郷と業

 樟脳の香りがする。長く箪笥に仕舞われていたものの香りだ。

 肺がその匂いで満たされた時、畳の編み目が見えた。節々の痛む体を起こし、ぼんやりとした頭で辺りを見渡した。片付けられた部屋の向こう側、襖を一枚隔てた先に鶴を思わせる白と赤の花嫁衣装に身を包んだ人が畳の上に散らばった貝殻をひとり裏返しにしている最中だった。

 占いか、はたまた儀式だろうか。とんかちなことを考えていると、花嫁衣装を着たその人は顔をこちらに向け角隠しの中でふっくらと笑ってみせた。

「やっと起きた」

 存外、若い声に俺は目をぱちくりとさせ、若い花嫁に視線を投げたままにしていた。すると彼女は猫でも呼ぶように手招きする。俺は首を傾げながらも寝ていた場所から移動し、少女がいる前に腰を下ろした。少女の顔を近くでまじまじ見ると、白粉を塗られた顔のきりりと引き締まった細い眉と大きな目がより際立って見えた。唇を彩る紅は赤く、蛇のしなのような艶やかさがある。しかしどれだけ化粧に仕立てられても花嫁のあどけなさは隠せない。彼女はまだ少女だった。

「にいさん」と少女が畳をつく手とは逆の手をひらひらと振っている。

「ああ、悪い。なんだ?」

 一拍遅れて尋ねれば、少女はやれやれといった様子で首を横に振る。そのいかにもといった動作に何が言いたいんだと聞くと少女は嘆息を零しながら白状した。

「妹の晴れの日にぐうすか眠っていたと思ったら、今度は人の顔をじいっと見る人がにいさんだなんて世も末だと思って」

 反論のしようがない。何も言わず押し黙る俺を見て、少女はくすくすと笑った。

「そう笑うな」

「……今くらいは自由に笑わせてよ、にいさん」

 懇願にも聞こえる少女の言葉に俺は違和感を覚えた。白と赤で飾られた少女の横顔を盗み見るように眺めた。「なあに」少し調子を取り戻した声が尋ねる。

 眉を潜めつつ、「これは?」と俺は畳に散りばめられた貝殻を指さした。

「絵合わせをしていたの」

「貝殻で?」

「暇を潰すにはちょうど良かったんだもの」

 そう零す少女の目には早くも疲労の色が見え隠れしている。時間をかけずに終わればいいが、なにせ式だ。両家ともに言い分があり、妙な自尊心がある。そうそうすぐには終わらないだろう。

「にいさんもやりましょう」

「いいよ」

 少女はにこっと笑って自分がすでにめくっていた分の貝を裏返し、畳がケバ立つのも構わずに貝を掻き混ぜる。

「年功序列の精神を守って、先行はにいさんに譲ってあげる」

「どうも」

 似たり寄ったりの形をした貝殻を眺めまわす。貝の数は二つで一組ということを念頭に置いたとしても、ここにある貝だけで二つ三つ献立が出来るんじゃないかと思うくらいに数があるのだ。手近なものから捲るか、と貝を裏返すとそこには雛祭りで見る女雛が描かれている。ふむとまた適当に目についた貝を選ぶ。

 すると、だ。そこには何故か男雛が描かれてあるのだ。呆気に取られる俺の耳に少女が面白そうに笑う声が届く。

「笑うなったら」 

「だったら、一度で合わせるなんて芸当しないで」

「俺だって予想外だ」

 ぶつくさ零しつつ、男雛と女雛の描かれた貝を手元に引き寄せる。

 次はどの貝にしよう。手を動かす代わりに視線を泳がし、遠くのものから近くのものまでをじろじろと観察する。そして一番遠くのものに手をやろうとした時に少女が顔を俯けていることに気付いた。その視線は気落ちするように下に向けられている。俺はこれまでの態度とその視線に含まれたものを総合してこの少女が持つ杞憂の正体に合点が行った。

「どうしたの、にいさん」手を止めた俺に少女はあくまでも気丈に振る舞う。

「馬鹿なことを言ってもいいか」

 野暮ったい前置きだと自分でも思いながら、俺は止めるということをしなかった。

「なあに」

「この結納はお前の望んだものじゃないのか」

 堂々とした振る舞いを見せていた少女はどうしてそれを言うのか、という顔をしながら困ったように微笑んだ。

「にいさんは本当に私に本音を言わせるのが上手ね」

 その言葉に俺は唾を呑む。どうやら俺は藪を突いてしまったらしい。

「この世で大切なことは二つ」少女はぽつりとつぶやく。

「一つ目、流れには身をゆだねること。二つ目、これがもっとも大切なこと」と少女は人差し指を立て口の前に置く。「口を噤むこと」

 少女は内緒話を合図するように置いた手を膝の上に落とし、「雉も鳴かずば撃たれまいって、言うでしょう」と笑って見せた。

「たかが結納だぞ」

「それでもご縁は結べるでしょう。雲の上の人とだって」

「お前の気持ちは無視か」

「無視じゃない、私が噤んだだけ」

「察せなきゃ無視したのと一緒じゃないか」

「にいさん」粗相をした子を叱る母親のような顔で少女は語気を強くした。

「人は仏じゃないの、隠していることを察してもらおうだなんて虫が良すぎることなのよ」

 はたしてそれは俺を説き伏せるためだけの言葉だろうか。いいや、きっと違う。その言葉は俺にではなく、少女が自分自身を納得させるために使って来た言葉なのだ。それが分かった途端、少女に言おうとしていた次の言葉が蒸発するように消えた。この少女に正しさは要らない。そんなものはまるで彼女の役に立たず、年功者たちの口から発せられたよこしまなものの方が価値があり、重みがあり、少女の楔になっている。

