平平凡凡

 閉じた意識の中にピアノの音色が溶け込んで来る。煩わしさを覚えることなく瞼を開き見えたのは黒い点の模様が刻まれた白い天井だった。しかし俺にはその独特な天井に見覚えがない。ここはどこだろう。眉間に皺を寄せて起き上げる。ぎしりと鉄が軋む音が聞こえた。驚いて体の下を見ると色あせた椅子が並んでいる。学校でよく見かけるあの椅子だ。どうも俺はこの椅子をいくつか横に並べて、その上でぐうすか眠っていたらしい。道理で背中が痛い訳だ。

 と、横からあの音が聞こえ、顔をそちらへと向ける。そこには黒いピアノと小柄な体を少し前に屈めて鍵盤の上に指を走らせる少年がいた。少年は思わずこちらの口元が弛んでしまいそうになるくらい楽しそうな表情で楽器を演奏している。心地よい音色に耳を澄ませると、見たことも行ったこともないはずの湖畔の風景が浮かんだ。

 湖のほとりでは、濃紺のベレー帽を被った子どもが淵をなぞるようにスキップして歩いている。そのはるか手前では、白い日傘を差した妙齢の女性が優しげに微笑みながら子供を見守っていた。

 平凡だ。とても。でもずっとそうであればいい。そう願いたくなるような優しい光景だった。

 瞼をそっと開くと、少年はまだ楽しそうに尊さすら感じる場所を音で描いている。俺は再び瞼を閉じた。そうすると、あの平和が形を得たような風景が当然のように脳裏に映るのだ。音を味わう。その意味こそ分からなかった俺だけれども、今ならはっきりと分かる。音は料理のように舌鼓が出来るもので、絵画たちに負けず劣らず美醜のあり方を問いかけてくるものだと。

 頭に流れる映像では、子どもがくるっと振り返って女性に向かって手を振っていた。女性はえくぼを作り、子どもに手を振り返している。子どもは白い歯を見せて前を向きまた歩き始め……、何も見えなくなった。

 ぱち、と瞼を開くと少年もまたこちらを見ていた。

「や」親しげに少年は俺へと声をかけ、軽快な音を鳴らしてみせる。

「やあ」

「五月蠅かった?」

 言いながらも、少年は鍵盤に触っていないと落ち着かないのか、音と音の間を繋ぎ続けた。

「いや、むしろずっと聞いておきたかったくらいだ」

「そう、それは嬉しいけどちょっと無理かな」

「どうして?」

「僕がピアノを弾くのは今日で最後だから」

「もったいないな。怪我でもしたのか?」

「ううん、このとおり」

 彼は絆創膏一枚貼られていない指をこちらに見せた。

「じゃあ……、学業に専念するとか?」

「違うんだなあ、これが」

 人が二人座れそうな革張りの椅子にかけなおして、少年は壁にかけられている音楽家たちの肖像画を眺める。

「僕には才能がないんだ、兄さん」

「……、才能?」

「そう、才能。どう説明したらいいのかな。……そうだ、兄さんは奏者の見分け方って分かる?」

「奏者の見分け方?」

「伴奏曲は生でその演奏を観ない限り、奏者が誰なのかなんて一回で分からないでしょう?」

「まあ、……そうだな」

「ね。すると奏者には観客に自分だと分かって貰う為の味を持たなくちゃいけなくなってくるんだよ」

「例えば?」

「僕は表現力だと思う」

「楽器で?」

「楽器で。楽譜にある音符たちが紡ぐ曲は作曲者が作った音が言語の物語で、僕ら奏者は音の翻訳家。観客の人たちに僕らが訳した物語が見えたら大成功。見えなかったら、まだまだ腕が足りないっていうこと」

 だったら、少年はもう十分に味を出しているように思えた。だって俺にはあの夏の午睡のような長閑な風景を見れたのだから。

「お前は、自分に才能がないと思っているのか?」

「……、よく分かんないよ」

「分からないって、お前」

「だって、兄さん」愛おしそうに少年の指が無骨な鍵盤を撫でる。

「僕はピアノが弾けたらそれで良いんだよ。十分なんだ。ぴかぴか光ってばっかりのトロフィーなんか僕、要らないよ。要らないんだ」

 ああ、そうか。この子にはまるで闘争心がないのか。だけれど彼が末席に座るその場所は競争で出来上がっている世界だ。一番星から屑星まで平等に選り分けられる美しい見目を装った残酷な世界の一つだ。

