one.two.(k)night

――ピィッ!

 歯切れのいい警笛の音が頭の奥まで響き渡り、さざ波一つ立っていなかった意識の海に海月一匹くらいの自我が浮かび上がった。

 のっそりとした動作で起き上がり、最初に目に飛び込んできたのは『図書館からのお願い』という文字だった。図書館を利用する上で守って欲しい約束事がいくつか箇条書きにして書かれたもののようだ。

 携帯電話は玄関で。飲食物の持ち込みは禁止。長時間の勉強は別棟にて。ざっと内容を検め、ふわあと欠伸をして再び机の上に頭を乗せる。眠気が余韻としてまだあったんだ。

「お目覚めですか兄上」

 差し障りがないよう配慮が込められた小さな声が左側から届いた。

 が、顔を向けた先にあるのは人の目など気にしないと言いたげに積まれた分厚い本の山だった。高く積み上げられた本たちに一貫性はないみたいで歴史や宗教、言語、はたまた料理の本までも混じっている。しかもその本のどれもが違う国々のものだった。

 馬鹿みたいに呆けていると、「ああ、やっぱり起きていらした」と本の山の横から一人の少女が顔を覗かせた。

 全体的にほっそりとした顔立ちをしている。すっとした鼻にかけた縁が太い黒眼鏡の奥には底なし沼のように澱み、もう片方は満天の星でも埋め込んだのではと思うほどきらきらと輝く特徴的な瞳があった。

「息災でしたか」少女は人懐こく尋ねる。が、どこか大人びた感じもした。

「ああ、俺は。お前はどうだった?」

「私も元気です。日に三食きちんと戴いているお蔭ですね。今日は学校でお友達におやつも勧められましたし、こと食事についてはほとほと困りません」

「いいことじゃないか」

「良すぎるのも時として考え物ですよ。太って身動きが上手く取れなくなってしまうんですから」

 そう苦笑する少女の肩では、花のつぼみをあしらった髪飾りが揺れていて黙っている少女の雰囲気にはぴったりだったが、喋り始めるとどうにもちぐはぐとしてしまっている。

 まあ、自分を何で飾ろうが勝手だしな。一人ごちて俺は最大の疑問である本の山に話を移した。

「これは全部読むのか?」

「いいえ、もう読んだ後です」

「全部?」

「そう驚くことでもありません。それとご安心を、読むのに一週間以上かかっています」

「けど分厚いじゃないか」

「そんなものですよ。国を本で細かく知ろうとすれば」

 納得出来るような、出来ないような。そもそもこの子は一体何を知ろうとしているのだろう。それぞれ透明な膜に包まれた本を指で撫でて、「勉強熱心なのは素晴らしいとは思うが、こうまばらに読んで何を知りたいんだ?」

 俺の問に少女は瞼をゆっくりと伏せる。

「我が故郷のことを」

 返って来た答えに俺は首を傾ぐ。

「故郷もなにも……、ここはお前が生まれた国じゃないのか?」

「残念ながら。兄上、私の故郷はこんな風に身分に関係なく書物を手に取ることなど出来ませんでした。身分の差がはっきりとあります、種族の差も。学校といった機関も存在しませんから、文字を読むことが可能な者もごく限られていました。何時外敵がやってくるやも分かりませんので、枕元の近くには武器を必ず置くようにしていましたし、本当の意味でぐっすりと眠ることなんて出来た試しがなかったのです。食事だってそう。お腹いっぱいになる為の麦や肉、魚はすべて身分が高い方々の腹に収まって、下の者はいつだって空腹を満たせず死んでいく国でした」

 少女から聞かされる『国』は一昔まえのこの国とも似ていた。本の一つに触れると、瞼の奥から金魚の尾のようにゆらめく赤い炎が舌なめずりをして家屋を焼いて行く様が浮かぶ。

「ですが、これはまだ小さな不幸です。高貴な方々よりも貧民や亜人の方が大半を占めていましたから、不幸もみんなで分配すれば一人で飲み込むに困る大きさではなく、誰もが持っている一部になり下がれてしまう。そこまでは良かった。本当に不幸といえることは、お互いの姿かたちが違うことで戦を始めたことでした」