 だったら、そんな少女の足枷を外すにはどうしたらいい。どうすれば俺はこの少女をこの場所から逃がしてやれる。ずきずきと疼くこめかみに手を当てる。「にいさん」心配する声、それと時を同じくして俺の目が答えを捕まえた。伏せていた顔をおもむろに持ち上げ、手を伸ばそうとしていた少女に焦点を当てる。

「なあ、賭けをしないか」

「賭け? どんな?」

「もしも俺が同じ貝を揃えたらお前は俺のいう我儘を一つ叶える。逆に俺が揃えることが出来なかったらお前のいう我儘を俺が叶える」

 少女はぽかんと口を開け唖然とした表情をした後、苦い物を噛んだかのように顔を顰めて「いいわ」と返答した。

 よし、と俺は心の中で拳を作って畳の上に広がった貝を見渡す。どれを捲れば、この子の幸せにつながるんだろう。そのことばかりを考えていると少女が視線を落としている貝殻が無性に気になり、最初にそれを捲ることにした。

 ひっくり返したそれに描かれていたのは濃い緑の亀。亀といえば長寿だが、それに対応するものというと……。星屑のように散った数多の貝殻に視線を右往左往させているとまた少女の視線がつい、と裏返されていない貝に落ちる。俺は願いを込めつつ、その貝を裏返した。金色に塗られた貝の腹の中に鶴が飛んでいた。

 もしやと俺は少女を見た。

「にいさんの勝ち」

 今にも消えそうな声を聞き俺は少女に手を差し出した。少女は角隠しの中で目を細めて俺が差し出した手を見返すばかりだ。俺はことが進展しないことを悟りやや乱暴に彼女をその場に立たせた。少女は行き場を失くした子どものようにしょぼくれた顔で畳を見つめている。俺はその場に貝殻を残したまま、廊下に繋がる仕切りの前に少女を立たせた。少女は目を丸くし、やっぱりかというような表情を俺に向けた。

「ここから逃げるんだ」

「だめ、それだけはだめ」

「どうして駄目なんだ」

 少女は目を瞬き、熱のようなものに駆られ喋った。

「怒られるからよ。いいえ、怒られるなんてかわいいことで済むならまだいい。逃げてもし捕まったら、父さんも母さんも怒り狂った鬼みたいに私を責めるに決まってる。……いい、にいさん。この家に一度でも私の味方がいたことなんてないの。いつでも、どこでも、薄っぺらい笑顔を張って生きていくのが私の人生。それで息だけするのは許して貰えていたの。これで息をすることも咎められたら、私にいさんに会うことも出来ないわ」

 思っていた以上のことに俺は面食らう。だが、それは彼女が外へ逃げた方がより良いことも示した。俺は少女の両肩に手を置いて、角隠しで隠れてしまいがちになる彼女の寂しそうな顔を覗く。

「俺はお前の味方だ」

 少女は顔をくしゃりと歪めた。泣いてしまうだろうかと思ったが、少女は涙をぐっとこらえて目の奥へ仕舞い、落ち着いた笑みを零した。

「にいさんは本当に私に本音を言わせるのが上手」

 少女は被っていた角隠しを頭から外してすとり、と床に落とした。彼女の黒髪はほどけない様に後ろで丸めて結ばれている。少女はその結び紐に指を這わせ、髪を自由にさせた。滑るように落ちる髪にはきつく結んでいた為に型が残り、今は波を打っている。

「にいさん」呼ばれ、少女の顔を見れば彼女は懇願するような声で言う。「嫌いにならないで」俺は目を瞬いた。

「馬鹿を言うな。嫌いになんかなるもんか。お前は当然のことをしているよ。家の保身のために好きでもないやつと無理をして暮らす必要なんかないんだ」

 少女は唇を噛み締めて小さく頷き、障子を開いた。障子の向こうでは霧のような雨が降っている。

「大丈夫か?」

「これくらいなら平気」

 少女はそう返し、後ろを振り返った。

「にいさん、ありがとう」

「……、元気で」

 微笑を浮かべた少女は角隠しを踏みつけ、廊下へと出ると障子を閉めた。少女の影が障子に映る。右へ行こうか、左へ行こうか考えているのだ。少女は右へ進もうとした体を反転させ、左へ走る。

 祈っている。お前が無事に幸せに暮らせるように。

 どた、どた、どた。騒がしい音だ。障子を見れば、それはそれは大きな体の影が障子に写っていた。なんだ、これは。驚きながらも少女のことが心配になり、障子を引こうとする。が、それは接着でもされたかのようにびくともしない。なんで、どうして。疑問で頭の中がいっぱいになる。悲鳴が聞こえた。見れば、大きな体の影が手に何かを掴んでいる。キュウ、キュウと助けを求めるような動物の鳴き声がした。大きな体はずしん、ずしんと足音を立てて奥へと行く。

「おおい、嫁御どのを捕まえたぞ」

 遠くへ呼びかけるその影の頭には角が二つ生えていた。

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