愛で庭
「ああ、退屈だ」
黒い煙がもくもくと沸き立ち、充満する空間に幼い声が響いて聞こえた。
「久々に起きたというのに誰もいないじゃないか。目を瞑る前とまったく変わらん。……ん、待てよ。たしか、とこやみの中にいくつか作っておいたような……」
濃い煙の中から白い指先がにゅっと突き出、我が子を愛おしむ母のような手つきで希薄なそれを撫でて行く。
「ずうっとみんなを隠していてくれたんだな。辛かったろう。だがもう大丈夫だ。すこし疲れたろう。眠っておいで」
その一声で辺りを覆い尽くしていた煙がすうっと地面に溶けて行った。濃い煙に隠れていた中にいたのは、金の糸で刺繍を凝らした白の衣に身を包ませた小さな子どもだった。
性別がどちらなのかはわからない。つやつやとした髪を飾る華やかなかんざしを見るなら少女と言えるが、その横顔は勇ましく澄ました目元などは少年のものに見えた。
しかし分からなかったのは、性別だけではない。口調もそうだったが、この子どもには子ども特有のあどけなさや無垢さといったものが皆無だった。形だけを取り繕い、その頭の中にはまったく別な思考が備えられているとしか考えられなかった。
子どもはぴちゃぴちゃと足音を立て、足元に沈む暗い海を見つめた。
その海の中には、蛍火のように瞬く光が無数に眠っている。それら一つ一つを確認し、子どもはふと顔を上げた。
「うん、よく成長している。やっぱりとこやみの中に置いて正解だった。さて、それじゃあわたしはこの景色をどうにかしないといけないな。主の庭とは思えない程、こざっぱりしている」
両手に腰を当て、子どもの目が周囲を見渡して行く。延々と続く白で出来た空間のさらにその先まで。
「……、よし決めたぞ」
にんまりという言葉がぴったりとあう顔で子どもは笑い、一人歩き始めた。そこは殺風景としか言いようがない場所で、障害物となりそうなものはおろか、「物」という「物」が見当たらなかった。
難なく目的地に辿り着いた子どもの足元には、子どもが最初にいた場所よりも光がたくさん眠っていた。子どもは澄ました顔をだらしないく緩め、「ああ、素晴らしい」と感嘆の息を吐いた。
衣が濡れるの構わず、子どもはその場に膝をつき思い思いの輝きを見せる光の一つに向かって手を伸ばす。が、子どもが掴もうとしている光は何かに遮断された向こう側にあった。
でなければ、子どもが平然と歩くことは不可能だからだ。しかしどうしてか、子どもの指は容易く硬い膜を突き破り、きらきらと眩く光るそれを掴み取った。
光を握った子どもの手が暗い海からゆっくりと抜き取られ、透明な水の底から灯篭が浮かび出て来た。子どもの手の中にあの光の姿はなく、海の中に入れたはずの手は濡れてもいない。
これだけでも十分に我が目を疑う事態だが、不思議なことはまだ残っている。
確かに水の中から現れた灯篭の中の蝋燭が火を灯しているのだ。
それは現実的に考えてありえないことだった。だが子どもは目の前で起きるそれらを目視しながらも驚いた顔すらせず、それどころか慣れた様子すら見せるのだった。
水の上に浮かんだ灯篭はその流れに従って、航海に出る。子どもは灯篭を追いかける訳でもなく、かといってその場から離れることもなく、そこから動こうとはしなかった。
するすると奥に流されて行く灯篭の火は星が瞬くように縮み膨らませて、最後に「ぼっ」と爆発したかのような音を立てて水面になにかが散る影を描いた。
その影を見た子どもは衣の懐から縦に長い紙束と筆を取り出し、無尽蔵に湧く足元の水に筆の穂先を濡らして紙束の上に筆を走らせた。紙の上に書かれた文字は、「はる」。
子どもは筆を衣を留める帯に挟み、「はる」と書いた紙を破って灯篭の前に進み出る。
「美しい子よ。おまえの命は短い時を繰り返す。おまえが目覚める時は、きまって冷たく誰の声もしない寝床からだ。だけれども、おまえの命の中には他の誰よりもたくさんの命が芽生え、息をする。彼らの輝く瞬間を見つめよ、そして愛おしむように」
祝詞のような言葉を紡ぎ、子どもは手に持った紙を灯篭の中にある蝋燭の上にかざした。紙は蝋燭の火に炙られ、そこに書かれた「はる」の文字を黒く焦がして行く。そこにある意味を食むように。
紙すべてが火に舐められ黒く変じたが、煤けた色をしたその部分から淡い色の塊が盛り上がり始めた。塊は火傷痕のように徐々に膨れ、やがて花の頭と皺枯れた薄緑色の翼をもつ小鳥が生まれた。