 少女の声にすこし、ほんの少しだけ痛みが灯って澱んでいた瞳が月の光に晒される夜のように晴れて行った。

「その戦争は国の歴史に何度も登場してはそのたび登場人物を変えて仮初の勝利と敗北を重ねて今も続いているんです」

「……、今も?」

 少女は自らの――今は薄く淡い色になっている――片目を指さした。

「こちら側で戦争は今も続いているのですよ、兄上」

 唾をのむ。

「つまり、どういうことなんだ?」

「兄上、私が見ているものとこの世界を一緒に考えるのはよくありませんよ」

「よくないって……、じゃあお前はどこからやって来たっていうんだ?」

 少女の目がつい、と傍らの本の山を指す。

「この世界ではないどこかから、です」

「なんだ、それは」

「分かりづらいとは思いますが、本当にそうとしか言えません。この建物にある関係性のありそうな本を端から端まで順繰りに読み解きました。それこそ彼女がひらがなから難しい文字も読めるようになるまでの時間をかけて。けれどそうしたところで私がこの片目で見ている戦争は、国はどこにも記されてありませんでした。むしろ私が知る国に一番近しいのは――、」

 凛としつつも落胆する少女は机の上から鞄を取り、膝上に乗せてその中から机に乗せられた本よりも二回りほど小さな本を取り出した。子どもが描いたのか、大人が描いたのか判別がしづらい絵は鎧を着た金髪の男の子が剣を天に向けて掲げていた。

「ファンタジー、あるいはライトノベルというものに分類されるものの中にあるのですよ」

「それは……、どういう本に分類されるんだ?」

 聞いたことがなかった単語に説明を求めると、少女は表情を硬いものに変える。

「創作です、兄上。現実には存在せず、誰かの頭の中にだけしかない。そんな世界にこそ私が見ている世界は……、故郷はもっとも近しい」

「でも、……お前はここにいるじゃないか」

 何とか言えた言葉すらも、少女の中ではとうの昔に出していた答えの一つなのだろう。彼女は悲しいとも虚しいとも分からない表情で、「この世とはあまりにも不思議ですね」と慰めるように自分の片目に指を当てる。

「これは推測ですがあちらの世界にいた際、私の身に何かしら異変が起こった結果、こちらの世界に私の精神は飛んでこの少女の肉体に結びついて、その代わりに少女の精神は元いた世界の私の肉体に宿っているのではないかと」

「途方もない話だな」

「そうでなくては説明が付きません。むしろそう考えた方が説明がつかなかったことにあらゆる根拠が持てる。最たる例がこの目です」

 話しこんでいる内に澱みが戻ってしまった瞳を少女は指さす。

「私が寝ていようがいまいが、瞼を開けていようがいまいが、どんな状況であろうともこの目はあちらの世界を映し出すんです」

「拒否は出来ないのか?」

「視覚が見るものをどう拒否するんですか、夢路ゆめじ兄上」

 言われ、想像してみる。ほぼ一方的にかつ半ば強制的に見せられる生々しい戦争の映像を。考えただけでげっそりとしそうな上に、どんどんと心が荒んで行きそうだった。

 伏せていた顔を上げると、少女は硝子窓の向こうにある噴水と青い空を眺めていた。

「この何年か、ずっと故郷の影を探し求めて来ました。でも目ぼしい情報どころか、調べれば調べるほど私が見ているものが夢のようにしか感じれないのです」

「夢かもしれないじゃないか」

 少女は唇を噛み、「夢じゃありません」と首を横に振った。

「あれは夢じゃない。だって夢は別にんだから」

 含みを持ったそれがやけにひっかかる。

「それに最近は声も聞こえるようになったんです」

「声? どんな?」

「”帰りたい”、と」

 一瞬にして、頭の中が白紙になる。そして苦し紛れでも『夢じゃないか』と済まそうとした自分自身を殴りたい衝動に駆られた。

「一刻も早く元に戻らないと。じゃなきゃ、私はまったく無関係の少女を彼女に関係のない戦争で殺してしまう」

「だが……、方法は」

 少女は嘆息する。

「ありません。故郷に近しいと思う世界を描いた本に縋りもしました。けど捲っても捲っても、出て来るのは勇気に満ち溢れた少年が健気でか弱い少女を救う。私とは大違いのお話ばかりです」

