発生。(その2)

 春。金曜日の夕方。N市郊外の住宅地を二人の少年が歩いてた。

「第二小との練習試合、明日だっけ?」

 一方の少年が、もう一方にたずねた。

「うん」

「平日は夕方まで練習、土曜日は練習試合、サッカー部のエースも大変だな」

「慣れれば、そうでもないさ」

隼人はやとならプロのサッカー選手になれるんじゃねえか?」

「まさか……ちゃんと勉強しつつ、上手く行ったらサッカー推薦取って、上の学校へ行くよ」

「やっぱ、親父さんと同じ化学者志望?」

「生物化学な。……でも……どうかな。父さん見てると大変そうだし」

「たしかに単身赴任とかってキツそうだよなあ。S市だっけ?」

「そう。S市にある陸上自衛隊S駐屯地・先端兵装研究所」

「自衛隊? 製薬会社のエリート研究員が自衛隊なんかに通って何やってるんだ?」

「守秘義務とかで、僕ら家族にも詳しくは教えてくれないよ。怪我をした兵士が死なないような薬の開発とか何とか言ってたけど、それ以上は、ね」

 二人の少年は「速芝はやしば」と表札に書かれた家の前で立ち止まった。

「じゃあ、ここで」

「じゃあな」

 友達と別れ、N市第三小学校六年、サッカー部エースの速芝はやしば隼人はやと少年は、自宅の門を開けた。

 ふと見ると、家の駐車スペースに父のクルマが停まっていた。

(父さんが帰っているのか? おかしいな……休暇を取るなんて聞いていないけど)

 玄関の呼び鈴を押す。

 いつもは母親がすぐに鍵を開けてくれるのに、今日に限って何度呼び鈴を鳴らしても玄関に来る様子が無い。

 試しにドアノブを回してみた。

 ……開いた。

 家の中に入る。

 何故かは分からなかったが、隼人少年は嫌な気持ちになった。

(何だろう?)

 嫌な感じの原因が分からない。

 静かすぎるのか?

 普通なら今の時間、母は台所で夕食の支度をしているはずだし、ひとつ年上で中学一年生の姉も既に帰宅している頃だ。

 それなのに物音ひとつしない。

 靴を脱いで、居間へ向かって廊下を歩く。

 居間の扉をゆっくりと開けた。心臓が高鳴った。人の気配があった。

 ソファーに男が座っている。右手にウィスキーのグラスを持っていた。

「なんだ、父さんか……」

 ほっとして隼人少年は居間へ入った。

「ああ、隼人」

 父親が、うつろな目を少年に向けた。

 ウィスキーの入ったグラスをグビッとやる。

(おかしい……何かが変だ)

 隼人少年の知っている父は、決して呑んだくれるような男ではなかった。

 そこで気づく。部屋の中が異様に暗い。

 カーテンが閉まっていた。夕方とはいえ外はまだ充分に明るい。カーテンを閉めるには早すぎる。

 しかも、カーテンを閉めているにも関わらず、電灯をけていない。

「父さん、何で電気を点けないんだよ。母さんと姉さんは?」

 父の座っている反対側のソファから、女の足首が見えていることに気づいた。

 周り込んで見た。母親がソファの上で眠っていた。

「母さんは眠っているよ」

 父が言った。

「姉さんも二階で眠っている」

 もう一度、母親を見た。

 何かが変だった。

 ふとゆかを見た。コップが倒れていた。中身がこぼれて絨毯じゅうたんに染みを作っていた。

「のどが渇いただろう。飲みなさい」

 言いながら、父親がテーブルの上に置いてあった別のコップに紙パックからオレンジジュースを注いだ。

 少年にコップを突き出す。何か異様な物を感じながら、隼人はコップを受け取った。

「我々の会社が防衛省から極秘に受けた依頼というのは……」

 突然、父が話し始めた。

「急に何を言ってるの?」

「まあ、良いから黙って最後まで聞きなさい。防衛省からの極秘依頼は、戦場で怪我をした兵士の命を救う新薬の開発だった。隼人、戦場の兵士が命を落とす一番の原因は何だと思う?」

 父親の質問に、少年は首を横に振った。父親が答えを言う。

だ。銃弾を受けて体に穴が開いて動脈が傷ついて、そこから大量の血が流れだして死ぬんだ。戦場での失血死を防ぐことが出来れば、とくに銃撃戦による歩兵の損耗を押さえられる……製薬会社としても、これは大儲けのチャンスだった。いずれ軍事技術は民間に下りてくる。特許を押さえて置けば私たちの会社は莫大な利益を得ることが出来る。大けがで血を失って命を落とす人間は平和な国にもたくさん居るからな」

 少年の父は、ニヤリと笑った。

「しかも開発の費用は全て自衛隊持ちだ。成功すれば濡れ手にあわというやつさ。もちろん、簡単じゃ無かったよ。父さん達は休むひまも無く昼も夜も実験を繰り返した。最初は苦労したが、な……糸口は意外な所にあった」

