発生。(その3)

 父親の言葉を聞いているうちに、少年は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。

 よろめいて、ソファに横たわる母親の体の上に尻もちを突いてしまった。

 手から滑り落ちたコップが母親の額に当たり、オレンジジュースが顔にかかる。

 

「母さん?」

「今ほど製薬会社に入社して良かったと思ったことは無い」

 母親に呼びかける隼人を見て、父親が言った。

「どんな劇毒物でも簡単に手に入るからな。母さんも姉さんも最初こそ苦しんだけど、一分もしないうちに安らかな寝顔になったよ……脳を冒され腐った体を引きずりながら地獄を彷徨さまよい続けるより、こうして安らかに眠るほうがどれだけ幸せか……」

 隼人は母親の手を握った……冷たかった。

「いやだ……」

「さあ、飲みなさい」

 父がオレンジジュースの紙パックを持って立ち上がった。

「いやだ、いやだ」

 隼人が後ずさる。

 父親が前に出る。

 少年の背中が居間のドアに付いた。

 瞬間、体が本能的に動いた。

 ドアを開け、廊下に出て、全速力で玄関に向かう。

 後ろから実の父親が自分を殺そうと迫ってくるのが分かった。

 ノブを回し、ドアを押し開け、外へ出た。

 ドアに体当たりをするようにして閉める。紙パックを持った父親の手がドアにはさまれて、パックが手からすべり落ちた。中身のオレンジジュースが玄関の敷石に、ぶちまけられる。

 不意を突かれて父親がうめいた。

 そのすきに隼人は門を開け、路地に飛びだした。

 行き先も決めずに全速力で走る。

 後ろから大声で叫ぶ父の声がした。

「血液も酸素も必要ないんだ! 心臓も肺も必要ない! 脳だ! 脳か脊髄を狙え!」


 * * *


 金曜日の夕方、外回りを終えて帰社する途中、風田はガソリンを補充しておくことにした。

「いらっしゃいませ!」

 手近なガソリン・スタンドに乗り入れると、二十歳そこそこの男が威勢の良い掛け声と一緒に走って来た。

「レギュラー満タン」

「カードですか?」

「いや、現金でお願い。レシートつけて」

「はい、わかりました」

 給油の間、ぼうっ、と通りの向こうを眺める。

 向かいは大手アメリカ・チェーンのハンバーガーショップだった。

 自動ドアが開いて大学生らしい男女が出て来た。

 手に茶袋を持っていた。男の方が袋に手を入れハンバーガーを取り出す。

「おいおい、歩道で歩き食いかよ。意地汚い真似するんじゃないよ」

 風田は車の中でつぶやいた。

 大学生たちの進行方向から、老人がヨタヨタと歩いて来た。まるで酔っぱらっているような歩き方だった。

 老人が大学生の肩にぶつかり、大学生の手からハンバーガーが落ちた。

 それを見て、思わず風田はプッと吹き出してしまった。

「あはは、ざまあ見ろ」

 給油が終わり、ガソリン・スタンドの従業員が給油口を閉めるカチッカチッという音が車内に響いた。

 通りの向こうでは大学生が老人に詰め寄っていた。それを恋人が必死でなだめている。

 いきなり、老人が男の喉元にかぶりり付いた。

 頸動脈が切れて、大学生の喉から真っ赤な血が勢いよく吹き出す。

 恋人の悲鳴が通りの反対に駐車したハイブリッド・カーの車内にまで響いた。

 男が歩道に折れた。

 喉の肉が半月状にえぐり取られているのが、こちら側からでも分かった。

 老人は男の肉を口にくわえて、こんどは女の方によたよたと歩いて行く。女は泣き叫び続ける。

 風田はドアを開けてハイブリッド・カーから外に出た。

 腰を抜かして歩道に込んだ女が、「これ以上近づかないで」とでも言うように、老人に向かって両手を突き出す。

 老人は、突き出された女の手首を持つと、人差し指、中指、薬指、三本同時にかみちぎった。

 女の悲鳴が一段高くなる。

 声を聞きつけてハンバーガーショップの店員たちが表に出て来た。

 喉を血まみれにして倒れている男、指を失い手を血まみれにして泣き叫んでいる女、口からあごにかけて血をだらだら滴らせている老人。それを呆然と見つめるハンバーガーショップの店員たち。

