発生。(その16)

 血の海の中に、長髪の若い男が仰向あおむけに倒れていた。さっきまで噴水のようだった出血も、今は勢いが無い。

 血を送り出す心臓の力が弱まっているのか、あるいは体内の血液そのものがもうほとんど残っていないのか。

 顔がろうのように真っ白になっていた。

(こいつは、もう駄目だめだな……)

 血の気の無い若者の顔を見て、荒木あらき毅殻ごうかくは思った。

 若者のとなりにしゃがみ込んだショートパンツの女が荒木を見つめていた。驚きと恐怖で顔が強張こわばっている。

(至近距離でマグナムをぶっぱなしたんだ。無理もないさ)

 店内にいる人間を安心させるため、荒木はポケットから身分証明書IDを出してよく見えるように頭の上にかかげた。

「警察だ! たった今、やむをえずを射殺した」

「殺人犯」という部分を強調して言った。正確には、まだ誰も死んでいないが……長髪の男はほとんど死んだも同然だろう。

「け、警察?」

 年配のレジ係が小さな声で言った。その隣で若い店員が食い千切ちぎられた指を押さえてうめいている。よく見ると年配のレジ係と若い店員は顔が良く似ていた。親子の可能性が高い。

(家族経営か……)

 ドリンク売り場からワンピース姿の女がこちらを見ている。手に携帯電話を持っていた。

きみ!」

 荒木はワンピースの女を指さして指示を出した。

「警察に電話をしてくれ。それと救急車だ」

「つ……つながらないんです! 一一〇番も、一一九番も……」

「繋がらない? そんなはずないだろう……もう一度やってみろ」

「は……はい」

「それから、君!」

 こんどはショートパンツの女を指さして言った。

「日用品売り場にタオルが有るはずだ。持ってきてくれ。それと下着用のTシャツも。タオルがわりに使える」

「わ、私が、ですか?」

「恋人を助けたいんだろ? 早くしろ」

 この女の恋人が助かる見込みはゼロだが、うそ方便ほうべんだ。手を食われた店員の方は助かるだろう。持ってきたタオルはそっちに使わせてもらう。

「わ、分かりました……」

 返事をしながらのろのろと力無く立ち上がった。

 ショートパンツの女が日用品売り場へ行こうと二、三歩、荒木に近づいたとき「異変」は起きた。

 全身の血が抜けて顔が真っ白になった長髪の男が、自分の血で出来た血溜ちだまりから起き上がった。

 異変を感じてショートパンツの女が振り返った。

「シンジ……?」

 戸惑とまどったように小さく声を掛ける。

 恋人から少し離れた位置に移動していた事が、女の命を救った。

 長髪の男は一番近くにいる人間……隣で息子を介抱しているレジ係の男の背中に抱きつき、後ろから右の頸動脈あたりに噛みついた。

 今度はレジ係の首から血が噴き出し、スナック菓子とカップ麺の容器を濡らしていった。

 奥でスカート姿の女が叫び声を上げる。

 指を失った若い店員が、いきなり父親のレジ係に抱きつき、長髪の男とは反対側の頸動脈を噛み切った。

 前後から首の両側に噛みつかれ、レジ係の悲鳴がさらに高くなる。

「ど、どうなっているんだ? こいつら……」

 さすがの荒木も戸惑う。

「シンジ……何をやって……」

 荒木の隣でショートパンツの女が恋人に向かって言った。レジ係の首に後ろから噛みついていた男がこちらを見た。そのまま首の肉を食い千切り、口にピンク色の肉をぶら下げながらヨタヨタした歩きでこっちに近づいてくる。

 危険だ、と思った。

「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」

 荒木は迫ってくる長髪の男に拳銃を突き付けて言った。男の目には生気が無く、うつろだった。

 荒木は決断した。

 男が銃口まであと数十センチにせまった所で、引き金を引いた。

 再度、店内に銃声が響き渡り、男の眉間みけんから入った弾丸が後頭部を吹き飛ばして後ろの弁当売り場を赤く濡らした。頭蓋骨の欠片かけらから生えた長髪が汚らしく売り場の弁当に絡みついた。