小鳥は子どもが差し出した手の甲へと乗り移り、美しい声で鳴いた。
「さ、おまえの好きな場所を選んでおいで。そこが今日からおまえの寝床で、おまえの体になる」
小鳥は子供の手により、空へと投げ放たれた。一瞬、小鳥は吃驚したようだったが、すぐに自分の体の使い方を思い出して翼を力一杯動かして広い庭の中へ消えて行った。
子どもは小鳥の姿が見えなくなるまで、去って行くその姿をずっと見つめていた。間もなく小鳥が消えて行った方角から暖かな風と共に可愛らしい色をした花びらが乗って戻って来た。水の上に乗り、くるくると回って底に沈んでいく花びらの一枚を子どもは掬い上げ、うっすらと微笑んだ。
「よきかな」
満足げに子どもは嘯いた。花びらを衣の袖に落とし、海の中に眠る光を起こしに行った。
「はる」と名付けた小鳥を作ってから、子どもの周囲には蝋燭の火が消えた灯篭が幾つも並び、水面を漂っていた。そしてその灯篭の数に応じて、海の中にあった数々の可能性は減り、庭が色と姿を持ち騒がしくなって行くのだった。
子どもが手にしていた紙束の枚数が半分より少なくなった頃、子どもは新たに作った灰色の蜥蜴を放ち、その姿が見えなくなった時を見計らって「ふう」と息を吐いた。
「流石に疲れたな」
そう言って、子どもは背中から倒れた。衣は濡れたが、水が孕む冷たさが子どもには心地よく感じられた。体は今まで味わったことがないほど熱っぽく、指を動かすことすら億劫になる。
手足に張り付いていた感覚が抜け落ちると、瞼の上に眠気がどっしりと座り込んだ。
「だいじょうぶ……、今度はきっと誰かがわたしを起こしてくれる」
瞼を瞑り、子どもは――否、この庭の主は一人ぼっちで生まれた時からのささやかな願いを口にし眠った。
眠りに落とされた主はきまって銀の粉が散りばめられた分厚い布に包まれている。
そこは庭とはまた違った場所だった。まず距離感が掴めない。頭ではこのくらいだろうと計ってみても、実際に手を伸ばしてみるとあっさりと期待を裏切られることがままあった。
以前に眠った時は、そこには自分一人きりだったが今回は違った。
先ほど、形と名前を与えた主の子らがみな主と同じような布に体を包まれ静かに眠りについている。
その様子を見て、主はほっとする。
自分は、一人ではないと。特別ではあっても、同じところに行けるのだと。
胸の内を安堵が癒して行く。ついには、子らと同じく眠りの中に意識を溶け込ませてしまおうとした。そんな時だ。
「――――」
声だ。誰かの声。随分と遠くから喋っているからなのか、何と言っているかは分からないけれど。
「――さん、――……兄さん。起きて、ゆめじにいさん」
主は勢いづいて起き上がった。耳元で今、はっきりと声がした。しかし主の周りにそれらしき姿はない。
みな、眠っている。
「今のは……」
聞き覚えのない声に主は首を傾げた。次いで「ゆめじ」という名前を口の中で繰り返す。与えた覚えがない名前だ。よって、姿も知らない。
が誰のものかも全く分からない声は、庭の主すら知らない名前の相手をはっきりと呼んだのだ。
「いったいどういう事だ?」
顔を俯ける主の目にあるものが映った。暗い寝床の上に白い糸を張り、薄緑色の体を支える……生きもの。見覚えがない生きものだった。
恐る恐る指で触れても見たが、少し身じろぎする程度だ。
見れば見るほど、作った記憶がない生きものだ。しかしそれはおかしい。主が作ったからこそ、この生きものはここにいる。逆を言えば、作っていない生きものはこうして存在することはない。
それがこの庭の第一条件だった。
主は訝しみつつ、てのひらの上にその生きものを乗せた。警戒心がない生きものなのだろう。もぞもぞと動いた後は、ぴくりとも動かなくなった。
死んだ、という訳でもなさそうだ。生きものの体は小さく出来ていたが、それでも命を持って生まれたものの温かさがあった。
その温かさに主は目を細め、優しい声でいう。
「生きているのか、おまえも。……、名前をつけてやりたいのは山々だがおまえは一体何だろう」
主の問いかけに生きものは答えなかった。主はそれを笑って許し、自分の目が届く場所に生きものを置いた。そうすれば眠った後、ここで休息を取る永い時の間に生きものが目覚めるかもしれない。
