やける
「おねーちゃん、生もう一本!」
「はーい!」
「ああー、ちょっと待って。焼き鳥と焼き茄子も、茄子の方はかつお節とすり生姜多めにね」
「焼き鳥に、茄子一丁入りましたー!」
「っしたー!」
掛け声に合いの手が入り、人の気配が一つ場から去って行く。
「なあなあ今の子、可愛くなかったか?」
「あ? おめえはよぉ、女と見たら誰でもいいのか」
「そういう訳じゃないけどさ、俺らが若かった頃にはなかったタイプだと思わないか?」
「興味ねえ」
「なんだよ、つまんねえな」
場の会話がひと段落仕掛けたところで、皮がいい具合に炙られふっくらと身が焼けた魚の匂いがこちらまでやって来て鼻をくすぐった。ごくんと口に溜まった生唾を飲む。気分は餌をお預けされた犬と同じだった。何秒も経たない内に痺れを切らした腹の虫がぐうと空腹を訴える。今の今まで腹は空いていなかったじゃないか。機嫌をなおせよと語り掛けるように腹に手を当ててやる。と、腹の虫はさっきよりも大きな音を立てて反論した。
「ふくく……っ」
独特な笑い声が降る。ぴったりと閉じていた瞼を開くと、「お目覚めかよ、兄貴」となおも笑っているような声色をした言葉がかけられる。俺は声を探して体勢はそのままに視線を上に泳がせた。
「……ったく、呆れたもんだぜ。うちの兄貴には」
てのひらを青いインクで汚した手が顔の上でひらひらと踊る。「さっさと体を起こせよ、太っ腹の弟が好きなモン食わせてやるから」それは起きない手はない。素早く損得の算盤を弾き、むくりと起き上がる。
白で描かれた梅模様の煎餅座布団は長年敷かれ続けているのか、薄っぺらさに磨きがかかっていた。贅沢にも数枚占領していた座布団の一つに座り直すと、横からホコホコと湯気を立てる包んだ布が渡される。
布をまじまじと眺めていると「熱いんだから」と催促された。俺は何も考えずに布を受け取った。と、それは炊き立ての米のように熱く、何度か手の中で転がしてようやく持てる温度になった。
すこしだけ熱さがマシになった布を再び眺めるものの使い道はまったく分からない。台を拭き上げる為かとも思ったが、それなら何故温めるのかという話だ。冷たくても台を拭くことは可能だし、何なら熱した分だけその手間賃がかかるというものなのだから。小首を傾げ、俺はようやく相手を視界に納めた。
膝の上に片手を置いてその上に顎を乗せた二十代後半かそこらの青年だ。彼が腰かけた場所の前には徳利とお猪口、信楽焼の器に盛られた鰯の煮しめや茹でた枝豆、炙られた烏賊のスルメが置かれていた。青年はスルメの足を一本もぎ取ると口に咥えてもぐもぐとよく噛んでいる。「で、兄貴は何食べるんだ?」
俺は渡された布を手持無沙汰にしながら、「何があるんだ?」と質問を質問で返した。青年は軽く肩を竦め、壁の方を顎でしゃくった。促された方向に顔を向けると、俳句を書き起こすような細長い札に料理名と値段が書かれてあった。
「値段は気にしなくていい。遠慮せず腹いっぱい食ってくれや」
豪勢なことだ。そう思いながらも食欲には勝てず札に書かれた料理が次々と頭に浮かんで涎が出て来た。
「俺のお勧めは鯛の茶漬けだな」
「食べたのか?」
机の上には、らしきものがなかったことからそう尋ねてみると彼はやんわりと首を横に振った。
「食べなくても分かる。あそこに並んだ料理の中で一番味が旨いと感じたのはそれだから」
食べていないのに味が分かるとは、これ如何に。俺は釈然としなかったものの勧めるくらいだからとその料理を頼んでもらうことにした。青年は徳利を逆さにし、お猪口に酒を並々と注いで一口の内に飲み干した。
「そういう飲み方をすると悪酔いするぞ」
「まさか。他の奴らはそう出来ても俺を悪酔いさせるなんて出来ない。味だけなんだから」