 影を差す少女が自嘲気味に笑う、まさにそんな時だった。

「あー、おほん」とやけにもったいぶった咳込みが背後から聞こえた。見れば、棒切れを思い起こさせるような細く背が高い青年が立っていた。青年は少女に視線を向け、「またきみか」という。少女は青年の一瞥を受けても表情を変えず、青年から何かが言われるのを待っていた。

「前にも一回言ったと思うけど、困るんだよ。

 そういうの? 俺は青年が意味するところが分からず、少女を見やった。彼女は理不尽さすら覚える口調の青年をただ見返し、「覚えています」と答えた。

「なら、こっちも覚えてる? 他の人の邪魔になるようなことは慎んでほしいって」

 少女は頷いた。青年は少女の態度にかちんと来たらしく眉間に皺を寄せた。

「ここは公共の施設だけどみんなで使うためのルールがあるっていうのは君でも分かるだろ。机や壁に貼ってあるお願いごとは俺たち司書がなかなか言いづらいことだ。で、前に君に注意した時に言ったことは暗黙のルールってやつで、人間が群れで生きて行くためには分からないと駄目なルールなんだよ」

 「分かる?」やや強い口調で青年は問う。少女はすっと椅子から立ち上がり言い放った。

「あなたには、私が人の輪を乱す狂人か何かに見えるんですよね」

 歯に衣を着せないそれに青年はひるんだ。視線が左に右にとふらついている。

「正しいですよ、あなたは」少女は救いを与えるかのごとく青年に告げる。「あなたは正しい。私がおかしいんです」少女はそう言った後、深々と青年に頭を下げた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。もうここに私は来ませんのでご安心下さい」

 謝罪を告げてから少女は鞄と傍らに置いていた本の山を両手で軽々と持ち、何も言い返せないままでいる青年の横を通り過ぎた。去り際、少女は折り目正しく目礼を取ることを忘れなかった。

 少女がその場から去って数秒後、俺は彼女に置いて行かれたことにようやく気付き、本を元あった場所に戻しに行った少女の後を追いかけた。青年は石のように固まったままだった。

 俺が追い付いた頃、少女は両手にあった本のほとんどを片付け終え、図書館と玄関とを繋ぐ場所に立っていた。小走りで少女の傍に行くと、彼女はさっき青年から苦言を呈されたことなど忘れたかのようににっこりと笑い、「もうすぐ雨が降りそうだから」と家に帰ることを提案した。俺はもごもごと口を動かして、「そうだな」と空の様子を窺った振りをして同意した。

 空はだんだんとねずみ色に染まりつつも、肝心の雨が降る様子はまだない。少女は黙り込む俺を気にしてか、「どんな夢をご覧でしたか」「幸せな夢でしたか」とつぶさに話をしてくれるのだが、どちらかといえば俺が少女にしなくてはいけないことだった。

 俺には少女が狂人には見えない。ただ彼女の願い事をかなえる術も持ち合わせてはいなかった、情けないことに。

 話を聞く限り、あちらの世界で少女の身に何かが起こったからこそこんな風になったのは明らかだが、その何かというのが全く予想がつかない。そも少女はあちらでどういう人間だったのだろうか。

「なあ、」

 声をかけると、先を歩いていた少女はぴたりと立ち止まり振り返る。

「どうしました、兄上」

「気分を悪くするかもしれないんだが、聞いてもいいか」

「私で答えられることならなんなりと」

 少女の声に取り込む前に布団を何度か叩く音が被さり、この場の雰囲気を牧歌的に変える。

「お前はあっちでどういう奴だったんだ?」

「……、ご興味がおありですか。私の創作に」

 自身のことを皮肉る少女に俺は厳しい目をする。

「ああ、ある。お前の良く出来た創作に」

「そうですか……。兄上がお望みとあらば披露しない訳には参りませんね」

 小さく少女は微笑み、深く息を吐いた。

「あちらで私は騎士でした。それも妖精の」

「妖精?」

「森の木々を母とする、短命の種族です。姿はそうですね。人のように四肢を持っていて、父となる昆虫たちの翅と特性、それからみな共通してマガンがあります」

「マガン?」

「魔法の眼、と書いて魔眼まがんです。古い魔術を見破る程度の眼ですが、人間の魔術師たちの間ではこれを何よりの道具として扱っていたので多くの同胞が眼を取られました。両目以外にも妖精は見目が見目でしたから商人たちが攫っては、翅を捥ぎ、四肢を捥いで、腹を裂かれもともとの形が残っていない状態で売られて行くものも大勢見ました」