主の子らは規則的に息をし、その残りかすのような泡が上空へと上って行く。主は彼らに習い、その頭を心安らかなこの場所に預けた。
主の視界は、閉じられつつある。ゆっくりと。あと一押しでその意識すらもが遠くへと飛んでしまいそうだった。
「ゆめじ」
誰が呼んだのか、どんな相手を呼んでいたのか。分からないこと尽くしで出来たその名前を口にすると、色も形もない瞼の中を黒い影がひらひらと飛んでいた。
主はその影を掴もうと手を伸ばし、そして。
・
・
「っ、う……?」
硬く目を瞑って、何が起こったのかと言わんばかりの顔を子どもは浮かべた。「カチ」「コチ」と頭上から降る音に空を見上げると大きな剣と短い剣が眠る前から出来たばかりの時をしっかりと刻んでいた。
剣が互いを追いかけあう姿に、子どもは長い息を吐いて立ち上がった。頭がどうにも重たいせいで、子どもの機嫌はあまり宜しくはなかった。
子どもは腫れぼったい熱を放っている目に手を当てようとして、海の暗さに隠されつつも鼓動の調子で輝く光の存在に気付いた。その個体にそれほど力は感じない。強いて言うなら、もう少しこの中で育てなくてはいけないなという程度で。
だけどもその光を海から取り出して、何が生まれるのか知りたくもあった。いや、本音を言えばおそらくこうなるであろうという予兆があるにはあるのだ。不思議なことに。
「……、奇妙なことだらけだな」
子どもは両肩を落し、片膝をその場について水に濡れた片手を海の中へと入れた。子どもの手は海の中を掻き分け、奥深くまで入り込んで行く。子どもが手に掴もうとしている光は海の一等暗い場所に好き好んでいるようだったのだ。
「まったくこれじゃどんなものが生まれるか分かったもんじゃないな」
皮肉を言う子どもだったが、その横顔は楽しげでもあった。衣の前はすでにびちゃびちゃに濡れていて、恰好悪かったが子どもは構わなかった。ただ遠くにあるその光を手中に収めることだけを考えた。
それがこの庭に新たな「発展」をもたらすと期待して。
手は海の中で何度も空を切り、ようやく光を掴んだ。何度もしてきたように光は海から取り上げられ、囲いである灯篭の中に身を入れた。
灯篭の蝋燭に火が灯る。細長く伸びる火は水の上にその灯篭の中にいるものの姿を映し描いた。
四肢を持ち、丸っこい頭を持つ二足歩行の生きもの。その影の背中に当たる部分には四枚の翅があり、呼吸をするようにゆらゆらと蠢いていた。
その動き方には見覚えがある。瞼を閉じた世界で見たあの影だ。
珍しく子どもは自分の中にある「命」であって、「命」ではないものが逸る心地を覚えた。それと同時に、冷たくてじっとりとした嫌な気分も。
子どもは衣の裾から再び紙束と筆を取り出したがどちらも濡れそぼって、滴を垂らしていた。支障はない。これくらいで支障があっては、困りものだ。子どもは喉を鳴らし、確信を得てそこに在る命の名前を記した。
そのまま慣れた手つきで、紙に書いた名前を供物代わりに火で炙り燃やす。紙から浮き出て来たのは、白い糸だった。糸は「しゅー」「しゅー」と音を立てて大きくなり、最後には子どもの二倍くらいの大きさになった。
中にあった形を失った蝋燭の火は消え、残った灯篭は他の灯篭と同じように流れに沿って進み始めた。
「……、これはどうしたものだろうかな」
水に浸かった白い塊に子どもは溜息を吐きつつ、紙束と筆を戻し、腰を屈める。
「起きなさい、ゆめじ」
落ち着き払った声に、白い塊の中にいるものが窮屈そうに動いている。子どもはけして手を貸そうとはせず、自ら出て来るのを待った。
「ぷつっ」と薄い皮膜を破る音が聞こえたかと思った次の瞬間には、息苦しいと言わんばかりに殻を脱ぎ捨ててその中にいたものが姿を見せた。
それは、子どもが先ほど焼いた紙を顔に貼りつけた人間だった。紙の下にある髪の色は、黒く透き通っている。人間は紙を貼りつけた顔を子どもに向け、「……あんた、誰だ?」と不躾な問いをかけた。
子どもは意地悪そうな表情を浮かべ、「おまえの元だ」と告げる。
「俺の、元?」
「そう。だけどおまえはわたしじゃないし、わたしはおまえになれない。おまえがおまえである瞬間に、おまえはわたしではなくなり、わたしもおまえではなくなったんだ」
「何言ってんのか、ちっとも分かんねえ」
子どもは丸っこい顎を撫で、苦労するなこの性格はと一人ごちる。
「なあ、ここはどこなんだ?」