 我に返った店長風の男が老人を後ろから羽交はがめにした。

 老人がその腕にガブリッとみついた。

 女の悲鳴に、野太い男の悲鳴が重なった。

「おい、あれを見ろ、すぐに救急車を……」

 ハンバーガーショップを指さしながら、風田は振り返った。

 ガソリン・スタンドの従業員の口から大量の血が溢れ、ハイブリッド・カーの助手席側の窓を赤く染めた。

 従業員の喉に、通りすがりの主婦風の女が噛み付いていた。従業員が白目をいて倒れる。

 顔の下半分を真っ赤に濡らした主婦風の女がこちらをギロリと見た。

 急いで車内に戻り、ドアを閉める。運転席のドアロックを押すと、集中ロックが作動して全てのドアが開かなくなった。

「おちつけ……おちつけ」

 ハンドルに額を押し付けて自分に言い聞かせる。

 顔の下半分を血に染めた女が恐ろしい形相で助手席の窓を叩いている。さすがに窓ガラスを突き破るほどの力は無いようだった。

「ま、まずは一一〇番だ……いや、一一九番か」

 携帯電話の画面をさわる。

 つながらない。

 運転席の窓越しに通りの向こうを見る。

 ありえない光景が目に飛び込んできた。

 歩道に仰向あおむけに倒れた大学生の横に、ハンバーガー屋の店員が立っていた。

 その店員のに、さっきまで死んだように動かなかった大学生がいきなりかぶりり付いたのだ。

 痛みの叫び声を上げる店員。

 立ち上がる大学生。

 他の店員たちが、たまらず店の中へ逃げた。それを追いかけるように、大学生が、先ほどの老人と同じヨタヨタ歩きでハンバーガーショップへ入っていった。

 いつの間にか女の悲鳴が聞こえなくなっていた。

 女が立ちあがった。老人や恋人と同じような歩き方で、恋人とは逆の方向へ歩き出す。まるで夢遊病者のようだった。

 突然、ガソリン・スタンドの従業員の顔が視界に入ってきた。

 喉から血がダラダラと流れ出ている。助手席の外に居る主婦と同じように、運転席側の窓をバンッバンッと何度も叩いたり、ドアノブをガチャガチャと動かす。

 せっかく拭いてもらった窓が、その拭いてくれた従業員自身の真っ赤な手形でどんどん汚れていく。

 無我夢中でエンジンをかけ、クルマの両側にいる血まみれの主婦とスタンド従業員をゆっくりと振り払うようにして前に進んだ。

「あのオバサンとガソリンスタンドの兄ちゃん、け、怪我けがしなかっただろうな」

 クルマを発車させるとき、血まみれの二人が転ぶ姿がドアミラーに映った。

 転んで怪我をしたなら無理やり発車させた自分の責任という事になる。

「い、いや、でも明らかに様子が変だったし……こ、これは正当防衛だよな。勤務中の交通事故は下手すりゃ免職処分だけど」

 そこまで考えて、ふと「本当に心配すべきは別のことだ」と気づく。

(何だ? この街で何が起きているんだ……)

 ガソリンスタンドから大通りに出ようと一時停止して進行方向を見た瞬間、先の交差点からタイヤの悲鳴と同時にガシャンという衝突音が聞こえた。

 信号無視をして道路を渡ろうとした歩行者を避けるためハンドルを切って急ブレーキをかけたクルマに、後続の車両と隣のレーンの車両が追突をしていた。

 当の横断しようとした歩行者は道路の真ん中でボーッとしている。

「馬鹿野郎! 危ねぇだろうが!」

 先頭車両と追突した車両のドライバーたちが、怒声を響かせながらクルマを降りて歩行者に近づいて行く。

「だ、駄目だ……近づいちゃ、駄目だ」

 血まみれのハイブリッド・カーの中で、風田が無意識につぶやいた。

 最初のドライバーが歩行者の胸倉をつかむ。

 見るからにチンピラ風の男だ。

 いきなり、チンピラの怒声が「ギャー」という悲鳴に変わった。

 胸倉を掴んでいた手を離し、反対側の手で押さえている。

「か……まれたな」

 直感的にそう思った。

 追突事故を起こした三台のクルマにふさがれる格好で、徐々に道が渋滞し始めていた。

 ルームミラーをのぞく。さっきの主婦とスタンド従業員の男がゆっくりと立ち上がるところだった。

「ど、どうする……」

 辺りを見回す。

 数メートル先に狭い路地が見えた。

 タイミングを見計らって発進、一旦いったん大通りに出て、すぐに狭い路地に入った。

 何処どこへ繋がっているのかも分からない路地だ。

 現在地を確認しようとナビの画面を見たときに気づいた。

「俺、何処どこへ行けば良いんだっけ?」

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