「惨いな」

 口をついて出たのは、たった三文字の言葉だ。が、少女は「ええ」と頷き返した。

「ですが、私たち妖精に悲しむことはおそらく許されてはいないでしょう」

「どうしてだ」

「私たち妖精こそ、この戦争を起こしたきっかけでもあるからです」

 空がごろろ、とぐずつき始める。

「もともと妖精はその見目に合わず、悪戯好きで根っからの嘘つきで我が身が可愛くて仕方がない。そんなどうしようもないものたちが大勢いる種族なんです」

「じゃあお前はその例から漏れるな」

 少女は困った顔で首を左右に振る。

「兄上、私もれっきとした妖精でした。しかも私は最低なことに仲間を裏切ったのです」

「仲間って、同じ妖精の?」

「そうです。長年鬱憤を貯め続けた各地の森から生まれた妖精たちが他の種族をたぶらかして始まった戦争が長期に渡って続く中、共通し得る部分を持つ種族たちがお互いに同盟を組みましたが人間だけは依然として孤立していました。その内、戦争は人間とそれ以外の亜人という図に変わって行き、血で血を洗う。そんな言葉がぴったりとあてはまるような血なまぐさい戦争へ変化したのです。私は戦時中、もっとも王都から離れ、近隣に他の種族もいないまだ若い母のもとで生まれた妖精でしたが、大雨が降った際に訪れた旅人に弟と共に捕まってしまって商人に引き売り渡されてしまったんです」

 捕まった妖精の末路については、さきほど少女から聞いた。だが、少女は別の世界ではあるものの意識を持ち、そして妖精騎士としてあったということは弟と一緒に逃げおおせることが出来たのだろうか。

「商人に捕まった後すぐに私たちは別々の商会に渡されて、私は貿易路として有名な地で他の奴隷たちと同じよう値札を置かれ売られようとしていました。きっと話に聞くようばらばらにされてしまうんだろうと思っていた時です。私たちの前で人間と牛族ホーンが喧嘩を始めてみんなの視線がそちらに集中している間に、外套を被った人間に私は連れ攫われました。人間は入り組んだ道を勝手知ったる我が家のように通り抜けて、地下に潜りこみました。そこは透明な水が溜まった場所で地上のような喧騒もなく、みなが小舟を使って移動する穏やかな場所」

 気付いているだろうか、少女は。今、自分自身が穏やかな顔をしていることに。

「私を奴隷商から連れ去った者は水辺にて住まう者たちの若き統領でした」

「統領?」

 少なからず、人望はある人間な訳か。

「どうしてそんな奴がお前を?」

「はい。彼はずっと妖精族を探していたと言っていました」

「何で?」

「戦争を終わらせるために、妖精族たちに働きかける同族が仲間としていて欲しかったそうです」

「ああ……、まあ確かに他の種族で交渉を持ちかけるよりかは同じ妖精の方が相手の妖精も話を聞いてくれるかもしれないな」

「彼もそう考えていたそうで、けれどあの地の周辺にあるのは枯れた砂漠ばかりでしたし、統領たる彼が一族のみなを置いてどこにいるのか分からない妖精を探しに行くことも憚れ、どうしようかと迷っていた際に」

「お前がいた、と」

 少女が目を細める。過去を懐かしむかのように。

「ずっと続いている戦争が終れるかもしれない、他の種族に会っても殺される心配をしなくて、また森で弟やほかの種族の人たちと仲良く暮らしていけるかもしれない。そんな彼らの夢に私は賭けてみたくなって、彼らと一緒に戦うことにしたんです。妖精以外の人と話をしたり、行動を共にすることは私の中でも実験的なことでしたけど、今振り返ればあの日々が一番に楽しかった。こうなるまでは」

