腹の中、告げる、粉砂糖は、希望のケーキの上に
それは間の抜けた音と共に、始まった。
『――月緑地化計画、一○四七八四日目です。今日の月の天気映像は快晴。所により、雨が降る予定です。それでは
平穏さを装った女性の声は定型文を読むかのごとくだった。
「……、なんだったんだ。今の?」
睡魔が残った瞼を擦りながら、暢気に欠伸を噛み殺し、青さが眩い芝生の上から立ち上がる。次いで、辺りを見渡すも生憎と見覚えがない景色だ。……、不法侵入か。
眠る前の自分がしでかした事の大きさに頭を抱え、どうしたもんだろうかと唸る。が、結局のところ、するべきことは決まっているのだ。
まずは無駄に広いこの場所から人を見つけて、責任者がいたらその人を紹介して貰って、勝手に入り込んだ挙句に堂々と居眠りをしていたことを謝らなくては。決意を固めて、俺は寝心地の良かった芝生に別れを告げる。
道はすべて舗装され、獣道めいたところは一つもない。道の両脇にぽつぽつと並んだ木の幹にはぽっかりと穴が開き、ちょうど家主である鳥たちが顔を覗かせる。
その先にはため池があり、白い花を咲かせた蓮が浮いており、覗くと赤白まだらの魚が身をくねらせ泳いでいた。さらに先へ進んで行くと、女神を模したと思われる彫像の周りに色鮮やかな植物が植えられ、その周囲を虫たちが飛び交っていた。
ずいぶん平和臭さに満ちた庭園だな。感想を漏らして、しかし変だと顎に手を置く。
綺麗に均された道はどう見ても動物の為にではないし、年期が経っているようにも感じられはしないのだが、肝心の人がどこにも見当たらない。さっきから見つけるのは全て人の言葉を介さないものたちばかりだった。
変なもやもやが胸の内でくすぶりつつあるのを感じながら、庭園の中を彷徨い歩き、噴水が設置されてある公園のような場所でいったん休憩を挟むことにした。
ふうと人息を吐いて、空を見上げる。硝子張りの向こうに青く輝く惑星がある。
「神さまに愛想でもつかされたか?」
その存在を信じている訳ではないが、どうも強く否定することは出来ない。無神論者でありながら、幽霊程度にいるかもしれないなと思っているのだ。自分でも面倒くさいけれど。
「いいえ。
「良かった、それなら安心出来……」
降って湧いた声に、俺はぎこちない動きで体を反転させる。するといつの間にいたのか、俺の隣には雪でも降りかけたような白髪に炭酸水みたいに青い目を持ち、染み汚れ一つない真っ白な長上着――アオザイを着た青年が地面から少し浮かび上がって立っていた。
「幽霊、じゃないよな?」
「ええ、勿論」
「そうだよな、やっぱり」
「私は
「プログラム?」
「はい、兄様」
青年は無邪気に笑う。
「現在、私たちがいるこの月では月緑地化計画が実行中の状況にあります。その為、この計画に賛同、投資を頂いた国の方々には大変ご不便ではあるのですが、計画完了のその日まで本ドーム内にあるチューブにて
「……ええと今、月に緑を植える計画があって、その作業を任されたのがお前ってことか?」
「ご理解頂けて嬉しく思います」
あれだけ噛み砕いて説明して貰えればな。はは、と苦笑していると、『ポーン』という音がどこからか聞こえる。
「
青年は小難しいことを喋った後、朗らかな笑みで俺に微笑んだ。「お茶にいたしましょうか、兄様」これ以上ない申し出に俺は即座に首を縦に振った。
青を基調にしたタイル張りの道を歩く中で出会う動物たちについて、青年はつぶさに話した。その話し方にあまりにもそつがなかったもので、冗談ぎみに「全部把握しているのか」と尋ねる。
返答は、「はい、みんな私の大事な家族で友人ですから」だった。
ここに一体何種類、何百匹の動物がいるのか分からない。だが彼は全てを理解しているらしい。頭が痛くなりそうな話だ。
「兄様、こちらです」足を止めて唸っていた俺に青年が手を振った。俺は小走りで青年の後に続き、錆のような緑色をした丸い机と椅子がある場所へと案内された。青年は椅子を引いた状態で止まっている。ひょっとしてそこに俺が座るのだろうか。ためしに自分の顔に指を向けてみると、彼は俺の疑問をやんわりと肯定した。俺は無言の勧めに従い、腰を落ち着ける。とほぼ同時に、鼻をくすぐられるような香りが風に乗って流れるようにやって来た。
横を確認すれば、青年が銀色のカートの上に茶器を置き、温かい湯を注いでいる。
「何してるんだ?」