珍妙な回答だ。眉間に皺を寄せると、青年は腰を浮かせて隣の机にいた男たちの一人に「酒追加してくれ。あと茶漬けも」と頼んだ。「よしきた」と男は体を後ろに倒して向こう側にいる店員に注文をしている。
「友達か?」少しばかり距離を取っている数名の男たちを指さす。
「一年間だけ同じ級だった奴らだよ。俺としてはそこそこ話した程度の記憶しかないんだけどな、何故かここに呼ばれた」
「いいことじゃないか」
「どこら辺が? 話す話題もこっちにはないのに」
きっぱりと答えてしまえる辺り、青年は本当にかつての同級生たちと話す話題がないんだろう。苦笑を零し、ふっとある考えがよぎる。
――では彼ら同級生たちはどうなんだろうか、と。
呼ばれたというのに、かつての同級生たちは青年と積極的に話をする訳でもなく、内輪での酒飲みに興じている。果たして青年がここに呼び出された理由が本当にあったのか、と俺ですら考えるくらいには。
一方で話題がないのだと言い切った本人は蚊帳の外にされている現状をさして気にした様子も無く、一人隣の机の一角でお猪口に残った少量の酒をちびちび飲んでは枝豆や鰯の煮しめといったおおよそ腹に溜まらなさそうなものを食べている。珍妙な同窓会もあったものだ。そうごちつつ青年をちらと見ると、彼は片膝を立てた格好で何かをつらつらと眺め見ている。
「何だ、それ?」
青年は自分が今まで見ていたものを俺に手渡した。
「この店が昼に開けている時のお品書き。天麩羅蕎麦とお稲荷が旨い」
「食べたことは?」
「ない。けどこれを機に偶に通うのもありかもな」
「……さっきから抽象的でいまいち分からないんだがお前はいったい何で旨い不味いを判断しているんだ?」
純粋な疑問を口にすると、彼は枝豆を口に放り入れ噛んだ後、「文字」と短く答えた。間を挟み、「文字?」とさも彼の声が届かなかったかのように聞き返す。
青年は次の枝豆に手を伸ばし、「そうだ」と頷く。
「実際、味に関わらず文字を見たら色々と分かるんだよ」
「例えば?」
「……、そうだな。極端な話だけど、兄貴は『虫』って書いてあったとして何を感じる?」
「虫?」
「そう、虫」
問われ、俺は頭を捻る。虫、虫か。思い浮かぶのは、虫という種類に区別された数多の虫たちの姿だった。
「種類かな。天道虫とか蝉だとかそういう。お前は?」
「俺の場合は味だよ。兄貴が言ったように、奴らはとりわけ種類が豊富だから。多少味つけが変わりもするんだが、まあ基本的に湿気たせんべいみたいな味がするからな、美味くないわけだ」
ぷち、とさやから枝豆を出す青年の声は平坦なものだ。
「でも虫ってやつは、石を捲ったりなんかすると有象無象に出てくるじゃないか」
「そりゃあ、そこら辺をねぐらにしているから」
「そう。だが、あれはひどいぜ。ごっちゃまぜでさ、食えたもんじゃない」
独特な言い回しを聞きながら、ぐちゃぐちゃな地面から共存していただろう虫たちが逃げ惑い、這い出て来る姿を想像して肌が粟立つ。鳥肌が立った腕を摩っているところへ黒字に白抜きの文字が描かれたシャツを着た明るい髪色の女が「お待たせしました!」と元気よく声を張ってやって来た。女は青年の前に朱色の碗と徳利を置き、代わりに空になった徳利を引き払って出て行った。青年は自分の前に置かれた碗を俺の方に置いて、自分は来たばっかりの徳利をお猪口に注ぎ、一口目を飲み干した。
「小さい時からそうだったんだ。文字を舌の上で転がすと、そこに含まれているものが溶けてここに伝わって来る」
青年はとん、と人差指でこめかみを突いた。
「文字だったら何でもいい。手書きでも機械で印字されたものでも、それこそ外国語でも意味を知っているものだったら同じだった」