 少女は初めて顔を曇らせた。

「やらなくてはいけないことがたくさんあるのに、私はそのどれもを解決する方法を一つとして持っていない」

「そう自分を責めてやるなよ。誰もお前の立場になったらどうしたらいいかなんて分からないもんだ。さっきの司書だって事情を知らなかったからああきつく言っただけだろうし、ことを知ればきっと」

「夢路兄上」

 少女の声は柔らかい。

「知ってもなお理解出来ないこともあります。この世界には」

 諭されるように語り掛けられたその内容が頭の中で拒絶という言葉に置き換わる。そしてそれは今、少女が俺の慰めを跳ねのけた事にも適用が出来た。

「俺では役に立たないな」

「そうかもしれません。でもそうでないかもしれない」

 うたう様に少女はいう。

「私には兄上がいる。あなたがいるお蔭で私は今日まで故郷が妄想の類ではなく、本当にあるものと希望を持つことが出来ました。兄上が私と不幸を半分こにしてくれたからです。お分かりですか、兄上。あなたは私に、家に帰る道を忘れた創作物フィクションに仮住まいとそこで生活する上での知識をお与え下さった」

「そんな大層なことをしてやれた覚えはないんだが」

「それが兄上の薄情なところです」

 少女は容赦なく俺が突かれて痛いところをさっと上げ、前に進む。俺は少女の影を踏みながら、尋ねた。

「これからどうするんだ?」

「あの図書館にはもう行けませんし、かといって自分で図書館のように書物を集めるには限界がありますし、ほかの図書館にも行ってみてはいいかもしれませんがあの調子だとブラックリストに載せられていてもおかしくはありませんね」

 淡々と語る少女の口ぶりはどこか楽しげだ。

「お前、楽しんでないか」

「まさか。ただあの方は本当に正しい行いをしたと思って、すこし嬉しく思っただけですよ」

「ちなみに聞いておくが彼のどこら辺が良かったんだ?」

「そうですね……。他の人は私のことを放っておいたのに、斬り込んできた辺りでしょうか。賞賛に値するとは思いませんか?」

「ただ資料を探していただけのお前に?」

「それは兄上からの視点だけであって、他の視点ではもっと愉快なことになってしまっているんですよ」

「愉快、ね。生憎と分からん」

「そんな兄上が私は大好きですよ」

 それこそ無用な優しさというやつだった。暗に、鈍感と言われているようだったのだから。

「それはどうも。で、話を戻すがお前は故郷を探すんだろう?」

「むろん。それこそ我が悲願なのですから。水辺の民の仲間たちが傍にいるとはいえ、やはり戦争と無縁の場所で生きて来た少女に長居をさせる訳には参りません」

「って言ってもな……。お前が元いた世界でそういう魂というか、人の精神を別の世界にいる人間に入れ替えるだなんて芸当は一般的だったのか?」

「いいえ、おそらく当代の高名な魔術師たちでさえ不可能でしょう」

「じゃあ?」

「……、この状況は明らかに人知を逸しすぎています。道具を用意したからといってそう易々と行えるようなものでもない。となれば、何者かが禁則を破ったのではないかと」

「禁則?」

「はい。これは私も昔、母から聞いた話なので事実かどうかは不明ですが、各々の種族にはそれぞれ土地と種を反映させる為の宝物ほうもつがあると。それぞれの宝物には呪いまじないがかかっていて長老でないものが無理に解いたり、使おうとした場合は相応の代価を支払わなくてはならないとか」

「諸刃の剣って奴か」

「ええ。それに宝物はあくまでも種のために使うものであって、戦争に使うことは禁則――決して破ってはいけないことだと」

「だがそれも口約束とか、母親からそうしてはいけないと言われるだけだろう?」

「まあ、それはそうなのですけども……。他の種族も例外ではないですし、破ることなどありえない筈ですが」

 俺は両肩を落とし、「現状を見てみろ」と厳しく言った。

「そう、そうですね……」

「だろう? もし認めたくないなら仮にで進めてみよう。誰かがどこかの種族の宝物を持ち出して禁則を破ったとする。そしてお前はこの世界に飛ばされ、お前が今借りている体の持ち主はお前の体に入った」