「……」

「猫さ」

「猫?」

 酔った父は怯える息子に、次のような話を聞かせた。


 * * *


「ネコ科の動物に特有の感染症を引き起こすある種のウィルスを、ヒトにも感染するように遺伝子操作したんだ。

 このウィルスに感染した動物は……今のところ感染が確認されているのはネコ科の動物とヒトだけだが……神経組織と筋肉組織に化学的な変化が起きて

 逆転の発想だな。

 我々は出血多量を止める薬ではなく『血が無くても生きられる肉体』の開発に成功したというわけだ。

 いや、ほとんど成功した、と言ったほうが正しいか。

 まだ克服すべき欠点がいくつか残っていてね。

 一つは、筋肉組織の劣化。

 これは数日、場合によっては数ヶ月かけて徐々に進む。

 原因は『自己崩壊による活動エネルギーの摂取』だ。

 血流による栄養の供給を絶たれた筋肉は、ようになる。

 健康な脳が持つ抑制機能……いわば『精神のリミッター』……が外れてしまうため、発病直後なんかは、むしろ筋力が向上したように見えるがね。それも賞味期限付きだ。

 二つ目は、反応速度の低下。

 筋力の衰えがゆるやかに進むのに比べ、神経組織の変異による信号伝達速度の低下は発病直後から劇的に進行する。

 信号伝達にかかる時間は、その部位と脳との距離におおむね比例した数値になる。つまり『脳から距離が遠い筋肉ほど反応速度が遅い』という訳だ。

 脳から近いあごや腕は素早く動くが、脳から遠い下半身の反応はにぶい。

 三番目の欠点は、知能の低下だ。

 これも神経組織の変質が影響している。

 しかも、知能が衰えるのと反比例するように凶暴性が増大して、だれかれ構わず噛みつくようになってしまう。

 ……この三つの問題点をクリア出来れば、十年後はノーベル賞も夢じゃないと、父さんたちは思ったよ。

 研究員全員、それまでもプロとして最大限の努力をしてきたつもりだったが、この『変異ネコ・ウィルス』を使うという方針が決まってからは、さらに研究に熱が入ったね。

 ……知ってのとおり、この手の研究には実験動物が欠かせない。この場合最適なのは、もちろん猫だ。それと人間。

 我々は密かに日本中で野良猫と『野良人間』を集めた。

 おいおい……そんな目で見るなよ。最愛の息子にそんな目で見られたら悲しくなるじゃないか。

 研究所には百匹以上の猫と三十人ほどの路上生活者が実験材料として常時『備蓄』されていた。

 今から六日前、ちょっとした不注意からの一人を実験室の外に逃がしてしまったんだ。

 そいつは研究所じゅうを歩き回りながら次から次へ研究所の職員と警備の自衛官に噛みついていった。

 駐屯地から増援が来たときには、もう研究所内は収拾がつかなくなっていたよ。

 そうこうしているうちに、何がどうなったのか百匹あまりいた実験用の猫も逃げ出してしまった。もちろん、そのうちの相当数が『感染済み』だ。

 どうにか事態が収まった時には、研究所の廊下は頭を撃ち抜かれた職員と、自衛隊員と、の死体で足の踏み場も無かった。

 ……どうした? オレンジジュースを飲んだらどうだ?」


 * * *


 ここで一旦いったん話すのを休んで、父親はグラスにウィスキーを注いだ。

 少年は、自分でも何故なぜだか分からないまま、嫌々をするように首を左右に振った。カーテンを閉め切った薄暗い居間で酒をあおる父親の姿に、ゾッとした。

 父親は話を続ける。


 * * *


「ふん……まあ、良い。

 話を続けるぞ。

 研究所内でいくら死人が出ても大した問題じゃない。権力者に泣き付けば何とか闇に葬り去ってくれるからな。

 問題は、敷地の外に逃げ出した猫たちだ。

 最初は研究所の職員だけで極秘のうちに解決しようとした。

 事が明るみに出たら我々は全員破滅だ。地位も名誉も財産も何もかも失い、残りの人生を監獄で暮らすことになる。

 今となっては馬鹿馬鹿しい限りだがね。

 博士号持ちばかりの研究所職員が、そろいもそろって朝から晩までタモ網かかえて野良猫を追いかけるんだから、笑えるだろう?

 事件発生から五日目の昨日夜遅く、とうとう所長が我々職員を集めて

『諸君、今すぐ荷物をまとめて家族の元へ帰りなさい。もはや我々にはどうする事も出来ない。猫の場合、筋肉の劣化が人間より遅い。つまり人間よりも感染した猫の方が行動半径が広いという事だ。近隣の市町村まで歩いて行った猫もいるだろう。凶暴性を現して他の猫に噛みついた個体もあるかもしれない』

 そして最後に、我々一人一人にある種の薬を手渡しながら言った。

『人間たちに感染するのも時間の問題だ。数日のうちに、世界は地獄に変わる。せめて世界の終わりまで、家族と一緒に過ごしなさい』

 研究所員たちはその薬をポケットに入れ、荷物をまとめて研究所を去り、それぞれの家族のもとへ帰って行った。みんな心底しんそこ疲れ切った顔だったよ」

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