「その口ぶり、試したのか?」
「その言い方は止めてくれ。まるで俺がもの好きみたいじゃないか」
酒をやおら煽る青年は酔っているように見えた。
「違うのか」
「違う。全然違う」
否定の言葉を連ねて、青年は濡れた口元を乱暴に拭う。
「生まれてから死ぬまで文字っていうのは生涯付き纏うんだ。特に学校に通いだしたら嫌でもな」
語尾がやけに強調されている。
「だから俺が試そうなんて考えることはなかった。そういう場なら本当にいくらでもあったからな」
「よく飽きなかったな」
口を突いた言葉に青年は俺の顔をまじまじと見、「うんざりしないわけがないじゃないか」と言う。
「文字は俺に取って贅沢な食事そのものだったけど加減ってものがある。椀子蕎麦みたいにずっと食べ続けてたら胃もたれだってするし飽きてもくる。もっともらしい言い方をすれば言葉が錆びて食えたもんじゃない」
ふんと鼻を鳴らし、青年は嫌悪の色を顔に張りつかせた。
「泥を噛む、まさにそんな感じだ」
「……、なにか対処方法はないのか?」
「そんなものは鼻からあってないようなもんだよ、兄貴」
「どうしてだ?」
「他人がどうあれ、俺自身が生活をしていたら一緒じゃないか」
ああ、それもそうか。納得し、口ごもる。そんな俺を見てか、青年はこんな事を話してくれた。
「まあ、好き嫌いは激しくなったし、ほとんどが不味くてしょうがないけど食えるものだってあるにはあるんだよ」
人知れずたくさんの文字でその舌を磨いてきただろう青年が食えると評価する文字に俺は興味が沸いた。茶漬けの蓋を開け、「どんなのか聞いても?」と許可を求めた。
「
「恋文だって?」
「なにか問題でも」
無言の圧を感じさせる声に俺はひくつこうとする頬を手で隠した。それもそうだろう。お世辞にも青年は愛想が良くないし、『文字』のことで昔から他人と一線を引いていたのではと思える節すらある。そんな彼を想う人がいたことは嬉しい反面、なんだか妙ちきりんで空笑いが喉奥からこみ上げてくるようなそんな気分なのだ。
「いや、ただ似合わないなと思って」
「悪かったな、似合わないものを貰って」
「気を悪くしたなら謝るよ」
言いつつ、ほぐした魚の身と米を一緒に蓮華に乗せて食べる。青年はじとりと俺を見やり、「兄貴からの謝罪は要らないな」と断った。
「機嫌を直してくれるのか?」
「俺は大人だからな。それに塩っ気のあるものはしばらくいいよ」
「そうか」青年の言葉を十も理解は出来ていなかったが、俺は理解したような素振りを見せ恋文のことを混ぜ返した。「それで、その恋文がどうだったんだ?」
「気になるか?」
「まあ」
青年は勿体付けたようにお猪口の中に注がれた酒をちびりちびりと飲んでいる。
「授業が全部終わって帰宅の準備をしようと荷物を片付けていたら教科書やノートと一緒に一枚封筒が紛れ込んでいた。まるで恋文みたいだなと他人事のように思った。たぶん他の誰かの机に入れようと思って間違って入れたんだろうとも。俺もそこまで鬼ではないし、本命のところまできちんと届けるくらいはしてやろうかと思って宛名を見たら俺の名前が書いてあった」
「……、嬉しかった?」
「どうなんだろうな……? 意外性はあったが」
「なんだ、その煮え切らない態度は。お前が食えるくらい素晴らしい文字を連ねる子なんだろう?」
青年は徳利を傾けた。
「文字は、な」
「何だ、その限定は」
「限定もする。俺は恋文を書いた子と会ってはいないんだから」
ことを理解するのに、数秒を要した。そして。
「どういうことだ?」
「家に持ち帰ってから読んだからだ。宛名が俺になっている時点で悪戯だろうとも思ったし」
「けど蓋を開けてみたら違った、と」