「わたしの庭だ」
「庭? ……随分、ごちゃついているけど片付けなくていいのか」
「いいんだ、まだ」
子どもはきっぱりとした口調で答えた。人間は頭上で回転する時に興味を向けていたが、「カチ」と長剣が動いたのを見計らってまた子どもに視線を戻した。
「それであんたは俺に何の用事があって、俺にしてくれたんだ?」
子どもは人間をまじまじと見つめ、「用件という用件はないな」と返す。人間は答えを聞き、にやりと笑った。
「横暴だな」
「そういうものだ、わたしは。だけどそうだな。わたしの用件は済んだが、おまえに用がある奴は」
すっ、と子どもの指が遥か彼方を指さす。
「このずっと向こう側にいるらしい。いるらしいとは言っても、いったいどれくらい時が経てば済むのか。目的の相手に会えるのかどうかも疑わしいが」
「何のために生まれたんだか」
嫌味にしか聞こえない難題を子どもは顔色一つ変えず解く。
「それは、おまえがこれから見つけるんだ」
「あんたは知らないの?」
子どもは呆れ顔を見せる。
「言っただろう。おまえがおまえになった時、わたしはおまえではなくなったんだって。わたしはわたしのことしか知らない。おまえの面倒はお前がしなければ誰もしてくれはしない」
「そういうもの?」
「そういうものだ」
「ふうん」
納得したような、いかないような曖昧な声色だ。つられて子どもも「ふうん」と言いそうになったが、喉元で堪えて人間の前に立った。
「最初に言っておかなくてはいけないことが幾つかある」
「どんなこと?」
「おまえの人生について、だ」
「俺の人生?」
「そうだ。おまえの人生は、わたしのものではないが、おまえ自身のものでもない。おまえの人生は、誰かの命の上に成り立ってあるもので、おまえはおまえではない誰かの命に寄生しなくては生きることができない」
「……、迷惑な話だな」
誰にとって、とは聞かなかった。子どもは続ける。
「そう生きるようになったのは概ねわたしの寄るところが大きい」
「悪びれないんだな」
「悪びれて改善出来ることではないからな。それに許す、許さないなんて鼬ごっこの愛憎劇みたいなものだろう。だからわたしがおまえに言えることは、これをわたしからの試練と思って、この道の中でおまえなりの最善を見つけろということだけ。けれども気をつけなくてはいけない。おまえの最善は、鼻っからおまえ一人では見つけきれないものだ。おまえの旅は、常に他者とある」
「苦労が多い人生だな」
「おまえの人生だよ」
「あんたが作った」
「いいや、わたしだけじゃないよ。おまえがこの道を行くことを、そこでおまえと会えることを待っているのは」
「コチ」「ゴーン」「ゴーン」時が、始まりの合図を鳴らす。
「夢の
人間の顔に貼りつけられていた紙の端が破られたかのように破片となって行った。
紙に隠されていた人間の顔はひどくぼんやりとしており、緩やかな顔の線は卵状の形を描いて相手に無害な印象を与える。人間が顔を顰めたり、笑ったりすると唇の端が上がって白い犬歯がちらと覗いた。
が、極めて凡庸な顔立ちだった。
ただその目は、彼がもともと一等暗いとこやみの中にいたこともあってか、同じような色をしている。そして時折、黒の中に緑や黄色といった色が模様を作り消えた。
子どもはくしゃりと寂しそうな顔で呟いた。
「お前はどんな命と出会って、影響を受け与えるんだろうな?」
「他人事だな」
「他人事さ、おまえはおまえなんだから」
子どもが片手を足元の海めがけて振るえば、海の中に一筋切れ目が入り、そこか赤くどろりとした液体が海の黒さと混じり陰鬱な色になる。不気味な色に夢路は顔を顰めた。
「よい旅を、夢路」
「……、あんた本当に誰なんだ」
子どもはぽってりとした唇の前に、人差し指を置く。
「この世で一番その問いをしてはいけない存在だ。なぜならば、わたしは疑問の上に存在がないからな。わたしの存在があるのは、たいてい救済を求める声の上なんだ」
「意味分かんねえ」
吐き捨てた言葉に、子ども――庭の主は「あはは」と笑って夢路の胸を押した。夢路の薄っぺらい体は海に落ち、でろでろと海に流れる赤い液体と一緒に混ざり見えなくなる。
「ああ、楽しみだ」
かみはわらった。
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