「兄様にお茶をご馳走したいと思いまして」
分かっていることを質問したのに、青年は楽しそうに答え、湯気が立ち上る白い茶器を俺の前に置いた。茶器の中には、白い花びらが一つ浮かんでいる。
「どうぞ、菊茶です。兄様のお口に合うと宜しいのですが」
謙遜する青年の言葉を聞きつつ、俺は茶を一口飲んだ。蜂蜜も入ってあるのか、控えめな甘さと共に温かさが口の中に広がる。ほっと安心するお茶だった。
「美味い」
素直な感想を述べると、「良かった」と胸を撫で下ろし、空いた席に座ってもいいかと許可を求めた。ただの闖入者である俺に許可する権利など元よりない。
だが、茶と入れ替わりに青年が新しく出した花の印が押された饅頭を見つけて、取りたてもせず頷いてしまった。
青年が椅子に座る動作は傍目から見ても滑らかなもので、気品すら感じさせる。青年から受け取った饅頭を頬張り、ふと青年を見ると彼は茶を飲んではいなかった。
「お前は、飲まないのか?」
彼は青い目を見開き、その後恥ずかしそうに「はい」と頷いた。
「どうして?」
「私はプログラムですから」寂しそうな声だった。
「プログラムだと飲み食いしちゃ駄目なのか?」
「いいえ、禁止されている訳ではありません。物理的に無理なのです」
頑なに否定の言葉を口にする青年に何かを返してやりたいが、俺自身がそもプログラムとは何ぞやというところで止まってしまっていた。
「質問してばっかりで悪いけど、そのプログラムっつうのは一体何なんだ?」
「そうですね、そこからお話いたしましょう。一度ご説明させて頂きました月緑地化計画には、天文学的な資源と人員、費用、そして最大のネックである時を投入して初めて成功すると言われてきました。その為、これまでの長い間、ずっと先延ばしにされて来た計画ではあったのですが、とある科学者が人員と時、この二点の問題だけなら上手く解消出来る。そう宣言し、数年の歳月をかけられてコンピューターに打ち込まれた
「あー……、要するに?」
「私は人ではないということです、兄様」
”人ではない”と、彼はそう言うが青年の見目は人以外の何物にも見えなかった。
「だから私には、夢はない。ないはずなんです」
ぼそりと呟く青年に顔を向け、「何か言ったか?」と問う。彼は力の抜けた笑みを見せ、「いいえ、兄様」と微笑むだけだった。
「今までの話から判断するに、お前が人の姿に見えているのはそのプログラムっていう物のせいなのか?」
「ええ。博士が私を作る際にご自身の持てる全ての技術を付属して下さいましたので私には」
青年はてのひらを拳の形にし、机をコンと叩いた。
「このように質感があります。それと温度も」
つまりは人に近しく、けれどもやっぱり人じゃないってことか。
「どうしてまたそんな風に?」
「人は、限りある命ですから」
「お前にはそれがない?」
「母胎と私を成す
「例外って?」
「
「いや、今一つ」
青年は椅子に座り直して、「いわば、銃を持った病原菌です」という。
「随分と凶悪なものの例えをするんだな」
「私には彼らがそう見えますから。最新の
「そこまでなのか」
「
成程なと頷き、ふと疑問が生じる。もしもの話ではあったが、その凶悪な存在に彼が負けるようなことがあった場合、この計画はどうなるんだろう。仰ぎ見た空には、白い綿毛が大群となり空を泳いでいる。
「もし、お前が死んだら?」
不躾な問いに対し、青年は堅く笑う。
「お言葉ですが、兄様。私に死という概念はありません。ただ私の元となった
「それはつまり、死だろう?」
繰り返す俺に、青年は不毛さを感じたのかもしれない。「兄様は優しい」とだけ述べた。どうしてそうなるんだか。微妙な表情を取る俺に、青年は困ったように瞼を瞑って呟く。
「仮に私にも『死』が運ばれたとして、その時計画が未完了にある場合は新たな管理人が生まれるよう設定してあります。また計画が完了した時点で私の仕事は終わりますので、その時にも私は消滅するよう組み込まれてあります」
俺は破顔する。それは用済みになったら捨てるという意味だったのだから。
「そんな、いいのか?」
「私に否定権はありません。それに……、
と、青年の手の上に写真のようなものが現れる。
「それは?」
「人類の目標であり、私の役目です。兄様」
青年はそう言って、自身の掌の上に浮かんだ映像を俺の前に出した。
