤黒いを指さした。「これも洗い流しとけ」

わりぃ、兄貴……俺、もう眠くなちゃったわ……何しろ昨日の夜は色々あったから……あとは兄貴が処理しといてよ」

 言い方こそ優しかったが、振り返ってライタの顔をにらみつけるゲンタの目は凍るようだった。

 兄の返事を待たず、ゲンタは「カンッ、カンッ、カンッ」と足音を響かせて鉄階段を登り、二階から兄のライタを見下ろして「起こさないでくれよ……今日は誰にも邪魔されずグッスリ寝たい」と言い残し、二階の自分の寝室ねぐらへ入ってしまった。

 ……また、ライタ一人が取り残された。


 * * *


 その夜、かつて深根ふかね善忠よしただだった〈噛みつき魔〉は、S市の通りを当てもなく彷徨うろついていた。

 脳に巣食う『何か』が発するただひとつの命令――人間ニンゲンニ、ケ、――に従い、人間を求め通りから通りへ、路地から路地へと歩いた。健康な人間に偶然出会う可能性にすがった、ひどく効率の悪い『回遊』だった。

 細く薄暗い真夜中の路地を歩いていた時だ。善忠の原始的な本能が、全身から徐々に力が失われつつある事に気づいた。

 足が止まった。

『何が起きたのか分からない』といった風に、善忠は自分の体を見下ろした。

 突然すべての力が失われアスファルトの上に倒れた。首から下が全く動かせなかった。

 それは、他の〈噛みつき魔〉には見られない、善忠の肉体だけに起きた現象だった。

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リビングデッド、リビング・リビング・リビング 青葉台旭 @aobadai_akira

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