「そうだな」
青年は飲み干したお猪口を机に置かず、手持無沙汰にしている。俺が予想していた反応とは異なり、俺は首を傾げることになる。
「否定しないんだな」
「まあ……、なんだ。素直に会っておけば良かったとは思ったのは事実だし、あんな風に言葉を一個ずつ丁寧に丁寧に拾い集めて作った文も初めて見たからな」
「ふうん」と相槌を打つ際、無邪気で幼い声が優しく響く。『初恋はね、檸檬の味なんだって。知ってた、兄さん?』懐かしくもあり、親しみすら感じる声だった。
「これは興味本位なんだが、その文字たちからはどんな味がしたんだ?」
スルメを噛んでいた青年は視線をちらとこちらに向け、片手を俺に出した。
「なんだ、それ」
「駄賃」
「お前なあ……」
「冗談に決まってるじゃないか。兄貴からは十分すぎるほど駄賃を俺は貰ってるよ」
笑う青年だが、当然のように俺は彼になにかをあげた覚えがないのだ。
「そうなのか?」
「ああ、覚えがないのはきっと兄貴が忘れているだけだ。だからでんと構えてりゃいいんだ」
「……、そうか」苦笑を混じらせ、「それで」と先を促す。
「兄貴も存外下種なんだな。そんなに知りたいか、恋文のこと」
「何とでも言ってくれ。気になるものは気になるんだ」
「正直だな、兄貴は」そう言いながら青年はぼんやりと空を見つめた。遠くにあるものに思いを馳せているように。
「白い便箋だった。使い慣れているだろうに、何故か水性のペンで書かれた文字はたどたどしかった。でもその拙さが俺にはほどよい距離感に思えた。邪魔にならず、だけど見えない距離でもない。絶妙でもあって、もどかしくもあった。どんな奴か、と探ってみようとしたらたちまち霧みたいな奥深さに阻まれるんだ。姿が見えない。覆い隠されている。普通に書かれた文字でも多少は人となりが見えて来るんだが、この恋文の相手に関しては全くだった。何だか妙にそのことが悔しくって意地でも相手がどんな奴なのか掴もうとしたんだ。文はひたすらに丁寧だったよ。馬鹿丁寧と言われてもおかしくないくらいだ。恋文なのに、そんな色気はとてもなくて、それどころか悲哀ぽかった」
「悲哀」
青年の言葉を鸚鵡返しにする。耳元で、切なく侘しい旋律がぽっかり浮かぶ満月の姿を浮かばせた。
「そう。ただ文面を読んだら、それこそどんな男でも心を奪えそうな女の子が恥じらって直接手紙を渡せなかったことやどうして俺にしたのか、そんなことを説明していたけど……、文字は溺れていたな」
「どうしてだろう」
「有体に言えば、苦しかったんだろうな」
「……何が?」
「そこまでは俺にも分からない。ただ」
「ただ?」
聞き返すと、青年はしまったという顔で自分の口元を隠し、そろそろと俺と視線を合わせた。
「今のは、聞き逃してくれないか」
「下種な兄貴だからな」
「……、ちっ」
視線をじぐざぐに動き回し、青年は溜め息とも深呼吸とも取れない深い息を吐いた。
「
「紅? 口に塗る?」
「それもいっとう真っ赤な。……、頭に残るだろう?」
「ああ」
「文章としてまず感じたのはそれだ。だけど面白いんだぜ兄貴。こっちに向かって叫んでいるみたいな色を文字の裏に隠す癖に、味は薄荷に氷砂糖と水が混じって薄まって勿体なかったんだ」
「背反しているってことか?」
「まあそうなる」
納得し、彼は空っぽになったままのお猪口の中を見つめた。
「兄貴。俺はこの恋文を出してくれた子が書く文字に心底惚れてるんだ」
「……、もう一度会えたらいいのにな」
「すこし恐ろしくもあるけどな」
小首を傾ぐと、青年は苦笑した。
「俺は告白の返答をすっぽかしたんだから」
「それはたしかに恐ろしい」