銀粉を撒き散らしたような輝きを放つ月に、半球型を模した建築物がいくつもくっついている。「パシャ」映像が切り替わる。森の中のようだった。よう、と比喩を使ったのは、俺にもそこが森と確証すべきか分からなかったからだ。なにせそこは木々が生い茂っているにも関わらず、点々と背の高い洋灯があった。
しかし森に住む獣たちはそんな人工物を気にせず、熟した木から落ちた木の実や果物をもぐもぐと食べ、木と木の間にハンモックを吊るし眠っている人間など相手にしていなかった。
「パシャ」また映像が変わる。今度は、学生の一団だった。みな揃いの制服を着用して、手にはスケッチブックと筆記用具を携えている。
引率の教師らしき女性は先頭と最後尾に連れ添い、学生のひな鳥のようなお喋りに相槌を打っては、「あそこにもいるわ」「さ、描いていいか許可を貰ってらっしゃい」と一人一人をどこかへと送り出す。
送り出した先には必ず動物たちが居て、学生たちは友達や隣の家に住む人に挨拶するかのごとく、「やあ、こんにちは」と手を挙げる。動物に話したって通じる訳がないのだがと高をくくっていると、動物は学生の方を振り返って深々と「どうも、こんにちは」と礼儀正しく挨拶を返す。
「これは?」
「計画の一端で、博士の夢です」
「動物と話せることが?」
「はい! 博士は子どもの頃から、動物と話をすることに大変興味をお持ちだったそうです。それで自分と同じ年頃の子どもたちも夢を壊さず、話をすることが出来たらと翻訳装置を作って下さいました。あ、いずれは機械に頼らず、人間と動物両方そつなく喋れることが目標ですよ」
喜々とした顔で人に象られた青年が語る夢に、「バラバラにされなければいいが」と俺は言った。
「聖書ですか」
「え?」
「兄様は種族間の統一によることで、神の怒りを買い、言語が複雑化されてしまうことを懸念されているのでは?」
「いや、俺は無神論者だ。神は信じていない。けど」
否定する気にもなれない。不思議なことに。
「悪いな。お前を作ってくれた人の夢にケチをつけてしまって。気分を悪くしただろう」
「私がですか?」
「ああ。大事な夢なんだろう?」
「……、それは博士にとってという意味でしょうか?」
俺はすっかり冷めた菊茶を口に含んで、「お前にとってもだよ」と答える。がいくら待っても彼からの返答がない。俺はそろそろと青年の顔色を窺う。青年は顔を硬くさせ固まっていた。
「どうした?」
「その、なんと説明していいのか。結論に迷います」
青年は自分の口元に手を当て、人でいうところの狼狽しているような動きを見せる。
「答えに迷った時は結論を急がない方がいいぞ。ゆっくり自分の身に起こっていることを丁寧に書き出して、ほぐして行った方が良い解決策が得られるんだ」
「一つずつ……」
「そう、一つずつ」
青年は手の上にあった映像をもう一つの手と包み込み、神に祈るように両手を重ね合わせて自身の額に当てた。
「私はM1。月緑地化計画運用作動プログラム。与えられた仕事は、月を緑地化し人が安全にかつ平和的に暮らすことが出来るようにすること。私は物事を潤滑に動かす為の人でないもの。だから夢は」
言いかけ、青年は青い目で俺を捉えた。
「兄様、一つお伺いしても宜しいですか」
「それは構わないけども、俺はお前の博士ほど博識じゃないぞ。きっと」
「兄様でしかお答え出来ない質問です」
俺は面食らって、「そうなのか」と自分自身に聞くかのように呟いた。そして先を促すために、「どうぞ」と告げる。
「夢は、誰にでもあっていいものですか?」
「夢? それは人生の指針的な夢のことか? それとも寝る時に見る?」
「後者であり、前者でもあります」
「難解だな……」
眉間に皺を寄せる時、青年が無意識にか分からないが、悲しそうな顔をした。彼は夢が見たいのだろうか。それとも夢を持ちたいのだろうか。どちらかは今のところ区別がつかないが、眠って見る夢であっても、人生を輝かせる炎のような夢であっても俺として言えることは一つだ。
「夢に『禁じる』ことはないよ」
「どうしてですか?」
「さあな。でも許されているんだよ、夢は。不条理がある世界を自分の手で壊すことも、嘘みたいな場所を自分の足で闊歩することだって、何だって許されている。それが夢ってやつなんだよ。……、答えになったか?」
青年は時間を噛み締め、瞬く。
「私でも夢は見れますか?」
俺は薄く笑って、青年の額につまはじきを食らわせた。
「許可が要らないと言ったばかりじゃないか。いくらでも見てしまえよ、笑えるくらいに。ああ、でも俺みたいに寝てばかりになるのは止めろよ。博士から任された大事な仕事があるんだろう?」
「……、あの兄様」
「何だ?」
「もしこの計画が無事に完了して、私が消える前にこの庭をきちんとご案内させて頂けますか」
「それは構わないが、お前は思い返すこととかあるんじゃないか?」
「いいえ。そうしたいんです、私が」
「そうか。なら、頼もう。出来れば、いい寝床も紹介して貰えると助かる」
青年はにっこり笑った。
「かしこまりました、にい」
「ぷつり」と言葉が絶える。どうしたんだろう。そう思った次の瞬間に、青年の青い目は真紅に輝き、自分の両手を恐る恐る確認した。
「駄目だ」
「え?」
「止めろ!」
虚空に向かって、青年が吠える。途端、あんなにも落ち着き払っていた空間がざわざわと蠢き出した。そこかしこにいたのだろう動物たちも一斉に飛び出し、どこかへ駆け出して行く。
「それは博士が作った大切な……、ああ
「なあ、大丈夫か? 何かあったのか?」
「っ黙れ!」
「っ!」
伸ばした手は質感を持った投影体たる青年に強く跳ね除けられる。「あ、」短い後悔の声だ。見れば、青年の片目はまだ赤かったが、もう片方は青に戻っていた。
「兄様」青年は迷子のような顔で、片手を浮かせている。俺は片手を上げた。
「怒ってない」
「けど」
「あれくらいで怒るもんか。それより、一から話してくれ。何があったんだ?」
「……、先ほどお話をしていた
「ういるす」
「はい。しかも状況はあまり芳しくありません。こちらが予め用意していた
「それは」と言いかけて口を閉じる。最悪だ、と口が裂けても言えなかった。今、その気分を味わっているのは青年なのだろうから。
「何か、俺に出来ることはあるか?」
俺には青年がいう「ういるす」を感じれない。正直に告白すれば、俺に出来ることは青年の周りをうろつくか、声をかけることくらいだった。だけどこのまま手をこまねいて、自分も夢を見ていいかと愚かにも聞く青年のささやかで大きな夢を潰すのは忍びなかった。
乾ききった間が空き、「一つだけ、方法があります」という声に「どんな?」とすかさず疑問を挟む。
青年は薄い口を一文字に結び、「
「何だって?」
「私の中に
「そうじゃない! お前は今、自分が何を言っているのか分かってるのか!?」
「分かっています、私はM1。博士と人類の夢の為の存在だと。その中から最良な行動を選択しているに過ぎません」
「俺はそういうことを聞いている訳じゃない。お前は見たいんだろう? お前の、お前を作ってくれた人が夢だって教えてくれた理想を、お前自身の目で!」
「分かって下さい、兄様。他に方法がないのです」
俯く青年に、俺は煮えない思いを覚えた。
「誰かが犠牲になった上に出来る理想郷が、本当の理想郷になれる訳がない」
吐き捨てるように呟くと、「うぅっ」と呻く声が上がる。黒い染みが青年の顔の半分を染め上げつつあった。染みは命を持っているかのようにうねりを持っている。青年は投射することもままならなくなってきたのか、その姿は砂漠に出来た蜃気楼のように揺らめく。青年の元に駆け寄ろうとすると、青年は染みに覆われた方の顔を片手で隠し、くしゃくしゃの顔でなお笑う。
「兄様、申し訳ないのですが丘に来て頂けませんか」
「丘?」
青年が指す方角には、丘と呼ぶにはいささか高さが足りないように見える土地があった。
「あそこに行けばいいんだな?」
「はい、お願いします」
「分かった」
俺は二つ返事で頷いて、走り始めた。妙な”しな”のある細い路地は走りづらいったらなかった。何度かすっ転びそうになりながらようやく丘の上に辿り着くと、そこには天井から草の蔦が絡み合って出来た木の幹にも似た巨大なオブジェが出来上がっていた。
熱く焼けるように痛む喉で唾を飲んで、オブジェに近づいて行く。
「ご足労頂き、ありがとうございました。兄様」
振り返った先に、先ほど覆いつくされた顔半分とはまた別に白い髪も真っ黒に染め上げられた青年が地面から浮かび上がって登場した。浸食が続いている。
「大丈夫か」
「まだ核に到達させてはいませんので。博士の知恵の賜物です。それと兄様」
「何だ?」
「以降、私は残っている器官すべてを持って
俺は瞬き、青年自身が望んだことを噛み砕く。
「分かった」
「ご迷惑を、おかけ、いたします」
途切れ途切れになる謝罪の言葉を紡いで、青年はまだ
何も出来ず、見守り続けるのはいつも辛い。
……? いつも? いつもって何だろう。
「
ポーン。俺がここで目を覚ました時に聞こえた音が頭上から降る。
「了承しました。M1、今日までご苦労様でした。あなたの今日までの経験、思考は次のM1へ引き継がれ、残りはこの月を動かすデータとして活用されることでしょう」
「……、一つだけお願いがあります」
「どのようなことですか?」
「私のすべての器官はもう動くことが出来ません。よって私を、次の私を取り出す為のスイッチを代表者に押して貰いたいのです」
「それがあなたの願いなら、M1」
「お願いします」
「承認します。M1、おやすみなさい。さようなら」
女性の声がしめやかに別れを告げた後、地面が震え始めた。
「地震か?」
体のバランスを崩し、地面に体が落ちる。すぐに地鳴りは終わったが、それと代わってオブジェの前に丁寧な包装が施された四角い箱が置かれていた。見た目は完全に誰かの誕生日の贈り物だ。が、現状からかけ離れすぎていてもはや悪趣味としか形容出来なかった。
「にいさま」
おぼつかない発音が俺を呼ぶ。青年は残った片方の青い目をぎょるぎょると動かせて、「それを、その中身を」という。俺は青年の言葉通りに贈り物を拾い上げ、中身を見た。
「時計だ」
それも真新しい時計じゃなかった。誰かが使い古したような味が時計に注がれている。カチ、と針は時を刻む。こんな誰かが苦しんでいる時であっても。
「にいさま、その時計の針を止めて下さい」
「……、この時計を止めたらどうなるんだ?」
「お話ししていた通りです。今いる私は消え、次に
手元の時計に視線を寄せ、「俺は、何も出来なかったな」と零す。
「そんなことはありません。にいさまは私に夢をくれました。それがどんなに大きいことか、あなたは存じ上げないだけです」
「誰だって出来るさ。それくらい」
「いいえ、私はたとえ博士に同じことを仰って頂いてもにいさまが仰ってくれた時と同じように思えはしませんでした。あなただからこそ、にいさまだからこそ、私は夢を持つことが許されました。これは私が、次に生まれて来る私にも受け継いで欲しい思いであり、今の私が持つ最高にして一つきりの財産です」
「大げさだな」
「申し訳ありません。私は事実しか述べられませんので」
「ははっ……、なあ。これでいいんだな?」
「私にはこれしかありません。ただ一つにいさまに許してほしいことが」
「なんだ?」
「庭を案内させて頂くと言ったのに破ってしまって申し訳ありません」
声はあの女性の様に平坦だったが、その顔は悪いことをしでかして痛ましく思っている顔だった。
「……、許さないって言ったらお前はどうするんだよ」
「私はもうまもなく消失します。何も出来ません、にいさま」
「いいや、まだ出来る。お前、もう
「……、ええ」
「なら、案内してくれ」
「今から、ですか?」
「今しかないんだろう?」
尋ね返すと、青年は「ご案内します」と背筋を正し歩き始める。
丘を下り、広い庭を歩くには青年に残された時間はあまりにも短かった。それでも彼は焦ることもせず、ゆったりと余暇を過ごす老人のように庭を案内してくれた。
その途中、彼の体の映像はいくたびも乱れ、
「にいさま」青年は芝生がまんべんなく植えられた場所に俺を通した。
「ここは?」
「よい寝床をお探しとのことでしたので」
案内されるまでの道を歩きながらどうも見覚えがある気はしていたが、どうやら最初に眠っていた場所に戻って来たらしかった。
「そうか、ありがとう」
「お役に立てたなら光栄です」
俺は芝生の上に寝転び、手中に収めった時計を見つめ、青年に視線を寄越す。彼の姿はもうほとんどなかった。体のあちこちは虫食いにあったように、穴が開いていた。
「にいさま、時計を」
「ああ」
時計の留め具に親指を置き、俺は青年を見返した。
「もっといろんなことが聞きたかったよ」
青年はゆっくりと微笑んだ。声を弾ませた。
「私もです、にいさま」
唇を噛んで留め具を押す。何の反応も無かったのが虚しい。いくばくかの期待を込めて開いた世界からは、青年だけがいなくなっていた。
「おはよう、M1。一緒にまた月緑地化計画を進めて行きましょう」
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