「店から出るぞ!」

 隣で呆然とするショートパンツの女と、ドリンク売り場にハンドバッグと携帯電話を持って立つスカート姿の女に呼び掛けた。

 ショートパンツの女の手を左手でつかみ、強引に店の外に連れ出す。その直後、スカートの女が雑誌売り場をまわって店外に出てきた。

 店の奥では、若い店員が父親の首の肉を引きがしていた。すでにレジ係の男には意識が無いようだった。

 駐車場を振り返ると、荒木のクルマの隣にヨーロッパ製のハッチバックが停まっていた。

 他に駐車車両は無い。若者たちが乗って来たクルマに違い無かった。

 後部座席ドアの近くに太り気味の男が立っていた。荒木と目が合った。怯えた目だった。

 視界のはしに何かをとらえて、そちらに視線を移す。駐車場の外から様々な年齢と性別の人間たちがこちらに歩いて来るのが見えた。

 みな一様いちように虚ろな目つきで、口の周りを真っ赤に濡らし、夢遊病者か酔っ払いのような歩き方をしている。

 引っ張ってきたショートカットの女の手を離し、若者たち全員に言った。

「早くクルマに乗って逃げろ! ここは危険だ!」

 メタリック・ブルーのセダンに乗り込む直前、スカートの女が叫んだ。

「鍵が無いんです! エンジン・キーは……」

 言いながらコンビニの店内を振り返る。

(あの長髪野郎が持っているという事か……くそっ)

 ……仕方がない……

「みんな、俺のクルマに乗れ! 早く!」

 荒木が言うか言わないうちに、スカートの女は助手席のドアを開けてショートパンツの女を中に押し込み、自分は後部座席に回り込んで中に入った。

 ドアを開けるとき、太り気味の若者に向かって叫んだ。

禄坊ろくぼうくんも! 早く! 刑事さんのクルマに乗って!」

「け、刑事なのか? この人。それで拳銃を……」

「早く!」

 若者は慌てて反対側のドアから後部座席に乗り込んだ。

 荒木は全員の乗車を確認して集中ロックを締め、急いでクルマをバックさせる。

 ヨタヨタ歩く人間たちの間をなんとか抜け、車道へ飛び出した。

 飛び出したタイミングで、車道に他のクルマが無かったのは運が良かった。駐車場でバックするとき何人かと接触して、その反動で転んだ人間も居るが、遅い車速やかすった角度から考えて致命傷ではあるまい……そう自分に言い聞かせた。

 外を歩いている連中の様子から考えて、店内の奴らと同じく無差別に人間を襲うとも考えられたが、歩道や駐車場をヨタヨタ歩いているというだけで無差別殺人犯あつかいは出来なかったし、まして正当防衛を主張して拳銃を撃つなど、さすがの荒木にも無理だった。

 しかし大通りを走っているうちに自分の考えが甘かったと気づいた。

 左右の歩道のあちこちで、人間が人間に噛みつき、血まみれの口で肉を千切ちぎり取っていた。

「いったい何なんだ? この都市まちは?」

 ハンドルを握りながら同乗者の誰に言うでもなく、つぶやいた。

 助手席に座るショートパンツの女も、後部座席の二人も、窓の外で繰り広げられる惨劇に言葉を失っていた。

 前方の交差点で黒煙が上がった。酷い事故のようだった。反射的に脇道へ飛び込んだ。

(鉄の棺桶かんおけだ……)

 裏通りを走りながら荒木は思った。

(渋滞に巻き込まれて身動きが取れなくなったら……どんなに高性能だろうと馬力パワーがあろうと、クルマは鉄の棺桶に成り下がってしまう)

「だれか、警察か消防署に電話をしてみろ」

 すぐに反応したのは後ろに座っているスカートの女だった。

「やっぱり駄目です。一一〇番も、一一九番も繋がりません……『圏外』のマークが出ています」

(街の真ん中で圏外? つまり通信業者自体が駄目になったということか)

 センターコンソールの無線機を操作する。県の基幹無線も市の署活無線も使えなかった。

 専用回線で東京の特殊班本部を呼び出してみたが駄目だった。

 ナビの音声認識プログラムにテレビを映すよう指示する。受信できない。ラジオも駄目だった。

(ひょっとしてN市だけの問題じゃないのか? 全国レベルの現象だとでも言うのか?)

 ナビゲーション・モードに戻して「N市警察署」と音声入力してみる。

 案外遠くない所にマーカーが点灯する。

 画面のマーカーを見ながら……しかしナビの指示は無視して、わざと裏道を選び、何度も曲がりながら警察署を目指した。

 到着してみると、N市警察署は不気味な空気を漂わせ静まり返っていた。

 駐車用の白線は無視して、出来る限り署の正面入り口に近い場所にクルマを停車させた。

「お前ら、ここで待っていろ」

 ドアを開けながら荒木は若者たちに言った。

「おとなしく座っていろよ。俺のクルマに指一本さわるんじゃねぇぞ。もし、ちょっとでもれたら、この銃で……」

 ふところから357マグナムを出して、わざと銃口を見せつける。

「その猿よりも軽そうな脳みそを吹っ飛ばす」

 ドアを閉め、外側から鍵をかけ、N市警察署の正面自動ドアに向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る