 そんな場所で、彼は一番になることではなく、ピアノを弾くことの方を選んでしまったんだろう。その齟齬がどれだけ後々、自分に痛みを与えるかも知らず。最初から一番になることを目指していれば……。いいや、彼が競争心を持った時点であの優しい音は彼の中で霧散する。そして永遠に彼の手に戻らない。そんな気がする。彼もまた一人の奏者なのに。

 開け放たれた窓の向こうから吹く風が俺の首筋を舐めて行く。少年は唇をきゅっと結んで再び体をピアノへと向けた。背中をぴんとした状態で椅子に座り、肩を脱力させる。瞼は硬く瞑って、十本の指をそっと鍵盤の上に並べる姿は何か尊い儀式を行っているように見えた。少年は瞼を開き、その黒い目に天井の模様を映した。そうして何秒か経った後、彼は巨大な中に繊細な音を秘めた楽器を見据えひっそりと幕を上げた。

 ポロロロ……。ピアノは切なくも甘い響きを音に持たせると、それは淑やかに動き始めた。

 咄嗟に、俺は瞼を伏せた。

 見えるのは、夜道だ。暗い夜道。電柱一つもないその道を歩く者は自分以外になく、暗い空には騒がしい星たちもいなかった。ただ滲んだ黄色を輝かせている月がいた。周囲に誰も人がいないことにもの悲しさを抱きながらもどこかほっとする。人と同調することの煩わしさから逃げれたことと群れから離れられた開放感が混ざり合って存在していた。不思議と後ろめたさは感じられず、清々しいばかりだった。

 足元で伸び縮みする影に視線が落ち、ピアノの曲調と音が持つ雰囲気ががらりと変わった。

 音は腹の底をぐねぐねと蛇行しながら、杭でも打ち込むみたいな重い音色を残して行く。けれどもそれはけして暗鬱な曲にはならなかった。

 例えるなら、そう。冬が終わり、春が来る曲だった。閉じた季節はこれでもうおしまい。これからまた希望にあふれた季節がやってくる。春の乙女が凍てついた地獄と青い貌をした夫から逃れたことで地上に光が帰ってくる。人々の歓喜は音という形で表され、俺の頭に染み込んで行く。

 やはり少年は素晴らしい表現力を持っている。しかも穏やかな方面に特化した表現力を。俺はもう彼の背を押してやりたい気持ちでいっぱいだった。どうか弾き続けてくれ、と。悲しいことがあった人にも、苦しいことで悩んでいる人にも、この子が奏でる音色はそっと人に寄り添い、明日をくれることだろう。

 だから、辞めないでくれ。瞼を開いて椅子から立ち上がった瞬間、ピアノが断末魔を上げた。目に飛び込んで来たのは鍵盤に指を打ち付け、肩で息を切る少年の姿だった。少年は自分の行動に混乱しているのか、見慣れた白と黒を見つめては深呼吸をしている。俺は自分でも不可思議だと思う行動を取った少年に視線を送り続けた。すると彼がそれに気付きこちらを振り向いた。

 俺は息を吸い込んで、一つだけ尋ねた。

「お前はどうしたいんだ?」

 くしゃり、と少年の顔が歪んだ。

「諦めたくないよ。けどしょうがないじゃないか。先生は僕にはもう後がないって仰るのに、母さんや父さんは諦めなければ努力が実るって。大人はちぐはぐなことばかり言うんだ」

 恨みがましそうな声に、口の中に苦い味が広がる。少年は今にも泣き出しそうな顔をピアノへに向け、指ですぐに消える音を生む。

「僕は知っているよ。僕が凡人だってこと、先生や父さんたちの誰より知っている。だって自分のことだもの」

 からりと少年は笑い、俺に「笑わないでね」と前置きをしこんな話をした。

「僕、ピアノと出会った頃は僕が弾く音で誰かに音の世界を見て貰えたらどんなに嬉しいか、ってそんな夢ばかり見てたんだ。でも現実に夢なんか持ちこんじゃダメだったんだ。僕よりピアノの音を上手に出せる奴なんてごまんといる。それでいてみんながみんな質の高い音の世界を見せれるんだから、本当に……痛感するしかなかったよ。それでも最初は頑張ったんだ。夢を叶えようと思って努力したよ。自分が天才じゃないことぐらい分かってたから、あそこにいる誰にも勝てないって分かってたから、毎日ピアノに触れて音符とたくさん追いかけっこした。けど……、先生は合格をくれなかった。僕の夢は僕自身が潰してしまったんだ。夢が叶わないって分かってからは、ピアノを弾くことだけでも許して貰えるようにピアノを弾いたよ。だけどそれもダメだった」