 言いつつ、俺はあれと首を傾ぐ。どの種族の宝物がそんな真似が出来るのかという話ではない。答えは単純明快だ。

「分かった」

「分かった? 何がです?」

「待て、その前に聞かせろ。お前は統領たちと出会ってからどういう立ち位置にあったんだ?」

「私、ですか。そう、ですね……。反乱軍の一騎士ではありましたけど力比べで言えば牛族のアーラの方が強かったですし、知恵比べだと両羽族ハーコー、戦況をかき乱す役目はいつも鬣の一族ブシャンでしたし。統領からはお前は鍵になれとは言われていましたけど、あれも結局何のことを指していたのか……」

「分かった、分かった。控えめに言っても、お前単独を狙う奴はいない、そうだろう?」

「ああ、はい。妖精族ですからそれこそ寝込みを襲われて何度かまた売られそうにはなりましたけど、戦闘で私個人を狙いに来る輩は少なかったですね。それに私はもっぱら、秘術を見破る役で……、ああ統領が言ってた鍵ってこのことか」

 少女の疑問が一つ解決すると同時に、俺は水面に新たな疑問を投げ落とす。

「禁則を破るってことは相当マズイことなんだろう?」

「それは歴史が証明しています。この泥沼の戦争で困窮を極めている種族もいくつかありましたが未だに宝物を持ち出した形跡がありません」

「そう、となると一つ疑問がある。どうして誰かは禁則を破ってまでお前に宝物を使ったのか」

「……? 兄上すみません、意味がよく」

「いいか、考えてもみろ。どこの誰かは知らないが、お前に使われた宝物の効果はすさまじい。なら、使う相手だってお前じゃなくてもっと他にいたとは思わないか」

「言われてみれば……。反乱分子が気にくわなければ統領の精神も私のようにすることが出来たし、ほかの軍の頭だって同じようにして弱っているところを突くことが出来る。こういうことですか」

「そうだ、なのに誰かはお前を選んだ。この意味が分かるか」

 ぐずついたままの空、閑静な住宅街の間に挟まれた線路がカンカンと警告音を立てる。

「お前は、誰かにとって邪魔だったんだ。だからこそ宝物を使われてこんな場所にいる」

「……お言葉を返すようですが兄上、私ですよ? 統領から騎士の位は賜りましたが、私は妖精族の、術を見破るくらいしか能がない妖精なんですよ」

「俺もお前に返してやる。それはお前からの視点だけであって、ほかの視点ではさぞ痛快だと腹を抱えて笑っているかもしれないぞ」

 少女はまじまじと俺を見、「私は……、誰かに怨まれていたのですね」とぽつり呟く。

「そういうことになる」

「心当たりがないわけではありませんが、そう分かると辛いことですね」

「そうだな、けど誰かに怨まれない人間なんて俺はいないと思う」

「どうして?」

「心だ、心があるからだよ」

「それはまた、厄介な」

「ああ、厄介だ。厄介だが、人間をより人間らしくする大切なものだ」

「兄上にも、私にもある?」

「もちろん」

 答えると少女はふっと笑う。

「ならば私は考え直さなくてはいけませんね。兄上の仮説が正しければ、私は誰かを傷つけたことになる。その誰かは今は分からないけれども私が何をしたのかを知って謝らなくては」

 凛と立つ少女の後ろ、線路を挟んだ奥に影が立っていた。影は何も言わず赤紫色の光を影の隙間から辺りに散らした。

「兄上?」

「え、ああ」

 呼ばれ、影がいた方向を見るもそこには何も立っていなかった。気のせいか。

「悪い、何でもなかった」

「そうですか? さ、帰りましょう。お母さんが美味しいご飯を作って待って居て下さるはずですから」

「ああ、そうだな」

 線路を渡りながら相槌を打つ。「兄上」と少女に呼ばれ振り返る。

「どうした?」

「誰かが待ってくれているって、とても平和で素敵ですね」

「そうだな。けどお前たちの世界も戦争が終われば、きっとそうなるよ」

「ふふ、そうなれれば嬉しいです」

 言いながら、少女は微笑んで一歩を踏み出そうとした。が、すぐに笑みを掻き消し、困った顔を俺に向けた。

「兄上、逃げて下さい」

「え?」

「早く、どこでもいい。私から逃げて下さい」

「何を言い出すんだ。何かあったのか?」

 狼狽する少女のところへ行こうとすると、それを分断するかのように遮断機が俺の目の前でゆっくりと降りて行く。赤い電灯が点滅し電車が通過することをけたたましく告げ始めた。慌てふためく心の内を宥めつつ、俺は大人しく線路の中で止まる少女に声をかける。

「おい、早くそこから出て来い。もうすぐ次の電車が来る」

「……っ、駄目です」

「何を言っているんだ、走ればすぐだ」

「そうじゃない……、そうじゃないんです。これは」

 大きな眼鏡の奥で澱んだ瞳がもう片方の目と同じく爛々と輝いた。

「呪いです、呪いがかかっていて体が……っ!」

 四肢を動かそうと少女はもがくが、ぴくりともしていない。俺は短く舌打ちをうち、「待っていろ」と線路の中に入ろうとする。と、その時少女の眼球がびく、と動いて何かを捉えた。

「いけません!」

 厳しい声だった。

「いけません、兄上それ以上こちらに踏み入っては」

「馬鹿なことを言うな、俺しか助けられる人間はいないじゃないか!」

 少女は難しい顔をし、唇をかみしめている。

「いいえ……、この場に私を助けられる方はいらっしゃいません」

「なっ、俺じゃ無理だっていうのか!」

 かんかんかんと苛立ちを増長させる危険信号は高く高く鳴り響いている。

「そうじゃない、そうじゃありません。兄上は何時だって私を助けてくれました。けれど、けどこれだけは無理なんです。ああ、お願いです。兄上、私にこんな惨いことを言わせないで下さい。私はあなたに嫌われたくなんかない」

「なら、助けさせてくれ! 頼むからこのまま死ぬな、お前は故郷に帰るんだろう。帰って戦争を終わらせてその子の悪夢を終わらせて、お前をそうさせた相手とだって」

「そうです……、そう。あなたがその道を示して下さった。この道を途絶えさせたくなんてない。でも……」

 少女の瞳に俺が映る。

「あなたを道連れにする道なんて、私は選べない」

「道連れ? 俺は線路の外にいるんだぞ?」 

 ぽたぽた、と小雨がアスファルトの地面に涙痕を残して行く。少女は無言だった。

「なあ、なんとか言えよ」

「兄上」

 があああ。列車がすぐそこまで近付いている。

「あなたとわずかな間だけでも一緒にいれたこと、嘘偽りなく幸福でした。あなたは愉快で、優しくて、統領を思い出しました。だからこそ私はあなたに恩返しもしたかった。この世界で私がまともに生きることが出来たのはひとえにこの少女とあなたのお力があってこそだから」

 別れのような言葉が胸に刺さる。嫌だ、と断りたかったのに、何故だか眠いのだ。途方もなく。

「不心得者の妖精をお許しください。そしてお逃げ下さいませ、私より」

 ぷつん、と糸が切れる音が頭から聞こえる。その音と同時に、強烈な眠気が俺の瞼に根を張った。体は無様にその場に倒れ、赤の警告と灰色の車輪音が不気味に混じったものを夢のように聞く。

 駄目だ、眠っちゃ。眠ったらあの子が助けられない。そう、あの子が。

 ……、”あの子”って誰だ? 俺はつい今しがたまで誰と話していたんだったっけ。……思い出せないな。そも何で眠っちゃいけないと思ったんだろう。眠ろうが眠るまいが、俺の勝手だと言うのに。そうだ、誰かが死ぬわけでもなし。欲には従ってしまおう。

 熱に溶ける氷菓のように、穏やかな眠りの中に意識が落ちる。その途中で、岩がぶつかったような衝突音が頭を揺さぶるかのよう鈍く響いていた。

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