青年がいう意味が分かって俺も苦笑する。と、「飲んでいるかあ?」と調子が上がった声が降る。見れば、隣の机で飲んでいた一人が金色の液体が注がれたグラスを片手に持っている。
「飲ませてもらってる」素っ気ない回答に髪を浅く刈った青年がからから笑う。
「そりゃ良かった。あ、今日の飲み会の金は俺たちが出すからジャンジャン飲んでくれ」
「懐が温かいんだな」
「ははっ、先生には負けるけどな!」
『先生』、という単語を聞いて青年を振り返る。
「デビュー作の小説、結構な売れ行きらしいじゃないか」
「色々広告に出して貰ったお蔭だ。俺だけの名前じゃああも売れてない」
「謙遜は止めろって。うちのカミさんもお前が書いた小説を持っててこれはいいって何度も言ってたぜ」
「そりゃどうも」
「次回作の予定はもう決まってるのか?」
「話し合い中だ」
そうかそうか、と浅い髪の青年は馬鹿の一つ覚えのように何度も頷き、やがてその顔から少しずつ明るさを失くして行く。どうしたんだろうと思っていると、彼は重たい口を開いた。
「なあ、あのさ。覚えているかどうか分からないんだけど、お前昔恋文を貰わなかったか」
どうして彼が知っているんだろうか。俺が思う疑問を青年も同じように抱いたのか、「貰ったな。入れるところでも見ていたのか?」と聞いている。
髪の浅い青年は苦い顔をしつつ、ぽりぽりと頬を掻いた。本当にやるせなさそうに。
「その……、変だなって思っただろう」
「何が?」
「今日の集まりにしろ、その恋文にしろだよ」
集まり自体には俺も違和感を感じたが、それと恋文とが繋がるのか。俺は喉が締め付けられるような気分になりながら、青年の顔色を覗き見た。彼は級友と話す以前と今とでその表情になんら変わりはない。
「薄々は感じていたから行かなかったし、変だなと思ったから今日ここに来たんだ」
青年は淡々と告げた。だがそれは先ほど、俺が聞いた話とは違っていた。「そうだよな…、そうだよな」級友だった青年はうわ言のように繰り返す。
「もう時効だよな」
ほっと安堵した声が俺には恐怖が扉を叩いた音に聞こえた。
「お前のことだろうからとっくの昔に気付いていると思うけど、あの恋文さ俺たちの悪戯なんだ。あっ、実際に書いたやつはまだ来てなくて。ほら一人いただろう、地味なのが」
「さてな、もう覚えてない」
「いたんだよ、とにかく。あっちで飲んでるやつの一人が恋文を書いた奴と中学校が一緒で、作文とか感想文とか書くの滅茶苦茶上手いって言うから、じゃあそいつにお前宛の恋文を書かせてみようって。それで出来上がったの見たら案外上手く出来ててこの恋文ならお前も騙せるんじゃないかって思ったんだけどなあ」
元級友はそう言って手持無沙汰にしていたグラスの中の液体を飲み干した。青年はその様子を眺めながら、「甘いんだよ」と切り捨てる。
「あんな見え透いた手紙を本気にする訳がない」
「少しくらいは自信あったんだけどな、俺たちは」
「そうかよ、じゃあ一番高い酒頼んでも?」
「あー、ちょっと待て! どれだ、財布と相談させてくれ」
頬を真っ赤にさせた級友は瞼に溜まった眠気と格闘しながら札に書かれた値段を視認しようと何度も目を瞬いている。「兄貴、出るぞ」ひやりとした声が耳朶を打つ。
俺が青年を見上げた時には既に彼は腰をおもむろに持ち上げ、目線の下にいる級友だった青年を高い度数の酒で濡れ濡れとした氷のような熱いとも冷たいとも言えない目で見ていた。果てしなく、救いようがない。あたかもそう言いたげに。
彼はゆっくりと唇の端を上げ、「冗談だ」といかにもという具合に伝えた。
「はあーっ!?」級友が体を机の上に机に体を乗り上げていた級友がそう叫ぶ中、「ごちそうさん」と席を立った。青年は個室を出てすぐに縁側に腰を掛け、靴を履いている。