 少年は暗い顔で尋ねた。

「ねえ、兄さん。僕はどれだけ努力すれば、どんな人たちに認められれば、ピアノを弾くことが許してもらえるのかな」

「ピアノは、……楽器は許されなきゃ弾いちゃいけないものじゃないだろう。自由にやっていいものだよ」

 少年は一瞬真顔になって、「うん、そうだね」と頷いた。

「なのにおかしいね、兄さん。誰もそんなことは言ってはくれなかったんだ」

「分かった。俺がそいつらに話すから」

 腰を浮かせる俺を前に少年は首を横に振る。「いいんだ、もう」俺は目を点にして、「いい訳がない」と少年の妥協を切った。

「価値ばかり求める奴らなんて放っておけばいいんだ」

「そんな訳にはいかないよ」

「どうして?」

「あの人たちは僕の音を評価してくれる大切なお客様なんだ。そんな人たちが言うことを放っておくことなんて、僕には出来ないよ」

「……っ、なら俺の声もちゃんと聞いてくれ」

 少年はたっぷり時間をかけて、無理やり笑った。

「兄さん、いいんだよ。僕は兄さんがそう言ってくれただけでもう十分に救われたから。それにね、僕はもう何の為に努力していいんだか分からなくなっちゃったんだ。……だからもうこれでピアノはおしまい。触ったりしない。思い出したりもしない。音から僕は離れるよ」

 遅かった。少年はもう自分の未来を手離している。そこに至る道をけして楽ではなかっただろうに。しなくてはならなかったんだ。自分がピアノを辞める為の決断を。どうして誰も彼に楽器は自由に弾いていいものなのだと教えてくれなかったんだろう。

 歯を噛み締める俺の前で少年は鍵盤の上に赤い布を敷き、鍵盤蓋を下ろした。そして俺と目が合うと、彼はポケットから赤い紐を取り出した。一見すると、毛糸にも見える太く柔らかそうな紐だ。

 少年は何となしにそれを自分の耳にくるくると巻き付けて、顔を上げた。

「兄さん、知ってる? 耳はね、音を拾う貝なんだよ」

 耳にくくられた糸を少年は合図もなしに引っ張った。直後、ぼて、と間抜けな音が聞こえた。じゃがいもが地面を転がるような音だ。

 恐る恐る床を見やると、棘がはえた巻貝が一つ落ちていた。貝は最初こそ石膏で出来たかのように白かったが、すぐに色を白から赤へと変貌させた。貝の色が変化する理由は分かりきっていた。少年がいうように耳は音を拾う貝であるのならば、そこにある巻貝は少年の耳なのだ。赤く染まったとして不思議じゃない。ぼて。またあの音が聞こえ、視線をずらすとそこにもまた白い巻貝が落ちていた。しかしこれもすぐに赤く染まるだろう。他でもない少年の血によって。

 少年は床に落ちた二つの巻貝を冷めた目で見つめていた。が、ふいにそれらから視線を逸らして譜面台に置かれた楽譜に手を伸ばした。彼は床の上に広げた楽譜から譜面を何の躊躇なく破り取った。無残な姿となった楽譜はその場に置いたまま、少年は赤く染まりきった巻貝の前に戻った。赤い貝を見る目には形容しがたい色が覗いている。

 少年はその場に腰を据え、手に持っていた楽譜で巻貝を一つ一つ個別に包んで行った。楽譜で何重にも貝を包むと、彼はそれらを両手に持って音楽室の隅にあるゴミ箱の中に落とした。そしてそれが済むと彼はこちらを振り返り、深々とお辞儀をした。

「ありがとうございました」

 その一言だけをくれて、少年はこの部屋から出て行った。結局、彼を引き止めることは出来なかった。それどころか、少年は音を聞くことを止めてしまった。瞼を瞑る。残滓のように、彼が見せてくれたあの幸福な世界が見えるかと思った。しかし期待という言葉はもうここに残っていない。少年が描いた陽だまりに満ちた場所は埃や消しゴムのカスで汚れた箱の中に埋められた。

 他ならぬ、観客たちの手によって。

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