俺も青年にならおうとしたが、自分の靴が見当たらなかった。どこに置いたんだろう。辺りをきょろきょろ見渡していると靴を履き終えた青年が「どうしたんだ」と小さな声で尋ねる。
「靴をどこに置いたのか忘れたみたいだ」
「……、そこのを使えばいい」
そう言って青年が指したのは、紺の鼻緒の下駄だった。
「店のじゃないか?」
「後で、断っておくよ」
それならと俺は下駄を履いて先に店の外に出ていた青年と合流した。青年は俺が出て来たことを確認し、烏羽色の空を見上げ、それから何も言わずに歩き始めた。俺は彼にどんな言葉をかけるべきか考えあぐねていた。
食べるに食べれないもので感覚が錆び付いて行く時の中で、悪戯とはいえ恋文としてしたためられた文字たちに青年は恋をしたのだ。だからこそ悪戯であっても、知り方というものがあった。級友たちが設けた告解場は彼にとってもっとも不本意なものだったろう。
そう思うと、俺は彼に何も言えないのだ。彼らにその気がなくても『ご馳走』をもたらしてくれた級友たちを一緒になって責めることも、青年が心を掴まれた『恋文』に宿っていた少女をいないことにしてしまえと言うことも。
若き日の嘘とはいえ、青年の中に確実に少女が零した文字はあったのだから。
カラン。下駄の歯が地面に当たる。
コロン。月も星も分厚く黒い雲に囲まれ、何も見えない。
「なんだったんだろうな」目の前をぬうっと通る犬猫に話しかけているような調子だった。「俺が感じたものは」俺はそれに答えれない。
「舞い上がっていたんだ。あの美しい文字たちに」
ぽつぽつと喋る声が寒々しく聞こえる。
「夢を見ていたんだ」
「……、夢なんかじゃないだろう」
青年が筆舌に尽くしがたい顔でこちらを振り返る。
「これが夢じゃなくてなんなんだ。どうしても夢じゃないっていうなら教えてくれよ、夢路兄さん。俺はずっと何を糧にして生きて来たっていうんだ」
「そんなこと本当はお前自身がよく分かっているんじゃないか」
唇の端を柔らかく噛むと、喉奥につっかえていた言葉が押し出される。
「お前が受け取った恋文に綴られた豊かな文字に感じたものが全てだろう。なのに、そのことを感じたお前自身が否定してどうするんだ」
「……いないんだよ、どこにも。俺が惚れた子は」
そう呟き彼は自分の顔を覆い、「くそ」と悪態を吐いた。曇天に隠されていた月は徐々に顔を現し始め、海底に差し込んだような生白い月光に青年の顔が照らされる。
と、青年がいる場所にだけはらはらと季節外れの雪が散り始めた。俺は突然のことに目を凝らした。
『雪』と認識したそれは青年の口元から零れている。その姿こそ雪のようだが、よくよく見てみればそれは紙吹雪だった。風に舞い、小さな紙の屑はどこかへと飛来して行く一つを俺は掴み取る。粗い目の白紙にじわりと文字が浮かぶ。蚯蚓がのたうち回ったような汚い文字だった。何と書いてあるのかさえも読み取れない。
しかし絶えず紙は青年の口から溢れ続ける。蟹が泡を噴いているかのようだ。
「兄貴」喋っている今この時にも散る紙を一枚青年は手に取り、こう言った。「これは、燃やすよ」
俺は恐る恐るに尋ねる。
「それは何だ?」
青年はにっこり笑って、ぱちん、と指を弾く。その音を合図に紙吹雪たちは炎に包まれる。暗い夜道に赤い光が灯り、次の瞬間に消えた。燃え尽きた紙は灰に変わり、砂時計の砂のように流れ落ちて行った。
開いたままの口に風に乗せられた灰が入り込む。咄嗟に手で口を塞いだが、遅かった。舌の上でじわりと溶けるその味は、青年が嬉しそうに話していた――。
「恋心だ、兄貴」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます